3.8 80歳代 - IV

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梅花書屋図 山輝水媚図 古仏龕図 忠孝雙全図 寿老人図
梅花書屋図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 145 x 49 cm。 王元章は元末の乱を九里山に避け、草屋三四間を結び、まわりに多くの梅を植えて梅花屋と称した。  この図は、彼の詩「梅花屋」によって制作したもの。 「荒苔叢篠、路、栄廻す。澗を繞って新たに栽ゆ百樹の梅。花落つるも流水に随い去らず。鶴帰りて常に白雲を帯び来る。山を買うて自から山に居る趣を得たり。世に処し渾て世を済うの材無し,昨夜月明かにして天、洗うに似たり。嘯歌して行き上る読書台」。
山輝水媚図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 195 x 60 cm。 知恩院の開基法然上人の七百五十年忌に際し、同院の懇請に応じて奉納したもの。図中の僧侶は法然と、その弟子たちであろう。 賛は「山は輝き水は媚ぶ」であるが、これは「珠蔵水自媚。玉蘊山含輝」という句からとったものであろう。
古仏龕図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 133 x 33 cm。 文殊・達磨・出山釈迦・帝釈天・毘沙門天を描く。 賛は『華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品』の一節、「例えば、工みなる画師の、もろもろの彩色を分布するが如し。虚妄に異色を取るも、四大に差別なし。四大は彩色にあらず。彩色は四大にあらず。四大の体を離れて、しかも別に彩色あるにあらず」を録する。
忠孝雙全図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 133 x 33 cm。 蜀葵が忠をあらわし、萱草が孝をあらわす。古くは向日葵を忠の象徴としたが、後世蜀葵をもって、これに代えた。また萱草は『詩経・衛風・伯兮章』に「焉得蘐草言樹之背」とある所から、母の象徴とされ、やがて孝をあらわすものとされた。 図は清の王武の作に倣ったもの。 賛に『救荒本草』の、萱草についての説明文を引いてある。大意、「萱草、一名川草花、また野生のものを鹿葱という。花を宜男草という。妊娠した女がこの花を帯びると、男子を生む」。
寿老人図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 133 x 51 cm。 京都の実業家山口玄洞の高寿を祝って贈ったもの。 賛は、「福禄寿、先と為す」。

老松白鶴図 陸羽茶癖図 孫思邈山居図 弘法大師
在唐遊歴図
范蠡渡江図
老松白鶴図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 122 x 60 cm。 唐の鄭谷の詩を録す。 大意、「鶴は仙人王子喬に放たれてから自由の身となり、俗人に伴うことを、もの憂く思っている。睡りが浅いので松の花が落ちると目を覚まし、舞い終わると谷水の流れに耳をすます。羽や翼は雪よりも白く、風采はさっぱりとして、秋の気を一人占めしたように清い。鶴は、きっと、白鷺が仙人の気骨なく、漁夫に伴って葦のはえた川の洲にとどまっているのを、嫌っていることだろう」。
陸羽茶癖図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 134 x 34 cm。 唐の陸羽(鴻漸)は捨子だったが、刻苦して太子文学になった。後、隠居して多くの著述を書いたが、特に『茶経』が有名。 後世、茶神として尊崇された。 賛は『唐書』の「陸羽伝」の一節、「陸桑苧、茶を嗜む。『茶経』三篇を著す。茶の原、茶の法、茶の具を言いて、尤も備われり」。
孫思邈山居図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 134 x 24 cm。 賛は、「一生慈恵の術を勤め、千金方の書を著す」とある。
弘法大師在唐遊歴図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 133 x 33 cm。 賛は、空海が入唐した時、唐人胡伯崇(眦陵子)が空海に贈った詩の一節を録する。 大意、「空海師が四句の偈を説き戒律を演説すると、それを聴聞する人々は皆帰依する。天は多くの技芸を師に借し与えたが、その中でも草書がもっとも秀れている」。 この詩は空海の詩文集『遍照発揮性霊集』の序文の中に載っており、市川寛斎の『全唐詩逸』にも引いてある。
范蠡渡江図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 萢蠡は越王勾践の相となり、呉を破って会稽の恥をすすいだが、その後辞職し、海に浮かんで斉に行き、鴟夷子皮と姓名を変え、海のほとりに住み、父子生産に従い、数千万の財を積んだ。斉人は彼の賢いことを知り、相とした。彼は、「家に居ては千金を致し、官に居ては卿相となる。これ布衣の極みである」と言って、相を辞めた。 賛は老子の「功成り名遂げて身退くは、天の道なり」の文と、『逸民史』の「萢蠡伝」を録す。

蟻槎図 天狗刀剣会図 葡萄苑図 一休戯謔図 西湖全景図
蟻槎図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 91 x 46 cm。 大正一三年(一九二四)、内藤湖南が息乾吉氏を同伴して渡欧する際に贈ったもの。 図中の仙人は湖南、童子は乾吉氏をあらわす。 鐵齋は「礒槎図」の三字を殊更左に寄せて、図の右上方に空白を存しておいたが、そこに湖南が賛を書くことを期待したのであろう。  湖南は翌年一月帰朝したが、その時すでに鐵齋は死亡していた。 湖南は鐵齋の期待に応え、図の上方の空所に、船中で作った七言絶句四首を録した。
天狗刀剣会図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 刀剣愛好家の某氏の依頼で制作したもの。  賛は、「一剣、光は寒し五大洲」。
葡萄苑図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 133 x 32 cm。 山科の葡萄園に招かれて描いた作。 賛の大意、「葡萄は、もと西域の大宛国の原産で、漢の張騫が西域に使した時に将来した。黒・白・黄の三種がある。 一名馬乳。又の名は黒水晶。大宛国の人は、これを醸して酒とする。富んだ者は千石も蔵する。十年たっても腐らない」。 鐵齋は、この文を『酉陽雑爼』から引用したように書いているが、同書に載っている葡萄の記事はこれと異なる。
一休戯謔図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 108 x 34 cm。 一休禅師と真宗の蓮如上人は仲がよかった。ある日一休が山科の寺に蓮如を訪うたところ、折柄蓮如が外出していたので、仏壇に上がり、阿弥陀像を倒して枕とし、大いびきで眠った。帰ってきた蓮如は、これを見ると、一休を揺りさまし、「お前がわしの米櫃を倒したら、わしは困るがな」と言い、二人で大笑いをしたという逸事を描く。 鐡齋はこの画題が大いに気に入っていたらしく、このほかにも二点同じ作がある。
西湖全景図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 141 x 39 cm。 杭州西湖の景。 賛は蘇東坡の「飲湖上初晴後晴詩」の、「水光瀲灔晴方好。山色空濛雨亦奇」から取った「雨奇晴好」の句と、天龍寺の策彦周良が足利義晴の命によって入明して西湖を通った時に作った、「昔年曽て此の湖の図を見し時、意はざりき人間此の湖有らんとは。今日却つて湖上より過れば、画工なほ自づから工夫を欠く」を録す。 策彦の詩は、明人の著『熈朝楽事』にも載っている。

富士山図 嵐山春暁図 家園安臥図
富士山図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色・金地墨書 扇子 18 x 47 cm。  「日本国鎮山」と題し、裏には都良香の「富士山記」を録してある。
嵐山春暁図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 扇面額装 17 x 53 cm。 賛は「嵐山春暁」。
家園安臥図 大正13年1924) 89歳 紙本淡彩 扇面掛軸 16 x 56 cm。 賛「葡萄架下に酔臥して楽しむ。官に在るは何ぞ似かん家に在るの安きに」。 大意、「葡萄棚の下に酔い臥して楽しむ。役人となって奔走するのは、家にいて安楽に暮らすのにとても及ばない」。

加官進禄図 仏法僧鳥図 墨龍図
加官進禄図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 扇面額装 24 x 54 cm。 縁戚伊沢多喜男が台湾総督に任ぜられたのを祝って贈ったもの。 画中の婦人が冠を捧げ、禄をあらわす鹿が歩いている。 賛は「官を加え禄を進む」。
仏法僧鳥図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 扇子 17 x 54 cm。 賛は、『夫木抄』に載せる慈円僧正の歌。 『我国はみのり(の)道のひろけれハ 鳥もとなふる仏法僧かな』。
墨龍図 大正13年(1924) 89歳 紙本墨画 扇面掛軸 17 x 53 cm。 賛は自作の歌。「一筆に硯の海を飛いてゝ 雲ゐにのほるたつそあやしき」

花鳥図 漁家快楽図 普陀洛山
観世音菩薩像
瀛洲仙境図 源義経像
花鳥図 大正13年(1924)  89歳 紙本淡彩 134 x 33 cm。 繍球花の図。この花は晩春初夏の候に咲き、初めは緑色だが次第に真白になり、手球のような球形になる。 「緑鬢団欒、白頭に到る」という賛は、繍球花の花の色の変化する様を述べたものだが、鐵齋は「緑の黒髪の若い時から白髪になるまで、夫婦仲良くする」という原意に還元して、新婚者を祝う画として描いたものである。 この句は、もと金冬心の繍球花図の賛にあるが、鐵齋は瞿応紹の『子冶集』から引用している。
漁家快楽図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 133 x 33 cm。
普陀洛山観世音菩薩像 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 90 x 33 cm。 賛は蘇東坂の「応夢観音賛」を録する。 「稽首す観音。宝石に宴坐す。忽々たる夢中。我が空寂に応ず。観音来らず。我もまた往かず。水は盆中に在り。月は天上に在り」。
瀛洲仙境図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 144 x 39 cm。
源義経像 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 135 x 33 cm。 義経の歌を録する。 『いそぐとも 行もやられず 草まくら しづかになれし こころならひに』

一休戯謔図 能因法師図 維摩居士像 蓬莱仙境図 蓬莱仙境図
一休戯謔図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 145 x 39 cm。
能因法師図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 145 x 39 cm。 能因法師が藤原節信と会った時、懐中の錦の嚢から長柄橋の橋杭を取り出して見せたところ、節信は井手の蛙の干乾しを示したという挿話を描く。 賛は以上のことを記した『大日本史・橘永愷伝』の一節。 永愷は能因法師のこと。
維摩居士像 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 144 x 39 cm。 自分を維摩詰になぞらえた自画像。 賛は自作の詩。 大意、「私は早くから金粟如来の後身たる維摩の禅を学んだ。また、しきりに遊戯として山水画を描く。絵ができあがって、無意無心の中に筆を投げ捨てる。『維摩経』に説く悟りの絶対境に入って、まるで眠っているような気持ちである」。 布施巻太郎に贈る。 図の下方に布施氏が贈った、清の高鳳翰刻の「古趣」印を捺す。
蓬莱仙境図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 141 x 38 cm。 
蓬莱仙境図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 144 x 39 cm。 賛は、「山は蓬莱に似、人は仙に似たり」。

蓬莱仙境図 蓬莱山図 瀛洲仙境図 扶桑神境図 栄啓期図
蓬莱仙境図 大正13年(1924)89歳 紙本着色 143 x 39 cm。 賛は、「山は蓬莱に似、人は仙に似たり」。
蓬莱山図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 145 x 39 cm。 賛は、「山は蓬莱に似、人は仙に似たり」。
瀛洲仙境図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 143 x 40 cm。 いつも診てもらっていた医師浅木直之助に贈った最後の作品。
扶桑神境図 大正13年(1924) 89歳 紙本着色 144 x 39 cm。 賛は自作の詩、「九十行年栄啓期。太平楽しみ多し幸男児。万象を揮毫して皆周易。八卦変爻わが師と為す」。
栄啓期図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 129 x 33 cm。 自分を周の隠者栄啓期になぞらえた自画像で、絶筆とされている。 孔子が泰山に行く途中、郕の野で栄啓期が鹿の皮衣を着、索を帯にするという貧しい身なりで琴を弾いているのを見て、「先生は、いかにも楽しそうですが、どうしてですか」と質問すると、栄啓期は「私には多くの楽しみがある。天が万物を生ずる仁、人がもっとも貴い。私は人に生まれた。これ一楽である。男女の中、男は尊く女は卑しい。私は男に生まれた。これ二楽である。生まれて赤ん坊の時死ぬ者もあるが、私は長生して九〇歳。これ三楽である。貧は士の常、死は生の終わりである。常に処って終わりを得るならば、何も憂えることはない」と答えた。孔子は「善いかな、自から寛うする者なり」と感心した。  図は栄啓期が牛に乗り、琴や、ひょうたんを荷なった童子を従えて進む有様を描く。ジグザグの老木、進行する牛、眼光畑々たる栄啓期の風貌、すこぶる動勢に富み、進んで止まぬ鐵齋の気暁が充ち溢れている。 賛は前図と同じ。 大意、「私は栄啓期と同じように九〇歳の長寿を受け、太平の世に生まれて楽しみの多い幸福な男子。宇宙内の万物を揮毫して、周易の八卦三百八十四爻を我が師としている」。