3.6 80歳代 - II

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四君子絵図 四曲屏風一隻 大正8年(1919) 84歳 桐板着色 両面 156 x 194 cm
表に蘭、竹、菊、梅の四君子を描き、蘭図の賛は宋の鄭所南の蘭譜、竹図は明の周亮工の文、菊図は類典の文、梅図は梅の画をよくした宋の詩僧恵洪覚範の略伝である。
裏には「善人と居る」「口を守ること瓶の如し」「群仙聚会」「漁父辞」の詩文を録している。

乗槎浮海図 伏魔大帝
関雲長像
茂松清泉図 仙縁奇遇図 盧?喫茶図
乗槎浮海図 大正8年(1919) 84歳 紙本着色 135 x 33 cm。 仙人が筏に乗って海を渡る景。
伏魔大帝関雲長像 大正8年(1919) 84歳 紙本着色 156 x 47 cm。 蜀漢の皇帝劉備に忠節を尽した関羽(雲長)は、死後神として祭られ、明の万暦中、三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君という尊号を贈られた。 賛は明末の忠臣倪元瑚の「関神像賛」を録する。 大意は、「儒仏道の三教は共に世の綱紀を維持するもの。関帝は文人には文を、武人には武を与え、悪を禁じ、吉凶を示して民を導き、上は帝王、下は一般民衆からも尊崇されている」。
茂松清泉図 大正8年(1919) 84歳 絹本着色 154 x 51 cm。 唐の道士潘師正は嵩山逍遥谷に住み、清浄寡欲、松の葉を食べ、泉の水を飲んで暮らしていた。唐の高宗が召して何か欲しいものはないかと問うたところ、臣の求むるところは茂松清泉のみで、山中にたくさんあります、と答えた。高宗はその人柄に感じ、その盧のあるところに崇唐館を建てさせたという。図はおそらく潘の隠栖の景を描いたものであろう。
仙縁奇遇図 大正8年(1919) 84歳 絹本着色 127 x 35 cm。 唐の女仙呉彩鸞は、太和年間名月の夜、鍾陵の踊り場で進士文蕭を見染め、山上の家に誘ったが、仙人であることを洩らした罰として、一〇年間下界の男の妻とされることになり、二人は鍾陵に下って夫婦となった。彩鸞は小楷で「唐韻」を書き、それを売って生計を立てた。一〇年後、二人は虎に乗って仙去したという。図は呉彩鸞、文蕭が山上から錘陵へ下る情景。 賛は『玉台書史』の文。なお、「唐韻」は仙人の書として有名なもの。
盧?喫茶図 大正8年(1919) 84歳 絹本着色額装 42 x 50 ㎝。 盧?(玉川子)は唐の高士で茶を愛した。有名な「茶歌」がある。この図は韓退之の「寄盧全詩」に「玉川先生洛城の裏。破屋数軒のみ。一奴は長鬚、頭をつつまず。一婢は赤脚、老いて歯無し」によって描いたものだ。

羅振玉東山学舎図 東山秋霽図 蓬葉山図
羅振玉東山学舎図 大正8年(1919) 84歳 紙本着色 扇子 19 x 53 cm。 殷代の古字の研究家として有名な羅振玉(叔言)は、内藤湖南の勧めで、一九一一年の辛亥革命の乱を避けて日本に亡命、洛東田中村に住み、鐵齋とも親交を結んだ。 大正八年、羅振玉が帰国するに際し、鐵齋は羅氏の東山学舎を描いて記念とし、湖南に贈った。
東山秋霽図 大正9年(1920) 85歳 紙本着色 扇面額装 17 x 53 cm。 賛は「東山の秋霽」。 東京在住の洋画家正宗得三郎が訪れた折、贈ったもの。
蓬葉山図 80歳代 絹本着色 扇面掛軸 18 x 56 cm。 賛は、「蓬莱、日月長し」。仙人の住む蓬莱山では、時間の経過がのんびりしているとの意。

東坡酔帰図 浮島原晴景図 小黠大胆図
東坡酔帰図 80歳代 紙本着色 扇面掛軸 12 x 41 cm。 蘇東坡は神宗の時、讒言によって黄州に流されたが、哲宗が立つと召還されて翰林院学士に任ぜられた。宮中に召され宣仁皇太后から、神宗が生前東坡を登用しようと思いながら果たさずして死んだことを聞かされて感泣した。茶を賜い、御前の金蓮燭を下げて、院に帰るのを送らせた。 この図では蘇東坡の酔態を描いてあるが、おそらく清画に粉本があるのだろう。
浮島原晴景図 大正9年(1920) 85歳 紙本銀地着色 掛軸 27 x 24 cm。 縁戚伊沢家に贈ったもの。 賛は明治二年(1869)、東京行幸の時、明治天皇が浮島原で富士山を御覧の際、三条西季友が奉った歌、『君やきみ能みそなはせふしの根ハ 国のしつめの山といふ也』 を録す。 ちなみに鐵齋は、この時の行幸に供奉していた。
小黠大胆図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩 掛軸 30 x 23 cm。 大正九年は申歳なので、この図を描いたもの。 ちなみに鐵齋は申歳生まれ。 賛は、「小ざかしい猿めが大胆な」という意。
梅渓閑遊図 歳寒三友図 紙雛図 化城喩品図 福禄寿図
梅渓閑遊図  80歳代  紙本着色  130 x 35㎝。  賛は「人生行楽のみ」。 陳簡斎の句。
歳寒三友図 大正9年(1920) 85歳 絹本着色 47 x 58 cm。 寒い季節に、寒気に堪えて咲く梅と山茶花と水仙を、歳寒三友という。ありふれた画題だが、鐵齋もしばしば描いている。 賛は「百花の魁を占む」。 孫女弥生の婿伊沢三辰に贈ったもので、なかなか入念に描いてある。
紙雛図  大正9年(1920) 85歳 紙本着色  127 x 28 cm。 孫女弥生に与えたもの。あっさりした筆致ながら、色彩が鮮麗である。 賛は奔放な草書で読みにくいが、「万古、此の春を娯しむ」とある。
化城喩品図 大正9年(1920) 85歳 紙本墨画 135 x 33 cm。 狩野君山(直喜)の夫人の一周忌に贈ったもの。同家の宗旨に因み『法華経・化城喩品』の化城を牧谿墨を使い、米法山水の技法をもって描く。 一導師が衆人を率い、険しい道を通って珍宝を求めに行く途中、衆人が疲労して止めて帰ろうとした時、導師が方便力をもって化城を起こし、衆人を励まして進ませ、彼らが化城に至って休息して疲労が取れた時、その化城を滅し、さらに彼らを前途に向かわせた、という話。
福禄寿図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩 132 x 64 cm。 賛は、「真に大いに富貴にして、また且つ寿考なれ。永く福禄に緩んぜよ。爾の子孫に宜し」。第一句と第二句の出典は『神仙感遇集』であり、第三句と第四句の出典は『詩経・小雅』と『詩経・国風』であって、富貴と長寿と福禄と子孫繁栄を祈ったものである。

善心応報図 白隠訪白幽子図 蝸牛盧図 東坡捫腹図 渓山招隠図
善心応報図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩  146 x 40 cm。 『賢愚経巻第二・華天因縁品』に「舎衛国の長者の家に男の子が生まれた。顔が端正で、天から花が降り、家中一杯になった。華天と名付けた。出家して阿羅漢果(悟りの位の一つ)を得た。仏弟子の一人阿難が、その因縁を釈迦に問うたところ、華天は前生、眦婆戸仏の時貧民であったが、僧を見て歓喜し、野や沢で花を採り、僧に供養したので、今生において阿羅漢果を得たのだということだった」とある。図は華天の像。 賛は『賢愚経』の文を節略したもの。
白隠訪白幽子図 大正9年(1920) 85歳  紙本着色 133 x 51 cm。 徳川時代の禅僧白隠は、若い時、修行に身心を苦しめて病気になり、白川山中に隠栖する白幽を訪うて内観法を授けられ、その法によって健康を回復することができた。そのことは、白隠の『夜船閑話』に詳しい。 鐵齋は白隠を尊敬し、また白幽の墓を再建したり、白川山中の洞穴を探って記念碑を建てたことがあるが、この図は白隠の作品の蒐集家だった細川護立(元侯爵)の依頼に応じて制作したもの。図は白川山の洞穴に住む白幽を、白隠が訪れて教えを請う景。
蝸牛盧図 大正9年(1920)  85歳  紙本淡彩  125 x 32 cm。 諏訪蘇山が自製の竹の挿花器に蝸牛の形の焼物を装飾につけたものを贈ってくれたのに対する返礼として、蘇山に贈ったもの。図は蝸牛形の小屋に住んだ、晋の隠者焦先の像。顔は蘇山に似せてあるらしい。 賛は『事文類聚』に載っている焦先の蝸牛廬の項と、『本草綱目』の蝸牛の説明文と、『寂蓮法師集』に載っている蝸牛の歌を録し、蘇山にこの図を贈る由来を書いてある。
東坡捫腹図 大正9年(1920) 85歳  紙本淡彩  130 x 31 cm。 蘇東坡が、ある日、朝廷から退出して食事をした後、腹をさすりながら侍女たちに向かって、「この腹の中に何があるか言ってごらん」と言った。一人の侍女が、「文章が一杯入っています」と言うと、東坡は、「いや、そうではない」と言った。また一人が、「識見が一杯入っています」と言っても、東坂は違うと言って否定した。妾の朝雲が、「学士の腹は、時世に合いません」というと、東坡は腹をかかえて笑った。 賛は以上のことを記した『梁谿漫志』の文。
渓山招隠図 大正9年(1920)  85歳  絹本着色 171 x 71 cm。 賛は、「青山万畳、雲尽くること無く、中に仙人の問月台有り」。これは元の高克恭(房山)の句として『宝絵録』に出ているが、明の李日華の『竹嬾画賸』にも録されている。問月台というのは、仙人が登って月に様々の質問を発する台で、宋の道士白玉蟾の詩に見えている。

緑陰煮茗図 懐素書蕉図 読書立志図 山荘風雨図 漁邨暮雨図
緑陰煮茗図 大正9年(1920)  85歳  絹本着色  127 x 37 cm。 賛は明の屠本駿の『茗笈』の序に載っている「南山有茶」という詩を録する。
懐素書蕉図 大正9年(1920) 85歳  紙本淡彩  129 x 32 cm。 唐の懐素は初め仏道に励み、のち書道にふけって草書の名人と。なった。酒好きで酔うと手当たりしだい何にでも字を書いたが、貧乏で紙が無いので芭蕉を栽培し、その葉に字を書いた。 図はその景。画中の懐素は鐵齋自身、少年は孫男益太郎を表わす。大正九年(一九二〇)、鐵齋は大雲院に筆塚を作ったが、筆塚の元祖が懐素であることを想起して、この図を描いたのである。 またこの図に押してある漢の古銅印「軍司馬印」は、懐素が井戸をさらえて掘り出したものだという。
読書立志図 大正9年(1920)  85歳  紙本淡彩  132 x 35 cm。 燈火親しむぺき秋の夜の書斎の景。 賛は唐の韓退之が、その子符に読書を勧めた「符、書を城南に読む詩」を録する。「人間が人間らしくなるのは、腹に詩書を蓄えることによる。読書せねば腹は空っぽ。読書すれば立身出世できるが、怠けていれば没落する。秋となって長雨が晴れ、涼しい季節となった。燈火親しむべき時だ。大いに勉強して欲しい」というような意味である。
山荘風雨図 大正9年(1920) 85歳  紙本淡彩  147 x 41 cm。 賛は元僧煕晦機の詩句、「人間万事塞翁が馬。推枕軒中、雨を聴きて眠る」を録す。大意、「昔、北方の塞近くに住んでいた人の飼っていた馬が、胡人の地に逃げた。世人が気の毒がると、彼は禍転じて福となるかも知れぬ、と平気だった。逃げた馬が胡人の馬を連れて帰ってきた。世人が祝うと彼は福は禍となるかも知れぬと言った。乗馬好きの彼の子が落馬して股の骨を折った。世人が気の毒がると、彼は禍転じて福となるかも知れぬと、依然として平気でいた。やがて胡人が攻めてきて、塞の人々は防戦してたくさん死んだが、この親子は子供が跛なので助かった。このように人間万事、禍福は転々と変わるもの。そんなことに心を煩わさず、のんびりと推枕軒の中で、雨の降る音を聴きながら眠っている」。
漁邨暮雨図  大正9年(1920) 85歳  紙本墨画  131 x 32 cm。 羅振玉が自ら彫った「願書万本誦万遍」という印を贈ってきたので、大喜びした鐵齋は、牧谿の画法によってこの図を制作し、その印を捺して記念とした。 賛は以上のことを書いてある。 なお、この印文の出典は唐の李商隠の「韓碑詩」である。「願わくば万本を書し万遍を誦せん」と読む。

大国主大神影 南極寿老星図 蘇公戴笠図 福禄寿会図 蓬莱群仙会図
大国主大神影 大正9年(1920) 85歳  紙本金泥  131 x 44 cm。 鐵齋は大国主を大黒天として描くことを好んだが、紺紙金泥のものは珍しい。 賛は、「国土を経営し人倫を扶植す」。
南極寿老星図 大正9年(1920) 85歳 紙本着色 133 x 52 cm。 賛は清の康煕帝の文。大意、「『遼史』に応歴一一年二月、南極老人星が現れたとあるが間違いだろう。この星は揚州では二、三月に度々見えるが、北方では見えないはずだ。遼の都臨潢府は東北の地にあるから、この星が現れることは無いはずだ」。
蘇公戴笠図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩 131 x 32 cm。 蘇東坡が海南島にながされていたとき、出先で雨に降られ、農家で笠を借り、下駄を履いて帰ったところ大笑いされたという逸話を描く。
福禄寿会図 大正9年(1920) 85歳 絹本着色 146 x 42 cm。 南極老人星は寿星ともいい、寿命の神。宋の仁宗の時、都に出現したという。 普通、鹿と蝙蝠を描き添え、禄と福を表わし、福禄寿と称する。 この図は群仙が寿老人の寿を祝する景であろう。
蓬莱群仙会図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩 190 x 58 cm。 群仙が寿命の神である寿老人の寿を祝う図。上空、鶴に乗って飛来するのが寿老人。賛は元の呉鎮が宋の郭忠恕の「仙峰春色図」に題した詩からとった句。「一石鼇に負われて三島に去り、九峰に鶴に騎りて衆仙来る」。 大意、「大きなすっぽんが、東海にある方丈・瀛洲・蓬莱の三神山の方に石を背負って去り、九疑山には多くの仙人が鶴に乗ってやってくる」。

東坡謁仏印図 漁隠楽境図 陳希夷仙窩図 富士山図
東坡謁仏印図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩 133 x 34 cm。 蘇東坡が杭州の長官だった時、ある日天竺寺の仏印了禅師を訪れたところ、仏印は「昨日の大風で窓前の二本松の一本が折れて惜しいことをした。詩を作ったが下の二句ができない」と言って、「龍枝すでに風雷を逐うて変じ。虚窓半日の涼を滅却す」という句を示した。蘇東坡は即座に「天は禅心の円なること月に似たるを愛し。ことさらに明月を添えて清光を伴なわす」と詠んだので、嘆して歌った。賛は以上のことを記した『禅喜集』の文を録す。
漁隠楽境図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩 131 x 33 cm。 二人の漁夫が、のんびり眠っている図。 賛は「心境を放開す」。
陳希夷仙窩図 大正9年(1920) 85歳 紙本着色 131 x 33 cm。 宋の仙人陳搏(希夷)は武当山や華山に住んで仙術を修め、太平興国年間、宋の太宗に謁したことがある。睡眠を好み数ヵ月も眠ることがあったので、睡仙とも呼ばれる。像は『三才図会』や『仙仏奇踪』に載っているものによる。 賛は、「志、煙霞にあり、隠淪を慕う」とある。大意、「霧や霞のかかっている山中に逃れて仙人となることを志す」。孫女弥生の夫伊沢三辰に与えたもの。
富士山図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 40 x 66 cm。 和歌勅題に因んだ作であろう。富士山麓の浅間神社の社頭の暁の景。

歳寒二友図 前賢講書図 教祖渡海図
歳寒二友図 大正10年(1921) 86歳 紙本着 色扇子 17 x 49 cm。 水仙と竹と怪石の図。 賛は「歳寒二友」。
前賢講書図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 扇子 18 x 47 cm。 息謙蔵と京都大学で同僚だった漢学者狩野君山に贈ったもの。 学者たちが一堂に集まって論講する景。 賛は宋の大儒張載(横渠)の語「天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、先聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」を録す。 この語は、要するに儒者の志を述ぺたものである。
教祖渡海図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 扇面額装 17 x 54 cm。 釈迦、観音、老子、孔子、達磨が一隻の舟に乗り、中で達磨が楫を取っている図。 賛は室町時代の禅僧万里周九の『梅花無尽蔵』にみえる賛。 大意、「諸聖が煩悩の苦海に沈む衆生を救うため、一隻の舟に同乗して出かけられるが、諸聖の教えは衆生の病に応じて与える薬のようなものである。 釈迦、観音、老子、孔子の教えは、いわば人参、甘草、白朮、陳皮のようなものであるが、達磨の禅道は苦いが利き目がある」。 儒・仏・道・禅の中で、禅がもっとも秀れているという意を寓したもの。

呂仙人洞賓図 東坡洗児図 静坐息機図
呂仙人洞賓図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 扇面掛軸 17 x 54 cm。 唐の呂洞賓は長安の酒屋で一人の異人が壁に「坐臥常に携う酒一壺。双眼をして星都を識らしめず。乾坤許く大なれども名姓無し。人間を疎散す一丈夫」という詩を題するのを見て怪しみ、姓名を問うと、それは漢の仙人鍾離権だった。鍾は呂に仙道を修めよと勧めたが、呂は躊躇した。眠くなったので鍾の枕を借りて眠り、夢の中で立身出世して栄華をきわめ、晩年失脚したところで夢から醒めたが、鍾が炊いでいた黄梁は、まだ煮えていなかった。ついに人生のはかなさを悟り、鍾の弟子となり、仙人になったという。 図は呂が夢を見ている景。 賛は上記の鍾の詩を録す。
東坡洗児図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 扇面掛軸 15 x 52 cm。 孫女弥生が伊沢三辰に嫁して曽孫鳳一郎を生んだ、その祝いに贈ったもの。 図は『顧氏歴代名人画譜』に載っている宋の蘇漢臣の画によって描き、賛は蘇東坡の「洗児、戯れに作る」という詩を録する。 「人は皆子を養うて聡明を望む。我は聡明に一生を誤らる。ただ願う孩児愚かつ魯にして。災無く難無く公卿に到るを」。 洗児とは、子供が生まれて始めて入浴させる儀式である。
静坐息機図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 扇面額装 8x53cm。 題の「静坐して機を息む」は、静坐して機心、すなわち企み心を捨て、雑念を去る、というほどの意味。

松図 松図 桜花図
松図 大正10年(1921) 86歳 紙本金地着色 扇子表面 21 x 59 cm。 細川護立(当時侯爵)に贈ったもの。
松図 大正10年(1921) 86歳 紙本金地着色 扇子裏面 21 x 59 cm。 左の裏面。
桜花図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 扇子 12 x 37 cm。 自作のものらしい歌を題する。 『そへさきにほ 春ことにひかりを添て咲匂ふ 花はさくらの花は桜花々』

竹図 竹図 蘭芝図
竹図 大正10年(1921) 86歳 紙本金地着色 扇子表面 21 x 59 cm。 細川護立(当時侯爵)に贈ったもの。
竹図 大正10年(1921) 86歳 紙本金地着色 扇子裏面 21 x 59 cm。 左の裏面。
蘭芝図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 扇子 16 x 53 cm。 蘭と霊芝と怪石の図。  賛は「深山の裏に在りと錐も、人の国香を知る有り」。 国香とは国中にあって秀れた香の意で、「蘭に国香有り」という『左伝』の句によって、蘭の代名詞とする。

大江匡房菖蒲献上図 加茂清蔭図 甌北清夏図
大江匡房菖蒲献上図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 墨書 扇子 17 x 46 cm。 堀川天皇の御代、太宰府帥大江匡房が五月五日、朝廷に菖蒲を献上した。 その書状に、「進上水辺菖蒲千年五月五日大江為武」とあった。 殿上人に読めと仰せがあったが、誰にも読めなかった。 藤原師頼が、これを「たてまつりあくる汀のあやめ草 千とせのさ月いつかたへせん」と解読した。 この話は『古今著聞集』巻第十九に出ている。  徳川時代の歌僧慈延の『鄰女唔言』には、この歌の上の句を「たてまつる川のほとりのあやめ草」と解読してある。
加茂清蔭図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 扇子 12 x 36 cm。 下加茂神社の鳥居の形。 和歌勅題「社頭暁」に因んだ作。
甌北清夏図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色・墨書 扇子 18 x 54 cm。 甌北は清の詩人趙翼の号。趙翼は古書の校合を消夏の法としていたといわれ、図はその情景。 趙翼の「消夏絶句」に、「長日を消磨するは丹鉛に杖り。常に苦しむ巾箱に逸篇の少きを。事を解す童奴好語を伝う。 門前新に到る売書船」 とあるのによって描いたものであろう。

渓居清適図 瀛洲仙境図 武陵桃源図 閑居清適図 盆蘭図
渓居清適図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 146 x 40 cm。 洋画家正宗得三郎に贈ったもの。 正宗が東洋画は立体感に乏しいと言ったのに対し、鐵齋は、中国の画論にも石に三面ありと書いてあり、立体感をおろそかにすることは無いと答え、やがてこの作品を贈ってきたという。 賛は自作の詩、「耳は聵(つんぼ)にして眼は昏けれど、腕には神有り。毫を援りて猶掃う硯田の塵。八旬に六を加え遊戯を食る。太平徒食の民たるを免れず」。
瀛洲仙境図 大正10年(1921) 85歳 紙本淡彩 131 x 32 cm。 瀛洲は蓬莱・方丈と同じく東海上にある神山で、不老不死の神仙が住んでいるという。正月床の間に掛けるめでたい絵として喜ばれ、鐵齋も世人の求めに応じて、すこぶる多く制作した。
武陵桃源図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 132 x 32 cm。 陶淵明の「桃花源記」に、晋の太元中、武陵の漁夫が、山奥に秦代の乱を避けた人々の子孫が住んでいる秘境を発見したとある。その地は湖広常徳府桃源県の南二十里にあり、その西南に桃源洞があり、洞の北に桃花渓があると『読史方輿紀要』にある。 鐵齋は記憶違いで、それを『大明一統志』と書いている。 例のそそっかしさである。
閑居清適図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 131 x 32 cm。 唐の陸魯望(亀蒙)は隠士であり、茶を愛したことで有名。図はその閑居の景。 賛は魯望の、「顧道士亡弟子奉束帛乞銘於襲美因賦戯贈詩」の中の、「唯だ我に文有るも売る処無し。筆鋒銷し尽して墨池荒る」を録する。 大意、「私には、ただ文章があるだけで、それを売るところがなく、筆の穂が擦り切れ、硯が荒れただけで、一銭の収入もない」。
盆蘭図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 鐵齋は紀州の人から贈られた蘭を大切に栽培していたが、この図はその写生。 賛は宋の楊万里の「蘭詩」の句、「生まれながら桃李春風の面無し。名は山林処士の家に在り」を録する。大意、「蘭は深山幽谷に生じ、風霜をしのいで咲くのだから、春風に吹かれて、あでやかに咲く桃や李のように、世人の目を喜ばせることなく、官に仕えず山林に隠遁する高士の家にふさわしいのである」。

東坡煎茶図 東坡三養図 東坡談癖図 教祖渡海図 東坡安疏図
東坡煎茶図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 133 x 33 cm。 蘇東坡が茶を煮る景。賛は『隠居放言』に載っている東坡の文であるが、おそらく明人の偽作。大意、「茶は白いのが良く、墨は黒いのが良い。茶の色は元来青いのだが、これを煮て青くしては駄目だ。私は泉の水を鑑定するのに長じているが、泉の色がもっとも白い場合、茶をこれに投じれば白く煮上がる。 だから茶の色の白いことを欲する者は、本当の泉を求めようと努める。天然の塩を茶に入れてはならぬ。塩は青いばかりではなく赤い。私の弟子筋の黄山谷・秦少游.・張文潜・晁無咎は、見識が高いから、彼らが来ると、私は愛用の蜜雲龍という上等の茶を煮る。また、必ず妾の朝雲に命じて煮させる。茶は白いのが良いが、その上、煮る人が上手でなければいけない」。
東坡三養図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 132 x 49 cm。 蘇東坡が黄州に流されていた時、次のような文を書いた。 「私は今後、朝晩の飲食を一杯一肉だけにしよう。上客が来て御馳走する場合は、これを三倍にする。それより減らしてもよいが増やしてはならぬ。私を招待する人があれば、あらかじめ、そのことを話しておこう。主人がそれに従わなければ止むを得ない。食を節するのは一つには分に安んじて福を養うのであり、二つには胃をくつろげて気を養うのであり、三つには費用を省いて財を養うのである」と。 これを東坡三養説という。 『東坡志林』に載っているが、鐵齋は『東坡事類』から引用している。
東坡談癖図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 132 x 32 cm。 蘇東坡は黄州や広東に流されていた時、毎朝客を招いて談笑したり、または外出して客を訪問した。その交際の相手は選り好みをせず、相手の身分の高低に応じて自由に話し、分け隔てをしなかった。話題のない者には幽霊話でもしなさいと言い、それさえ無いという者には、でたらめでもいいから話しなさいと言った。図は東坡が客と語る景。 賛は『癖顛小史』の文。
教祖渡海図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 146 x 40 cm。 達磨が揖を取る船に釈迦・観音・孔子・老子が同乗して、苦海に沈む衆生の救済に向かう景。儒・老・仏の三教は、結局に於て一致するという思想を表わす。 賛は室町時代の禅僧で後に還俗した万里周九(漆桶居士)の詩、「人参甘草白朮陳皮。中に毒薬少林の一枝あり」を録する。釈迦・孔子・老子などの教えは、人参や甘草や白朮や陳皮のような作用のおだやかな薬だが、少林寺に面壁九年の修行をした達磨の禅は、苦くて効目の早い薬だとの意。
東坡安疏図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 蘇東坡が、焼いた里芋を食った故事に因む。 賛は、『蘇沈内翰良方』に載っている東坡の文。 大意、「岷山の麓では凶年に里芋を糧食とするが、疫病が起こらぬ。『本草』に里芋を土芝といっている。恵州には里芋が多いが、疫病が起こる。 呉遠遊の説では、それは里芋のせいではない。里芋は皮をむき、濡紙で包んで、灰の中に埋めて焼き、熱い間に食えば甘い。恵州の人は皮つきのまま煮て、冷やして食うから堅くてまずい。疫病が起こるのも当然だという。 紹聖三年除夜の前二日、夜ひどく空腹を感じた。 呉遠遊が里芋二個を焼いて食わしてくれたが、たいそう美味だった」。

守愚補拙図 仙遊蓬莱図 魁星図賛 掃塵山窩図 売書船図
守愚補拙図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 賛は、「一分の痴呆を学び得て、一分の快活多し。余の画における、常にこの意を学ぶ」とある。 画題の出典は、韓偓の詩句「愚を守りて世途の険を学ばず」と、白楽天の詩句「拙を補うは勤に如くは莫し」から取ったのであろう。
仙遊蓬莱図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 51 x 64 cm。 仙人が、その修行法の一つとして蓬莱山を観じている景。仙人の姿は、『仙仏奇踪』『三才図会』に載っている、宋の仙人陳希夷の像によって描いてある。 賛は『雲笈七籤』に載っている、蓬莱山についての解説文。 大意、「蓬丘は蓬莱山のこと。東海の東北岸に対する。めぐりは五千里。北は鍾山の北阿門に至る。ここは天帝が九天の綱を束ねている所。山中の湖水の中心に、崑崙山に似た山がある」。
魁星図賛 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 魁星は北斗七星の第一星だが、元・明の頃から奎星と混同され、文運を司るとされ、科挙を受ける者に祭られた。魁の字は鬼に斗だから斗(ます)を持つ鬼の形に作られた。また、梅は百花に魁けて咲くので、添えて描かれる。 賛は、『歴代画像伝』に載っている、魁星図の解説文を録する。
掃塵山窩図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 150 x 41 cm。 賛は、『燕居筆記書箋部』に載っている王陽明の語。 大意、「塵というものが、多くの人々の良知を曇らしてしまう。我々は、この塵の無くならないのを、もっとも嫌う。我々の結社の名を掃塵と称することにしよう。以後は心の塵、言語談話の塵、文章の塵、世渡りの塵など、すべて掃いのけなければならぬ」。
売書船図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 130 x 32 cm。 清代には、書籍を船に載せて売ってまわる商人があった。図はその景。 賛は清の趙翼(雲崧)の消夏絶句。大意、「夏の長い日を、書物を校合して消す。いつも布を張った箱に、優れた書物が少ないのを苦に病んでいる。物の分かった侍童が、好い話を持ってきた。門前に売書船が、やって参りましたと」。

思邈山居図 呂洞賓図  空山静境図 東坡品茶図 菖蒲献上図
思邈山居図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 146 x 40 cm。 賛は『北斉医方』を引く。 大意、「孫思遡は『千金要方』を著わした。耀州の五台山に孫家原があるが、これは孫真人の故宅である。山に太元洞がある。これは龍王の子が負傷していたのを真人が治療したので、龍王がその返礼としてうがったものである。中に真人の碑がある」。
呂洞賓図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 143 x 41 cm。 唐の呂洞賓は、長安の酒店で異人が壁に詩を題するのを見て姓名を問うたところ、それは漢の仙人鍾離権だった。鍾離権は彼に仙道の修行を勧めたが、彼は躊躇した。眠くなったので鍾に枕を借りて眠り、夢をみた。立身出世して栄耀をきわめ、晩年失脚するところで醒めたが、鍾の炊く黄梁は、まだ煮えていなかった。ついに人生のはかなさを悟って鍾の弟子となり、有名な仙人になった。 図は呂が眠っている景。 賛は呂の詩、「紅塵に落魄して四十春。無為無事、天真に信す。生涯ただ在り乾坤の鼎。活計は、ただ憑む日月輪。八卦気中、至宝潜み。五行光裏、元神隠る。桑田改変するも依然として在り。永く人間出世の人とならん」。
空山静境図 大正10年(1921) 86歳 絹本着色 141 x 41 cm。 賛は、「心、世塵を空ず」。
東坡品茶図 大正10年(1921) 86歳 紙本着色 147 x 41 cm。
菖蒲献上図 大正10年(1921) 86歳 紙本淡彩 132 x 32 cm。 堀河天皇の御世、大江匡房が太宰府から菖蒲を朝廷に献上したが、その書状に、「進上水辺菖蒲。千年五月五日。大江為武」とあった。「これを読め」と殿上に差し出されたが、ただ一人藤原師頼だけが、「たてまつり上ぐる川辺のあやめ草、弁鱗のさつきいつか絶えせむ」と解読することができたという故事を描く。 この話は『古今著聞集』に載っているが、鐵齋は徳川時代の歌僧慈延の『隣女唔言』の文を録している。 これを画題としたのはおそらく鐵齋が最初であったらしく、大いに自慢にして、しばしば描いている。