Gallery - XII 狩野一信の五百羅漢図
― 幕末の怪しき仏画 ―
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知る人ぞ知る幕末の絵師狩野一信(かのうかずのぶ)は、ことに仏画に本領を発揮して、斬新な羅漢図を描いたが、東京都港区芝にある増上寺の五百羅漢図100幅(増上寺本)が代表作として知られている。 明治から昭和にかけて、増上寺の羅漢堂に掛けられ、寺を訪れる人々は五百羅漢図を目にすることができたが、同堂が戦災で焼失したため、一般に公開される場が失われてしまっていた。
増上寺本の姉妹本と云われる東京国立博物館所蔵の五百羅漢図50幅(東博本)が去る1974年3月に公開されたことがあったが、その後1989年静岡県立美術館で増上寺本の一部が、2003年板橋区立美術館で東博本の一部が展示され、2006年2~3月東京国立博物館で東博本全幅が公開されるに至って、一信の独特の画風に魅了された人々から熱い視線が注がれてきた。 さらに、2008年10月NHKBSハイヴィジョンで増上寺本が映像として放映され、広く知られるようになった。
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1.1 増上寺及び東京国立博物館の五百羅漢図
増上寺・五百羅漢図(増上寺本)は増上寺内源興院の了瑩(1780-1854)が発願主となり、狩野一信を絵師として、嘉永7年(1854)春に筆を起こしてより、およそ十年の歳月を費やし、文久3年(1863)に終えたと云われる。 了瑩は制作当初に没し、その後を継いだ亮迪のもと、一信は制作を続け、96幅を描き上げたところで、文久3年に没した。 享年48歳。 残りの4幅は、弟子の一純が一信の下図をもとに描いたと云う。
開眼供養ののち増上寺ではこれを本堂に掲げての「羅漢会」が毎年春秋二回、彼岸の中日に行われるようになったと云う。 その後、明治6年(1873)十二月晦日夜半、増上寺は放火による本堂罹災という不幸に遭遇するが、本図は幸いにも経蔵に納められていたため難を逃れた。 しかし、折からの廃仏毀釈の動乱の中で、しばらくは年中行事としての「羅漢会」も中断を余儀なくされたようで、漸くこれが復興をみるのは、明治11年(1878)8月、一信の妻逸見妙安の尽力によって山内に羅漢堂が建立されてからとなる。 以後、妙安自らがその堂守となり画軸の保管、朝夕の供養の勤めなどを行うに至った。 そして妙安没後は一門の人の手によってこれが受け継がれ、昭和20年(1945)の戦災による羅漢堂焼失の時まで守り続けられた。 羅漢堂は焼失したが五百羅漢図は無事保管され続けた。
一方、東博本は増上寺本とほぼ同じ図柄を描き、大きさがほぼ半分であり、各幅に二図づつ描かれている。 それぞれに白文方印「法眼一信」が捺され、50幅のうち六箇所に「法眼一信筆」という署名がある。 法眼叙位が文久2年なので、東博本完成の時期は、それ以降から没年の文久3年までと云われている。 この東博本は、同館の所蔵品台帳によれば、明治42年 明治天皇の第八皇女富美宮親王、第九皇女泰宮親王よりの御下附品であり、同宮家の要請により一信が、増上寺本の制作に先立って一つの試みとして描いたものか、あるいは、自らの試みの作であったものを、のち同家に献納したものと、想像されている。
1.2 羅漢信仰
羅漢とは梵語のアルハットの音訳「阿羅漢」の略で、小乗仏教では一切の煩悩を断絶し、尽智を得、人々の供養尊敬を受けるに値する境地に達した聖人を指す。 大乗仏教では、難行苦行の末痩せさらばえた肉体のの中に悟りの境地を得るという羅漢たちの真摯な修行の姿に、多くの仏徒は尊敬と親しみを感じ、特に禅宗の中で顕著に崇拝の対象になった。 五百羅漢の信仰は、中国では、9世紀後半ないし10世紀五台山を中心に盛んになり、やがてその姿を画像や彫像に現すことが行われた。
我が国における羅漢信仰は平安時代の入宋僧・奝然により将来されたと推定され、鎌倉時代以降、羅漢信仰とその図画の受容はにわかに活発となっている。
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一信は文化12年(1815)に江戸本所林町(現東京都墨田区立川)の骨董商の家に生まれ、通称を豊次郎といった。 後に逸見舎人という人物の娘やす(のちの妙安)の婿となり、逸見を名乗った。 生来、画を好み、はじめ、当時の江戸で画壇に勢力を伸ばしていた三代堤等琳派の絵師について漢画を学び、やがて深川扇橋(江東区)の狩野素川章信の門に入り、名も一信と改め、顕幽斎と号し、ついには狩野姓を名乗ることを許された。
一信の作品としては、弘化4年(1847)に浅草観音堂に納めた「五条大橋牛若丸・弁慶」扁額、 嘉永6年(1853)に描いた「源平合戦図屏風」六曲一双、さらにこの屏風の裏面に水墨画の「龍虎図」がある。
安政3年(1856)法橋位を叙された一信は、成田山新勝寺の釈迦堂の外陣天井に水墨金泥の「雲龍図」と金地着色の板絵「天女図」を、堂裏の壁に「釈迦文殊菩薩・十六羅漢・四天王・十大弟子図」を描いている。 また、堂の周囲を飾る五百羅漢の彫刻は、一信が下絵を描き、江戸随一の仏師といわれた松本良山が彫った。 そして,文久2年(1862)法眼位を得た。
しかし、文久3年、増上寺五百羅漢図の完成直前に48歳で没した。
その他の一信の画蹟としては、新勝寺に残る良山作の五百羅漢像のための下絵である「成田山彫物下絵五百羅漢尊御首下絵」と称する一冊があり、また逸見氏に伝わる数種の粉本類がある。 港区の大松寺、大信寺に紙本墨画の五百羅漢図の下絵が十七幅、また京都・清涼寺には、増上寺本の第五十一幅から第六十幅の原寸下絵(一信が墨描きし、妻妙安が淡彩を施している)が残っている。
さらに、フランス・ギメ美術館に、「顕幽斎一信謹画」と署名のある羅漢図四面が所蔵されている。 |