Gallery - XI  富岡鉄斎


幕末から大正まで生きた鉄斎(1837〜1918)は、生活の糧は画業で得ていたようだが、「自分は儒者だ、画家ではない」と言いつづけ、いわゆる文人画を、生涯で数万点残した。文人画というのは、本来学者や文化人が、自らの思想や人生観を画面に表す絵であり、専門の画家が描いた絵と区別しているが、鉄斎の画はその典型なのかも知れない。 

万巻の書を読み、万里の路を行き、老いるほどに輝きを増していく。 文人の嗜みとして、若い頃から描いていたが、幾冊かの鉄斎画集を繙いてみると、60歳までの若描きは3割ほど。大半は70歳以降でそれも年取るごとに増え、最後の89歳の作品が一番多い。

1.略伝

1.1 誕生〜幕末期
 富岡鉄斎は江戸時代末期の1837天保7年、京都三条通新町の法衣商十一屋伝兵衛・富岡維叙の次男として生まれた。幼名は知られていないが、若い頃は猷輔を称し、のちに道昴・道節と称した。一時期、鉄斎を名としたこともあるが、明治維新のころから百錬を戸籍上の名とし、字を無倦、号を鉄斎とした。
 
 幼い頃胎毒のため難聴となった鉄斎を両親は商人には向かないと思い、彼を学問の道に進ませようした。富岡家は代々、石門心学を家学としてきた家柄で、父も学問好きであった。鉄斎は国学、漢学、陽明学、仏教など幅ひろく学問をおさめ、このころから神官を目指そうと決めていたようである。
 師事した師はいずれも熱烈な勤皇派であったから、幕末には鉄斎も勤皇思想に傾き、志士たちとの交流も生まれ、幕府のブラックリストに載せられていたと云われる。

 学問を進める中で、十代後半から、嗜みとして絵を描き始めたらしい。絵師に手ほどきを受け、大和絵も学んでいる。もとより本格的に画家を目指してのものではなく、文人(学者)のたしなみの一つとして学んだと考えられる。
 
 血気盛んな青年時代の鉄斎に大きな影響を与えたのが、尼僧・大田垣蓮月尼(1791〜1875、幕末期の女流歌人)である。 和歌を詠み、陶器をつくる風流人として世に知られていた蓮月と鉄斎の父・維叙とは行き来があり、尼の一人暮らしを心配した維叙が、鉄斎を蓮月宅に住み込ませたらしい。鉄斎は学問の傍ら、蓮月の作陶を手伝ったり書画にいそしんだらしい。
 
 20代半ばの1861文久元年に「支那、阿蘭陀の事情を知ろうとして」長崎に一年間遊学し、南宋画なども人気の高かった僧・春徳寺鉄翁に学んでいる。
 長崎から帰った鉄斎は聖護院村で私塾を開く。生活は苦しかったらしいが、蓮月尼の勧めもあり所帯を持つ。 1867慶応3年、近くに住む円山派の絵師・中島華陽の娘と結婚した。 翌年長女が生まれるが、2年後に明治天皇が再び行幸するのに供奉して鉄斎ははじめて東京に行ったが、その留守中に妻は病死してしまう。

1.2 明治期
 このころ鉄斎は彼の私塾の講義の草案をもとに『称呼私弁』を出版している。これは「称謂名文は文筆者が最も注意しなければならぬもの」として、和漢古今の文献を渉猟し、諸学者の説を掲げ、自説をもって批判している。

 暫くして後妻を迎えるが、鉄斎の母と折り合いが悪く、離縁した。 そして 1872明治5年、友人の仲介で文章博士・五条家の奥女中として働いていた佐々木春子と結婚する。 鉄斎37歳、春子26歳。
結婚後まもなく、明治天皇の鹿児島行幸に供奉する人に随行し、鹿児島に行っている。 

 1873明治6年神戸に湊川神社が建てられることになり、鉄斎はその宮司に推薦された。しかし、正式辞令は「権禰宜」であったため、鉄斎は立腹して早々と辞退してしまう。 そして「宮司らの教導職の任命にあたっては人選を厳にすべし」との趣旨の建白書を教部省に提出している。

 1874明治7年、約四ヶ月間、北海道、東北、関東の各地を旅行している。当時の北海道は開拓草創期で原始的なアイヌの生活を実際に見ることができ、後年までしばしばアイヌ風俗を描いている。明治8年には富士山に登山しており、その経験をもとに作品を残している。以降、「万里の路を行くは画人たる第一歩」として、30歳代から50歳代にかけて鉄斎は精力的に各地を旅して歩いている。

 1876明治9年、堺県布留村(現在の奈良県天理市)の石上神社の少宮司を拝命する。単身赴任で、経済的余裕はないながら、同社に鏡などを献納したり、私費で回廊の修理をしたりする。 しかし、あまりにも高邁な理想の鉄斎は、周囲から煙たがられたようで、意見の対立を生み、ついに辞表を提出したりするが、ほどなく堺県大鳥村(現在の大阪府堺市)の大鳥神社の大宮司に任ぜられる。鉄斎は官幣大社の大宮司に抜擢されてたいそう喜び、大鳥村に家族を呼び寄せ、仕事に励む。社殿を復興するため、書画を売って資金とした。 明治10年には堺に行幸があり、鉄斎は天皇に拝謁が叶った。この時期、神社の復興費用捻出のための画債が「屏風三十双近くある上、他に絹紙八百枚程が滞り」、催促を受け苦しんでいたらしい。

 1881明治14年、兄が病死し、病床の母の面倒をみるために、神官を辞し、京都に帰る。 

 1890明治23年に鉄斎の長男を騙り、福知山や綾部のあたりまで絵の注文をとり、集金をして逃げる詐欺師が捕縛されたという新聞記事がある。 この事件も、鉄斎の名が津々浦々まで響いていたからだろう。
 この年に京都美術協会が発足すると55歳の鉄斎は評議員に選ばれ、そのほか展覧会の審査委員や顧問など、公職に忙しくなる。 1894明治27年(59歳)から1904(69歳)まで京都私立美術工芸学校の嘱託教授として講義をしている。

 1906明治39年室町の料亭「樹の枝」で「富岡鉄斎先生書画陳列」が開かれた。 71歳にして初めての個展だった。 明治40年には明治天皇の命として御用画の制作依頼され、鉄斎一代の力作、双幅「神仙高会図」、「阿倍仲麻呂」を献納している。

1.3 大正期
 鉄斎は息子・謙蔵を学校へは行かさず、自分で教育をしている。謙蔵はやがて京都帝国大学の講師を勤めるようになり、東洋史と金石学を教えた。また、勤務のかたわら、老いた鉄斎の代わりに中国を旅して書を蒐集し、鉄斎への書画依頼の処理、画商との事務処理に至るまで秘書役として鉄斎を助けた。
 しかし、1918大正7年謙蔵は46歳で胃癌で亡くなる。

 鉄斎は老いるほど、絵に輝きを増しており、多くの画集でみる作品の量も、60歳代までの若描きは3割ほどで、歳をとるほどに増え、89歳を迎えても、鉄斎は元気そのもので作品数は一番多い年とも云われる。
 1924年大正13年、秋頃から鉄斎は〈九十翁〉と落款するようになるが、12月末日亡くなる。 89歳。


2.人物像

(1)賛文
 鉄斎は「私の画を見て下さるなら、第一に画讃から読んで貰いたい。私は意味のないものは描いてゐないつもりぢや」と云っている。 しかし、この賛文は、専門知識が豊富な学者でも簡単には読めない。 第一に文字が大変読み難い。 鉄斎美術館のスタッフですら、3日も4日もああでもないこうでもないと悩むらしい。書き癖は年齢とともに変化し、古字、篆書、隷書など、様々な書体を自在に使い分けている。しかも脱字や誤字がままあるので、文字が読めたとて、賛文を理解できるとは限らない。原典を当たる必要があるが、鉄斎が出典を明記している場合でも、いざその文献を当たっても目指す文章が見つからない事があるという。 鉄斎は厳密な学者というのではなく、ちょっと粗忽なところもあって、原典を一瞥しただけで賛文を書き下ろしたような気配があるという。 鉄斎が依拠した文献のほとんどは手元に蔵されていたが、その富岡文庫も散逸し、多くは稀覯本となっており、研究者が見たくとも簡単には実現しない状況にある。

 この状況を憂い、鉄斎の作品の蒐集家である清荒神清澄寺の坂本光浄和上が昭和41年山内に鉄斎研究所を創設し、本格的賛文研究委員会を発足させた。その成果は昭和58年までに『鉄斎研究』として65号まで刊行され、一旦休刊。平成元年に再開されたが、平成8年の71号でストップしたままになっている。

(2)描き方
 鉄斎は晩年には絹本はめったに描かず、ほとんど紙本で描いた。 描き方について孫が、次のように書いている。 「紙に描く時は、くるくると巻いた紙を先ず上のほうから二尺程延ばして描き始め、描き終わった部分は上に巻き込み、しだいに下のほうまで描いていきます。最初は淡墨で主要な部分を一通り描きます。次にまた紙の上部から、彩色の場合なれば薄い代緒や青い色を塗り、しだいに濃い墨や彩色を加えていき、最後に宿墨で強い調子をつけて完成するわけで、その間に紙を全部拡げて画の調子を見るということもなかったようです。 鐵齋が画を描くところを見ていると、『胸中の山水を写す』という言葉が本当であることが理解されます。祖父は画家としては速筆の人だと思いますが、たとえ水墨の画でも幾度も、筆を重ねて画に密度がありますから、それほど簡単にできあがるのではありません」。

(3)書癖
 書籍市には朝一番に駆けつけて競争相手を出し抜き、書店某が漢籍を買い付け帰国したと聞けば、公刊前に目録を見せて貰い注文してしまう。書物が届けば「小包の紐を解くのももどかしく、手に取って、目に撫で、手に撫でて後、おもむろにに開いて繰り返し楽しむのであった。 そうして心ゆくまで見た上で、傍の蔵書印「画禅庵」の大きいのを表紙に捺したり、かつて陶庵公から贈られた朝鮮の五色の紙の中の紅色を適宜に切って、何か書いて貼り付けたり、書物によっては奥書きをしたりして、『こうしておけば子孫が困った時の売り代になる』と私を顧みて微笑したこともあった。そうして幾日か座右に置いて充分鑑賞した後、一応書庫に納めるのであった。」と、謙蔵の妻・とし子は書いている。
 鉄斎は蔵書にどんどん手を入れた。 愛蔵者の手垢の付いた、文字どおりの手沢本である。 たとえば、右の写真の『茶話指月集』には、利休の墓のスケッチが描き込まれている。息子の謙蔵も、父に輪をを掛けた愛書家で、鉄斎の画がもたらす豊かな資力をバックに稀覯本を買い漁った。 目の利く謙蔵の収集品には、国宝『王勃集』をはじめ一級の善本が数多く含まれていたが、親子二代で築いたこの富岡文庫も昭和13年、ついに売り出された。昭和期最大の売りたてといわれ、総売上げは記録破りの15万8千円であった。

(4)蘇東坡
 鉄斎は、同じ12月19日生まれであるのを誇りとして「東坡同日生」の印を用い、東坡遺愛と伝える「蝉硯」や、東坡が作らせたという「東坡法墨」も所持する熱中ぶりであった。 また「聚蘇書寮」という室号をつけて、東坡の著作や関連文献を熱心に蒐集し、中国では失われた「東坡先生年譜」も、筆写本を秘蔵していた。
 蘇東坡すなわち蘇軾(1036〜1101)は、北宋を代表する文人にして官僚であり、筆禍事件で死罪の危機に瀕したかと思えば、天子側近に取り立てられ、はては政争に巻き込まれて流罪となる。 そういう波瀾に富んだ生涯を、しかし余裕たっぷりに愉しみ、〈春宵一刻、値千金・・・・〉の「春夜詩」や「赤壁賦」をはじめ不朽の名作を残した。食にもこだわり、東坡肉(トンポーロー)など彼の名を冠した料理が100種以上もあるとか。
 鉄斎は、生涯にわたり東坡像を夥しく描いていて、大正11年には『百東坡図』なる画集も刊行した。 同一人物で百点もの図が描けるというのも、東坡の逸話がやたらと豊富だったからであろう。


3.作品

    以下の作品の画像の多くは、収録作品が最も多い『鉄斎大成』(全4巻)からとっているが、残念ながら昭和年の刊行であるためであろうが、画質が極めて悪い。 近年の展覧会画譜所載の画像に逐次置き換えていく予定。 なお、賛文の要旨は『鉄斎大成』をもとに記述している。
   3.1 20歳代〜40歳代              67点
   3.2 50歳代                     46点
   3.3 60歳代                     57点
   3.4 70歳代                      97点
   3.5 80歳代 - I   (80〜83歳)     87点
   3.6 80歳代 - II   (84〜86歳)      72点
   3.7 80歳代 - III   (87〜88歳)     87点
   3.8 80歳代 - IV   (89歳)         36点

4.関連リンク

鉄斎美術館 宝塚 清荒神清澄寺の所蔵する鉄斎の美術館
辰馬考古資料館 西宮の白鷹醸造元三代辰馬悦叟氏が集めた鉄斎作品
を収蔵展示。