3.7 80歳代 - III

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伏魔大帝関雲長像 孫真人山居図 補陀洛迦山図 新春試筆 羅漢図
伏魔大帝関雲長像 大正10年(1921)86歳 紙本着色 132 x 51 cm。 蜀漢の忠臣関羽は死後疫病退治の神として祭られ、万暦年間、「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」という尊号を贈られた。 図は清初の馬元欽の作に倣ったもの。 図の上方に、書家山本竟山が中国に遊んで、西湖孤山の聖因寺に蔵する関羽の印「漢寿亭侯印」、「関羽之印」の印影を得て、鐵齋に贈ったものを貼ってある。
孫真人山居図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 146 x 40 cm。 唐の仙人孫思邈の図。賛の大意、「孫真人は隠遁して、我が道を行った人である。その語に、大胆かつ細心であれ、知恵は円満、行為は方正であれ、と。 摂生養生を論じているのは、老子の『道徳経』に似ている。『千金要方』の著があり、世に行なわれている。人命に裨益したことは、述べ尽くすことができないほどである」。
補陀洛迦山図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 146 x 41 cm。 釈迦如来が補陀洛迦山の観音の道場にいた時、観音が大悲心陀羅尼を説いた光景。釈迦と観音を描く。 賛は、『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』を節略した文。
新春試筆 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 130 x 29 cm。 いわゆる歳朝図で、柿・橘・百合根・梅を描いてある。 賛は自作の詩、「また迎う八十七年の春。研を洗い毫を洒いで図画新たなり。利市由来巽卦の意。さもあらばあれ、携え去って銭神を賽る」。 大意、「また正月を迎えて八七歳になった。研や筆を洗って、書初めの絵を描く。巽の卦には、儲けが三倍という意味があるが、誰かがこの絵を持ち去って儲けたところで、私は一向にかまわない」。
羅漢図 大正11年(1922) 87歳 絹本着色額装 71 x 67 cm。 晩年親交を結んだ、諏訪蘇山の一周忌法要に贈ったもの。羅漢の顔は蘇山に似せてある。この羅漢は、常に虎と共に描かれる迦哩迦尊者。 賛は、「金は祇園に布き福には田あり」。 大意、「舎衛国の須達長者は祇陀太子の園に金を布きならべて求め、ここに祇園精舎を建てて釈迦に献上したが、福には報恩田、功徳田、貧窮田の三福田があり、これらの善行を積めば福が得られる」。

幽渓帰樵図 蓬莱山図 歳寒二友図
幽渓帰樵図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 扇面掛軸 17 x 53 cm。 賛は「幽渓帰樵」。
蓬莱山図 大正11年(1922) 87歳 紙本着色 扇面掛軸 18 x 53 cm。 自作の詩、「また迎う八十七年の春。一酔、毫を試みて遊戯頻りなり。利市由来巽卦の意。任他携え去って銭神を妻る」。  大意、「八七歳になって、また正月を迎えた。屠蘇に酔って、しきりに書き初めをする。 巽の卦には利市(もうけ)が三倍という意味があるが、誰かがこの画を持って行って一儲けしようと、かまったことではない」。
歳寒二友図 大正11年(1922) 87歳 紙本着色 扇面額装 16 x 53 cm。 梅と山茶(つばき)の図。

竹梅図(表) 竹梅図(裏) 鶯宿梅図
竹梅図 大正11年(1922) 87歳 紙本金銀泥 扇子両面 14 x 43 cm。 賛は謝譓の語「我が室に入るものは、但だ清風のみ有り」から取る。
竹梅図 大正11年(1922) 87歳 紙本金銀泥 扇子両面 14 x 43 cm。 賛は謝譓の語「我が室に入るものは、但だ清風のみ有り」から取る。
鶯宿梅図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩・梅花貼付・墨書 扇子 18 x 44 cm。 相国寺林光院の鶯宿梅の花弁を張り付けて枝を描いたもの。 この法は清の姚若翼が創始したもので、鐵齋はそれを『香祖筆記』で読んで真似たのである。 表には『拾遺集』の、『勅なれはいともかしこし鶯の 宿ハととはゝいかゝこたへん』を録し、裏には『下学集』に載っている鶯宿梅の解説文を録す。

七福遊戯図 山居安楽図 売書船図 前赤壁図 後赤壁図
七福遊戯図 大正11年(1922) 87歳 絹本着色 142 x 41 cm。 賛は宋人の著『譜雙』の序文の一節。 大意、「ぶらぶら怠けているより、博奕でもやった方が、まだましだと孔子も言っている。人が色々の仕事に従事して疲れきって気が塞ぎ、仕事を続けられなくなると、きっと遊んだり休息して気晴らしをする。だから勝負事をするのだ。勝負事には色々あって、その名は様々だが、遊戯を目的とする点では同じである」。
山居安楽図 大正11年(1922) 87歳 紙本墨画 145 x 40 cm。 賛は、「松柏の茂るが如し」。 これは『詩経・小雅・天保九如章』の句で、人の長寿を祝うめでたい句である。
売書船図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 130 x 32 cm。 
前赤壁図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 155 x 43 cm。 賛は、「前赤壁賦」の全文を録す。
後赤壁図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 147 x 40 cm。 蘇東坡は、元豊五年(一〇八二)一〇月一五日、再び赤壁に遊び、舟の中で鶴が鳴きながら飛ぶのを見た。家に帰って眠ると、夢に鶴が道士の姿となって現れた。図は、東坡が飛んで行く鶴を指さす景。 賛は、「後赤壁賦」の全文を録す。

心遊仙境図 漁夫快楽図 濯足万里流図 東坡閑居図 東坡閑居図
心遊仙境図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 132 x 34 cm。 大正11年(一九二二)七月三一日、鐵齋は正五位に叙せられた。その喜びを分かつため、友人石川三碧に贈ったもの。 賛は自作の詩、「長生夙に願うて精神を養う。すでに長生を得たり九秩の人。古貌顧み来れば、痩せたる鶴の如し。何ぞ図らん声れい楓宸に達すせんとは」。 大意、「私は早くから長生を願って精神を養った。すでに八七歳にもなったから、長生を得たわけだ。老顔を顧みると、痩せた鶴のよう。その鶴の鳴声が宮中に達しようなどとは、思いがけないことであった」。
漁夫快楽図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 131 x 32 cm。 賛は清の張篤敬の「杖頭銭詩」。 その大意は、「いくら財産を積んでも自由に使えねば何にもならぬし、どんなに贅沢な暮らしをしても、心配事があっては楽しくはない。晋の阮脩は杖の頭に百銭を下げて出歩き、酒屋を見つけると一杯やって楽しんだが、貧しくても自由な生活を楽しんだ方がよい。かつて栄えた洛陽も、すでに廃墟となった。銭を貯めようと、あくせくしたって仕方がない」。
濯足万里流図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 134 x 34 cm。 賛は、『集古録』の文を録す。 大意、「海は広くて魚を勝手に躍らせておき、天は空しいので鳥が自由に飛ぶままにさせておく。大人物でないと、この度量を有することは、できぬ。衣を千仞の岡に振るい、足を万里の流れに洗う。大人物でないと、この気節を有することは、できぬ。珠を蔵すれば沢が美しくなり、玉を包んでいると山は光を含む。大人物でないと、このおっとりした気性を有することは、できぬ。月が梧桐の上に昇り、風が楊柳の辺に吹いてくる。大人物でないと、この風流な気持ちを有することは、できぬ」。人口に膾炙した古人の名句に註釈した文。
東坡閑居図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 131 x 32 cm。 賛は蘇東坡の詩「睡々者」。「道あるも行き難ければ酔うに如かず。口有れども言い難ければ睡るに如かず。先生酔うて臥す、この石間。万古、人の此の意を知る無し」。鐵齋は「酔うて臥す」を「睡臥す」と誤って書いている。東坡は新法派に憎まれて牢獄に投ぜられたり、黄州や海南島に流されて苦労したが、ついに節を改めなかった。その心境を吐露したのが、この詩。図は東坡が清流に足を洗う景。
東坡閑居図 大正11年(1922) 87歳 紙本着色 153 x 43 cm。 賛は『東坡題跋』の「家蔵雷琴」の文を録す。 大意、「私の家に唐の有名な製琴家、雷氏の作った琴がある。その銘に『開元十年造る。雅集霊開の材』とあり、また『雷家記八日合』とある。八日合とは何のことか不明。音の伸びが非常に良いのでその理由を調べたが、分からない。分解してみたところ、音は背面上方の穴と下方の穴の間から出る。それは、にらの葉のように少し高くなっており、音が出ようとしても狭いので徘徊し、余韻を生ずることが分かった」。 鐵齋は『東坡志林』に載っているように書いているが、誤りである。画中、琴を前に対談しているのは、東坡と客であろう。


青山万畳図 利市三倍図 普陀落山
観世音菩薩像
福禄寿会図 紙雛図
青山万畳図 大正11年(1922)87歳 紙本淡彩 133 x 32 cm。
利市三倍図 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 134 x 32 cm。 『易経・説卦伝』に巽の卦を説明して、「為近利市三倍」とある。 様々な読み方があるが、「利市」を儲けの意として、「利市三倍に近しと為す」と読む説がある。明の唐寅がすでにこの句を用い、鐵齋もしばしば画題としている。 図は市場の景。  賛に、明の易学者来知徳の巽卦についての解説を引用してある。
普陀落山観世音菩薩像 大正11年(1922) 87歳 紙本淡彩 163 x 45 cm。 明の遺民で、日本に亡命してきた陳元贇の遺愛の白衣観音塑像が、北野の観音寺にある。この図はその塑像によって描いたもので、いわば子育観音の形をとっている。観音は菩薩であり、菩薩は本来男性のはずであるが、観音像が印度で作られた時、女神アフロディテの像などを参考にしたので、最初から女性的要素が強く、それが中国に入って唐・宋・元・明と時代が下るにつれてますます強化され、ついにこのような子育観音の形式を生み出したのだろう。
福禄寿会図 大正12年(1923)  88歳 紙本着色 129 × 32 cm。 中国の天文学で南極老人星または寿星と呼ばれる星は、寿命の神とされていた。宋の仁宗の時、都に出現し、以来その図像を描いて祭った。普通、蝙蝠(福)と鹿(禄)とを併せ描いて福禄寿と称し、めでたい画題とする。 この図は群仙が寿老人の寿を祝する景。 上方の字は福と禄と寿の三字を一字にまとめたもの。
紙雛図 大正12年(1923) 88歳 紙本着色 129 x 47 cm。 「桃柳、等年を契る」。 夫婦、夫白髪まで長寿を保つ、の意であろう。

生絲製場図 東坡笠屐図 瓢箪鯰図
生絲製場図 大正12年(1923) 88歳 絹本着色 扇面掛軸 22 x 66 cm。 賛は「蔵、国よりも富む」。
東坡笠屐図 大正12年(1923) 88歳 絹本着色 扇面掛軸 16 x 52 cm。 蘇東坡が海南島に流されていた時、土地の黎子雲という人を訪れ、帰途雨に遭ったので、農家から筍笠と下駄を借りて帰ったところ、女子供が集まって笑った故事を描く。 賛は明の唐寅の文、「東坡儋耳に在りしとき、自から人の識る無きを喜び、野人の家に往来し、談笑すなわち日を終う。一日忽ち雨に遭い、笠を戴き、なお屐を着けて、逶迤として還りて家に到れば、妻児笑いで堂に満つ。歆ましいかな古えの人、光霽胸臆に満つること。形を図して瞻迎を寄す。万世誰か及ぶべけん」。
瓢箪鯰図 大正12年(1923) 88歳 紙本着色 扇子 16 x 50 cm。 瓢箪鯰は、もと禅宗画の画題であるが、大津絵で好んで描かれた。鐵齋も多く制作したが、これもその一つ。 賛は「思想痴絶」。

寿老人図 米芾愛石図 寿老人図
寿老人図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 扇子 17 x 47 cm。 金泥で自作の詩を題するが、にじんでいる処があって、はなはだ判読しがたい。 「起ちて迎う八十八の新年。 筆を揮って写し看る南極の仙。古貌古心痴絶甚だし。恐らくは応に一文銭にも当らざるべし」。 大意、「八八歳の新年を迎え、寿老人を描いた。この寿老人は古めかしい顔と心をしていて、はなはだ愚かである。おそらく一文の値打もないだろう。
米芾愛石図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 扇面掛軸 17 x 55 cm。 愛玩用の石の図。 宋の米元章は濡須の長官だった時、怪石を得て拝して兄と呼んだので、世の非難を受けて辞職した。  周少隠が「銭を喚んで兄と作す、真に憐むべし。石を喚んで兄と作す、乃ち賢るなからんや。塵を望んで雅拝す、まことに笑うべし。米公石を拝するは同調ならず」という賦を作った。  賛は第三句と第四句を多少変えて、米元章の作として録してある。
寿老人図 大正12年(1923) 88歳 絹本着色 掛軸 34 x 57 cm。 長寿を祝う絵。 鹿は禄を表し、騙蟷は福を表し、寿老人の寿と合わせて福禄寿と称する。 賛は、「寿を為すのみ」。 長寿のお祝いまでに、この絵を描きました、という意であろう。

嫦娥奔月図 静居掃塵図 南海普陀山図 蓬莱仙境図 閨窓脩竹図
嫦娥奔月図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 133 x 54 cm。 古代中国の夏王朝の時、有窮国の君后羿が西王母から不老不死の薬をもらったところ、その妻がその薬を盗んで飲み、月中に逃げて月の女神嫦娥となったという伝説を描く。 この話は『淮南子』に出ているが、鐵齋は誤って王充の『論衡』に載っているように書いている。 上方の月中の婦人が嫦娥、下方岩にもたれて眠っているのが后羿。
静居掃塵図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 131 x 32 cm。 自作の詩、「八十八翁頑老仙。勉強して筆を試む鶏鳴の天。人、米菜薪油醤を胎る。濃墨為に酬ゆ一整煙」。 大意、「私は八八歳の頑固爺。鶏の鳴く早朝に勉強して、書き初めをする。人が米や野菜や薪や油や醤油のような日用の品を贈ってくれたので、濃墨で山水の図を描いて謝礼とする」。
南海普陀山図 大正12(1923) 88歳 紙本墨画 121 x 65 cm。 普陀山は浙江省定海県の東方海上にある、観音の霊場補陀落迦山。 賛は元の趙子昂の詩。大意、「海上の普陀山に、雲が広々とかかっている。船に帆をあげて三日、さらさら流れる水を、溯る。皇后と皇太后の福徳は千仏と斉しく広大であり、観音の神光は諸々の蛮民を照らす。谷の草、岩に咲く花は瑞気が多く、石の林立した水中の宮は世塵を離れている。私は書画の小枝をもって宮中に優遇されているが、思いがけなくも凡俗の身をもって、この霊場に参拝することができた」。
蓬莱仙境図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 145 x 41 cm。 賛は、「自ら是れ蓬壺、天老いず。碧桃花底、長春に酔う」。
閨窓脩竹図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 131 x 32 cm。 洋画家正宗得三郎が欧州に遊んだ時、留守見舞として贈ったもの。 門は主人が不在だから閉めてあり、室中の婦人は夫へ送る手紙を書いている。遠方の山に滝が白く光り、竹林は欝蒼と茂っている。 賛は唐の銭起の「暮春帰故山草堂詩」の句を、一字変えて録する。「独り憐れむ脩竹山窓の下。清陰を改めず我が帰るを待つ」。 この詩、あるいは劉長卿の「晩春帰山居題窓前竹詩」ともいう。

双寿搗餅図 瓢中快適図 水郷清趣図 一瓢千金図 武陵桃源図
双寿搗餅図 大正12年(1922) 88歳 紙本淡彩 130 x 33 cm。 鐵齋の古書蒐集に関係の深かった、大阪の古本屋鹿田松雲堂の息子が結婚したので、祝いに贈ったもの。 賛の大意、「あなた方は、ひょうたんを二つに割って作った杯で酒を飲むという、婚礼の儀式を行って新婚の夫婦となられたが、お二人とも長生して、餅をついてたくさんの子孫を養ってください」。餅をつくというのは性行為を連想させるが、鐵齋には、そのように、くだけた一面もあったのである。
瓢中快適図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 ひょうたんの中に仙人の住む別世界があるという伝説があるが、鐵齋は自らをそのような仙人になぞらえて、この図を描いたのであろう。 自作の詩を録する。 「心の欲する所に従って年を知らず。逋適逍遥、わが天を全うす。閑臥書を枕にす安楽境。長生何ぞ必ずしも神仙を羨まん」。
水郷清趣図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 131 x 31 cm。 晩年親交を結んだ諏訪蘇山が死に、その娘が二代目蘇山を称した。 この図は二代目蘇山に贈ったもの。 賛は宋の大儒周敦頣の「愛蓮説」の句、「香は遠くして益々清し」を録する。
一瓢千金図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 133 x 32 cm。 『鶡冠子』に、「中流にて船を失わば一壷千金」とあるのによって描いた作。 壺は、ひょうたん。中国には腰舟といって、ひょうたんで作った浮嚢があるが、鐵齋は、ひょうたん製のボートに改めている。 賛は清の葉金寿の『曼庵壷盧銘』の文を録する。 大意、「中流にて船を失わば一壺千金と『鶡冠子』にあるが、危急の時には、ひょうたん一つなかなか手に入らぬ。晋の蔡謨が用心深いのを世人が嘲って、蔡公は船で川を渡る時、腰舟を身につけていると言ったが、察公を用心深すぎるなどと笑ってはいけない」。
武陵桃源図 大正12年(1923) 88歳 紙本着色 175 x 48 cm。 昭和天皇(当時摂政宮)御成婚に際し、京都市がお祝いとして久邇宮家に献上した双幅の一幅。 武陵桃源は晋の時、武陵の漁夫が川を遡って山中奥深く発見した秘境で、秦末の乱を避けて此処に隠れ住んだ人々の子孫が平和に暮らしていたという。 

蓬丘仙境図 思邈仙窠図 渓山自適図 吉祥聚叢図 朱梅図
蓬丘仙境図 大正12年(1923) 88歳 紙本着色 175 x 48 cm。 賛は『雲笈七籤』の文。大意、「蓬丘とは蓬莱山のこと。東海の東北岸に対し、まわりは五千里ある。北は鍾山の北阿門外に至る。ここは天帝が九天の綱を束ねてある所。山中の湖水のまわりに四城あり、中央に崑崙山のような高山がある。昔、夏の禹王が洪水を治めた後、弱水を渡ってこの山に来て、上帝を北阿に祭り、治水の成功を天に謝した。また禹は五嶽を通り、工人にその里数高下を石に刻ませた。その字は科斗の書で、漢人には読めぬ。今の丈尺里数は、みな禹の時の書である」。
思邈仙窠図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 148 x 40 cm。 賛の大意、「『千金方』に次のようにある。耀州は昔の華源の地である。孫思邈という人があり、古の逸民の類であった。周末の乱を此処に避けて住んでいた。隋や唐の時代に天子に召されたが仕えず、医術をもって人を助けた。いわゆる良相とならなければ、良医となる者であろうか。道教の徒が彼を真人と称し、また医者が彼を明医と称するなどは、真に彼を知るものではない」。
渓山自適図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 151 x 41 cm。 賛は明の李日華の『竹嬾画賸』に載っている、「道うなかれ秋山ただ煙樹のみと。暮雲堆裏人家あり」という句を録する。
吉祥聚叢図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 131 x 45 cm。 吉祥草は、ゆり科の植物。秋に淡青色の花をつけ、観賞用に栽培される。 図はその吉祥草を描く。別に釈迦成道の時に敷いた吉祥草があるが、これは茅の一種。明清のころ両者を混同し、ゆり科の吉祥草の上に観音が坐っている図を作るようになった。 賛は酈邸道元の『水経注』の文を録するが、これは釈迦が帝釈天の捧げた草を菩提樹の下に敷いて結跏趺坐したことを述べたもの。
朱梅図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 150 x 40 cm。 晩年いつも診てもらっていた医師浅木直之助に贈ったもの。梅の幹はジグザグ構図を取り、花弁は『竹坡軒梅冊』に載っている蘇東坡の描法にならっている。

扶桑神境図 瀛洲仙境図 瀛洲仙境図 雲山化城図 寿老歓酔図
扶桑神境図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 164 x 49 cm。 扶桑は東海のまた東にある碧海の中にあり、桑の木に似て、一つの根から二本の幹が出て、その幹が互いに寄りそっている扶桑木が生えている。ここに太上帝太真王が住み、多くの仙人がいる。 賛は、『雲笈七籤』の文を録す。
瀛洲仙境図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 134 x 32 cm。 賛は『雲笈七籤』の文。 大意、「瀛洲は東大海の中にあり、地は方四千里。おおむね会稽郡に対しており、西岸を去ること七十万里。上に神芝霊草を生じる。千丈にも近い玉石がある。玉醴泉という泉があり、酒の味がする。これを数升飲むと長生きできる。上に仙人の家が多い。風俗は呉中に似ており、山川は中国の如くである」。孫女冬野に与えたもの。
瀛洲仙境図 大正12年(1923)88歳 絹本着色 137 x 52 cm。 画題と賛は前図と同じ。
雲山化城図 大正12年(1923) 88歳 紙本墨画 133 x 33 cm。 鐵齋は文久年間長崎に遊んだ時、「千人万人中一人半人知」という印を骨董屋で買い、終生愛用した。後に唐僧禅月の詩集の中にこの句を発見して、大いに喜んだ。この図はこの印を押し、禅月山居の景を描き、禅月の詩を録してある。「乾坤清気あり、散じて詩人の脾に入る。聖賢、清風を遺し、悪木の枝に在らず。千人万人中、一人両人知る。憶う東渓に在りし日、花開き葉落ちし時、ほとんど黄金を以て、鍾子期を鋳作せんと擬せしを」。
寿老歓酔図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 176 x 49 cm。 賛は、「既に飽き既に酔う」とあるが、出典は『詩経・大雅・既酔章』の、「既に酔うに酒を以てし、既に飽くに徳を以てす。君子万年、爾の景福を介く」である。 天下太平を祝うめでたい句。

普陀落山観世音菩薩像 古仏龕図 西王母像 青龍起雲図 松芝不老図
普陀落山観世音菩薩像 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 131 x 65 cm。 賛は宋の黄山谷の文。 大意、「江州や湖州の野に、一種の白い花がある。木の高さは数尺、春に花咲き、大そう香がよい。山礬(沈丁香の類)という名である。その葉で黄を染める。明礬を使わないでも色が定着する。観音の霊場普陀落山は漢名を小白花山というが、それはこの花があるからだろう。だからこそ観音は、ここに端坐して去らないのであろう」。
古仏龕図 大正12年(1923) 88歳 紙本着色 150 x 40 cm。 古仏は悟りを開いた者に対する尊称。観音、維摩詰、達磨を描く。 賛は明の名僧袾宏の『竹窓二筆』の「好古」の章を録する。数人の骨董愛好家がコンクールを開き、各ζその所蔵品の古さを誇ったところ、一人が最古のものは不生不滅の仏心であると言い、この最古の仏心を忘れて、つまらぬ骨董を愛玩するのは迷いであると戒めたという話。 清荒神の坂本光浄に贈る。」
西王母像 大正12年(1923) 88歳 紙本着色 131 x 50 cm。 西王母は崑崙山に住む女の神仙。三千年に一度花咲き、三千年に一度実る桃を栽培するという。 賛は、「蟠桃すでに熟す三千歳。萱草春に生ず七十年」。 大意、「西王母の桃は、三千年を経てすでに熟した。わすれ草は母の象徴であるが、あなたの御母堂が七〇歳になられたことは、まことにめでたいことです。」
青龍起雲図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 134 x 33 cm。 青をもって龍を描いて火災を防ぐ、道教の法に倣って制作したもの。渦巻く黒雲は、筆の代わりに墨の棒を用いて描いてある。 賛は元の李祁の詩、「龍渓の渓上に蒼龍を見る。勢いは飛騰変化の中にあり。沛として甘霖を作して旱を済う。九州四海、年豊を楽しむ」。
松芝不老図 大正13年(1924) 89歳 紙本淡彩 151 x 40 cm。 舐園の名妓松本さだは、しばしば薬屋町の鐵齋の家に遊びにきた。この図は同女に贈ったもの。 賛は陶淵明の「和郭主簿詩」の句、「此の貞秀の姿を懐き、卓として霜下の傑となる」を録するが、鐡齋は「霜下の傑」を「雪下の傑」と書いている。

梅花邨荘図 杏花村荘図
梅花邨荘図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 掛軸 38 x 26 cm。
杏花村荘図 大正12年(1923) 88歳 紙本淡彩 額装 38 x 28 cm。 唐の詩人、杜牧の「清明詩」、 「清明の時節雨紛々。路上の行人、魂を断たんと欲す。借問す、酒家は何処にか有る。牧童遙かに指さす杏花村」 に画因を得て描いたもの。

貽笑墨戯画帖  大正12年(1923) 88歳 紙本着色 画帖 全13図 各38 x 27 cm。
   米寿の祝に鐵齋は多くの祝品を諸家から贈られた。その返礼として、彼はこの画帖を描き、
   その精巧な複製を諸家に贈った。 賛は別紙に書き、絵と対をなす。
題字の「画餅」は、用いることのできないもの、無用のものの意。
蘇東坡が登州で蜃気楼の出現を海神に祈る景。 賛は東坡の「登州海市」詩。 前半三行の大意は、「画帖東坡談」と同じ。後半は、蜃気楼の出現がかなえられた喜びと感謝の念が述べられている。
漁夫が拳を打つ景。 賛は明の李日華の『六研斎筆記』巻四の「豁拳」の項。 大意、「世間の酒宴で、指を曲げたり伸ばしたりして勝負をする。これを豁拳とか豁指頭という。上目づかいに相手の出方をうかがい、自分の屈伸を知られぬようにして争う。私はこれが大きらいだ。酒席が乱れ、大騒ぎの前ぶれとなるから。しかし、唐の皇甫松の手勢酒令には、五指にみな名がある。親指を蹲鴟(里芋)、中指を玉柱、人差指を鉤戟(先の曲った鉾)、薬指を潜虬(潜めるみずち)、小指を奇兵と名付け、掌を虎膺(虎の胸)、指の関節を私根、五指を総称して五峰というとある。すると、唐代にすでにこの遊びがあったのだ」。
古銅器の図。 賛は清の鄭板橋の『板橋詩紗』に載る「骨董」詩。 衆人が、太古、古代の詩文には目もくれず、つまらぬ骨董集めに血眼になっている愚を戒めたもの。 また図の方には『六書精蘊』に載っている「鷹」の字の解説文を録す。名にごまかされて実を失うこと示ないように、と人を戒めている。
白川山中にある隠者白幽の住んだ洞窟の景。 賛は、鐵齋が秘蔵していた白幽の詩。 「高堂に大隠して名を鵬挙す。坐は佳境を開く是れ秋晴。風は一壑に移す雄山の色。流れは千渓を畳んで桂水清し。酔裏、天地の広きを蔵するに堪え。談中已に世塵の軽きことを覚ゆ。論ずること無し別駕多に真率なることを。行く処為狂歌して此の生を了す」。
蔬菜の図。 賛は『侯鯖録』巻第四に載る『東坡三養』の文。 飲食を節約するのは、一つにはわが分際に安んじて福を養い、二つには胃をくつろげて元気を養い、三つには費用を節約して財を養うため、という東坡の言葉を録す。
円通大師寂昭の呉門寺隠栖の景。 賛は、藤原道長が寂昭(大江定基)に帰朝を促して送った手紙の文。
茶器の図。 賛は唐の盧全(玉川)の「茶歌」。
瀑布の図。 賛は『菜根譚』の文、「風疎竹に来るに、風過ぎて竹は声を留めず。雁寒潭を度るに、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来りて心始めて現れ、事去って心随って空し」。 人は憂慮心配で心を苦しめてはならぬことを説いた節。
高山寺の「鳥獣戯画」による博奕の図。 賛は『論語・陽貨篇』の、無為徒食より博奕でもやった方がましだ、という孔子の語。
樵夫の図。 賛は『菜根譚』の忍耐を説いた節。
老母が糸を繰りながら、子供の読書を監督する景。 賛は清の衰枚の『随園詩話』巻二の文。 大意は、「古来文人は、母の教えのお蔭をこうむった者が多い。 欧陽脩や蘇東坡は、そのもっとも著しい者である。 王次山が銭脩亭の描いた「夜紡授経図」に、次のような詩を題した。夜、かがり火を明々とたいて辛い仕事にいそしむ。膝の周りで子供らが書を読み、その声が糸を紡ぐ音と調和する。手に女の仕事を取って、読み方の練習を聴く。慈母の先生であることを知るべきである」。
蘇東坡の愛蔵した石銚の図。 賛は東坡の「次韻周橦恵石銚」詩。
牧渓山居の図。 賛は『昨非庵日纂』の文で、河陽の釈法常がたいそう酒を愛したことを述べた項。