3.5 80歳代 - I

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踏雪沽酒図 鵞図 普陀落伽
観世音菩薩像
梅山幽趣図 東方朔捧桃図
踏雪沽酒図   80歳頃 紙本墨画 129 x 33 cm。 鐵齋は若い時から雪景山水を得意としたが、晩年になるとますますその筆が大胆になった。 賛は、「山中の酒戸、寒を衝いて去り、城裏の行人、雪を踏んで来る」。 宋の銭舜挙の句。
鵞図 大正四年(1915)  80歳 紙本淡彩 140 x 55 cm。 賛は『ヒ雅』に載っている鵞鳥についての説明文を長々と引用し、また顧亭林の『続字彙補』に載っている鵞の字についての解説を引いてある。
普陀落伽観世音菩薩像 大正4年(1915)  80歳 紙本淡彩 144 x 40 cm。 賛は元の四大家の一人呉鎮(梅道人)の「大定光中。自在の相を現ず。楊柳瓶中。破陀たる石上。心は止水の如く水は心の如し。稽首す大悲観世音」を録する。大意は、「観音は大禅定の光の中に無碍自在の相を現している。観音の持っている水瓶に楊柳が挿してあり、観音は、ごつごつした石の上に坐っている。観音の心は止っている水のように静かであり、水は観音の心のように清い。大悲観世音を礼拝し奉る」。
梅山幽趣図 大正4年(1915)  80歳  絹本着色  130 x 42 cm。 栂尾の明恵上人の像。明恵の弟子恵日房成忍の図による。 賛は、明恵が高雄の神護寺の文覚上人に送った書翰で、茶の実を贈る旨を記してある。 明恵は、入宋して茶の実を携え帰った栄西禅師からそれを分けてもらい、栂尾で栽培したと伝えられる。 なお画題の梅山は栂尾のこと。栂という字は国字で、栂はこの場合「うめ」ではなく「くすのき」の類。そこで栂尾を昔は梅山と書いたのである。
東方朔捧桃図 大正5年(1916)  81歳  紙本着色 132 x 64 cm。 東方朔は長生の術を会得した仙人といわれ、古来、おめでたい画題として描かれる。賛は『漠武敢事』の文を節略したもの。 大意は、「漢の武帝の時、東郡から小人を献上した。帝が東方朔を呼んでこさせたところ、小人は東方朔を指さして言った。西王母が桃を植えましたが、それは三千年に一度実がなります。この子はそれを三度も盗みました」。

福寿遊戯図 西湖略景図 有余不足図
福寿遊戯図 80歳代 紙本着色 扇面額装 17 x 55 cm。 大黒と寿老人が角力をとる景。 賛は自作の狂歌。 『長いきもいらぬ遊ひになけやられ 七福神のもの咲ひなれ』 。
西湖略景図 80歳代 紙本着色 扇面額装 18 x 55 cm。 杭州西湖の景。 中国に遊んだ人から西湖の水を贈られ、それをもって描いたもの。
有余不足図 大正4年(1915) 80歳 紙本着色 扇子 17 x 47 cm。 宋末元初の銭舜挙の作を学んだもの。蝶や蟹や魚の死骸に蟻が群がっている景。 画題は『老子』に「天の道は余り有るを損して足らざるを補う」とあるのに依る。

繋舟静臥図 多福多寿多男子図 漁樵図
繋舟静臥図 大正5年(1916) 81歳 紙本淡彩 扇面掛軸 17 x 53 cm。 自作の詩を題する。 「奉公、何ぞ必ずしも功名を事とせん。煙波に遁れ入る鷗鷺の盟。汝、凡民を脱す、豪傑の士。一貧洗うが如きも心の清きを楽しむ」。 大意、「君のために心力を尽くすには、必ずしも功名を立てるばかりが能ではない。お前は、かねてから世間を超越して鷗や鷺を友としたいと誓っていたので、煙気の立ちこめる波間に遁れた。お前は本来豪傑であって平凡な民ではないのだ。赤貧洗うが如くであるが、心の清らかなのを楽しんでいる」。
多福多寿多男子図 大正5年(1916) 81歳 紙本着色 扇面額装 17 x 53 cm。 多福・多寿・多男子は祝誦の語。仏手柑が多福、桃が多寿、柘榴が多男子を表す。吉祥の画題で、明清画にも多い。 鐵齋も同じ主題で、図柄を変えていくつも描いている。
漁樵図 大正5年(1916) 81歳 紙本着色 扇面掛軸 16 x 54 cm。 賛は、「異人、跡を晦まして漁樵に遁る」。 大意、「非凡な人が漁夫や樵夫となって身をかくす」。

林和靖図 松陰孤坐図
林和靖図  大正4年(1915) 80歳 紙本着色 額装 20 x 14 cm。 宋の林逋(和靖)は西湖孤山に隠栖し、梅と鶴を愛したが、また茶を好んだ。図は和靖が茶を飲み、童子が茶臼をひく景。 賛は和靖の「茶」詩。 「石碾軽く飛ぶ瑟々の塵。乳香烹出す建渓の春。 人間の絶品応に識り難かるべし。閑に茶経に対して故人を憶う」。 大意、「石臼で茶をひくと緑色の宝石のように美しい粉末が軽く飛ぶ。茶の名産地である建渓の茶を煮ると、乳のように白く香が高い。建渓の茶は世間に珍れな秀れた品であって、世人はその真価を知りがたい。心のどこかに唐の陸羽の書いた『茶経』に対して、茶を愛した陸羽のことを思い起こす」。
松陰孤坐図  80歳代  絹本着色 掛軸 26 x 20 cm。 賛によると、これは明の徐枋(侯斎)が黄道周(石斎)に贈った作品を写し、色彩を施したものである。 黄道周は明末の学者で、明の滅亡に殉じて死に、徐枋の父もやはり同じく難に殉じたが、徐枋は遺民として清代まで生存した。

佳実図 碧桃寿鳥図 鳳鳴朝陽図 十牛図意図 大江捕魚図
佳実図 大正4年(1915)  80歳  紙本着色  129 x 30 cm。 岐阜出身の書家山本寛山から美濃柿を贈られて、その礼に描いたもの。 賛は『爾雅翼』の文。大意は、「世間では次のように言っている。柿には七つの長所がある。一に寿命が長い、二に日陰が多い、三に鳥が巣をつくらない、四に虫食いが無い、五に紅葉が美しい、六に実を食べることができる、七に落葉が大きくて字を書くことができる」。 なお、落款に「賜杯老民」と記しているのは、この年大正四年一一月、御大典に際し、養老木盃を賜わったからである。
碧桃寿鳥図 大正5年(1916)  81歳  絹本着色  168 x 72 cm。 碧桃は漢の武帝の時、西王母が降臨して帝に与えたもので、三千年に一度花が咲き、三千年に一度実がなるというもの。武帝の臣東方朔は実は仙人で、三度この桃を盗んで食ったことがあるという(前図参照)。 寿鳥は酉王母の使いの青鳥。 長寿を祝うめでたい画題で、色彩豊麓である。 賛は、『漢武内伝』の記事を若干変えて引いてある。
鳳鳴朝陽図 大正5年(1916) 81歳 絹本着色 143 x 42 cm。 鳳は聖人が出て世の中が太平になると現われる瑞鳥で、梧桐に棲み、竹の実を食い、醴泉を飲むという。鳳鳴朝陽は『詩経・大雅・巷阿』の「鳳凰鳴く彼の高岡に。梧桐生ず彼の朝陽に」の句によるもので、天下太平を祝う画題である。 この図は鐡齋が自分の所蔵していた清の画家孫億の「梧桐鳳凰図」を左右逆にして描き、色彩をさらに鮮麗にしたものである。 賛は「鳳、朝陽に鳴く」。 大意は、「鳳風が朝日のさす山の東に鳴く」。
十牛図意図 大正5年(1916) 81歳 絹本着色 151 x 51 cm。 「十牛図」は禅生活の修行過程を牧牛に喩え、段階的に並べて図に描き、それに賛を付したもので、図柄からいえば牧牛図である。 廓庵和尚の「十牛図頌」がもっとも有名で、賛に録すのはその文である。 なお十頒は「一に牛をさがす。二に牛の足跡をさがす。三に牛を見つける。四に牛をつかまえる。五に牛を牧す。六に牛に乗って家に帰る。七に牛を忘れて人を存す。八に人、牛ともに忘れる。九に大悟する。十に俗世に入って説法する」。
大江捕魚図 大正5年(1916) 81歳 紙本淡彩 149 x 81 cm。 漁夫の生活を描いたもの。賛に明の画家唐寅の「詠漁家楽詩」を録す。大意は、「世は太平で豊作であるから、米は安く、酒を買うのに十分なお金がある。タ日ぶ半ば沈んで浪風がたっているが、舟は港に入っているのでひっくりかえる心配はない。獲りたての魚を煮、酒を温めて知人を呼び、代る代る唱ってしきりに舷を叩く。酔ってくると盃をあげて明月にささげ、この楽しみは仙人に通じるという。はるかに望むと黄塵の舞う道には名利を求める人が往来しているが、富貴は私には雲か煙のようにはかないものである」。

遠山雪景図 蘇子笠履図 猛虎図 金陵春賞図 寄情丘壑図
遠山雪景図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 額装 63 x 37 cm。 大正六年の和歌勅題「遠山雪」を主題にしたもの。
蘇子笠履図 大正6年(1917) 82歳 紙本淡彩 146 x 61 cm。 北宋の詩人蘇東坡と誕生日(一二月一九日)が同しであったことから、鐵齋ば蘇東坡に対して特別な親しみを持っていたようで、蘇東坡を主題にした作品をたくさん描いた。これもそのひとつ。東坡が海南島に流されていた時、黎子雲という人を訪ねての帰途、雨に遭い、農家から筍笠と下駄を借りて帰ったところ、女や子供が後からついてきて笑い、村の犬が集まってきて吠えた、という逸話を主題にしたもの。中国でも早くから画題となり、石刻にもつくられていて、鐵齋はその拓本をもっていた。これはその拓本をもとに描いたもの。 なお、この図は大正六年、京都東山の左阿彌で開かれた寿蘇会の折、左阿彌主人に贈ったものである。
猛虎図 大正6年(1917) 82歳 紙本着色 142 x 53 cm。 賛は、『佩文斎詠物詩選』にみえる明の僧法杲の山居詩、「青山畳畳、珠林を遶り。磐の響は時に流水の音を兼ぬ。虎は人を避けず、人は虎を避く。虎は能く我に先んじて機心を息む」。 珠林は寺、機心はいつわりたくらむ心。
金陵春賞図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 157 x 43 cm。 金陵はすなわち南京で、花柳街が繁栄した。図はその景。 鐵齋ぽ儒者ではあるが、時にはこのようなくだけた絵も描いた。 賛は『板橋雑記』に載っている李香という娼妓に関する記事。
寄情丘壑図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 145 x 52 cm。 賛は、「心を山や谷に寄せる」というほどの意味。 俗世間から離れて山中に隠棲し、自然に親しむ生をおくりたいという文人の理想を描いたもの。

大国主神影図 事代主神影図 王元之竹楼記図 読書医俗図 天賜吉慶図
大国主神影図 大正6年(1917) 82歳 紙本着色 135 x 26 cm。 大国主命と事代主神は父子で、少彦名神と力を合わせて出雲を経営したが、国土を瓊瓊杵尊に譲って隠退した。大国が大黒と音が通ずることから、大国主命は、七福神の大黒天と一緒になった。 また、七福神の恵比須は事代主神ともいわれる。 大津絵の筆法で描いたもの。 賛は、「福神遊戯」。
事代主神影図 大正6年(1917) 82歳 紙本着色 135 x 26 cm。 大国主命と事代主神は父子で、少彦名神と力を合わせて出雲を経営したが、国土を瓊瓊杵尊に譲って隠退した。大国が大黒と音が通ずることから、大国主命は、七福神の大黒天と一緒になった。 また、七福神の恵比須は事代主神ともいわれる。 大津絵の筆法で描いたもの。 賛は、「魚、海に躍る」。
王元之竹楼記図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 170 x 71 cm。 北宋の名臣王禹偁(元之)は黄州に左遷されていた時、二間の楼を建て、屋根を竹で葺いて竹楼と名付け、役所を退出すると、鶴氅衣を着、華陽巾をかぶり、周易一巻を手に、香を焚いて黙坐し、俗念を払ったという。そのことを記した彼の『黄州竹楼記』は、名文として有名である。 図はその情景を描いたものであるが、本来二階建であるべき楼を平屋に描いている。その中に坐るのが王元之である。 賛は『三才図会』を引いたもので、大意は、「竹楼は黄州府治の東にある。造りはきわめて小さく、揚子江の流れに南面し、風を受けた帆や空飛ぶ鳥、川の魚も多く、すぐれた風景である。宋の王元之の『黄州竹楼記』には次のように記してある。遠くに山が見え、近くには揚子江の流れが平らに見える。目の届く限り美しいその光景は、いちいち記すことができない、と。
読書医俗図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 143 x 42 cm。 賛は宋の詩人黄魯直(庭堅)の語、「子弟の諸病、みな医すべし。ただ俗のみは医すべからず。俗病を医すものは、ひとり書あるのみ」。
天賜吉慶図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 167 x 55 cm。 賛は南宋の大儒朱熹が呂季克の東堂九詠に次韻した橘堤詩。大意は、「この橘は君の家の池のほとりにいつ植えたものであろうか。千本もの樹が玉のように美しい実をつけている。蓮が枯れ、菊がわずかに残り、秋もふけようとする今、一年でもっとも美しい眺めが眼に入ってくる」。 画題は「天が橘(吉)の慶びを賜た」というほどの意味。

群仙集会図 高臥適意図 掃蕩俗塵図 幽渓漁隠図 散木高居図
群仙集会図 大正6年(1917)  82歳 絹本着色 140 x 36 cm。 天帝のお召しによって、仙人たちが山中の御殿におもむく景。
高臥適意図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 161 x 43 cm。 賛は、「林泉に高臥して歳すでに深し。是非名利すべて無心」。
掃蕩俗塵図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 130 x 44 cm。 賛は『燕居筆記』に載っている明の王陽明の文。 大意は、「塵というものが多くの人々の心をくらましてしまう。われらは、この塵の去らざることをもっともきらう。われらの結社を掃塵と名付けることにしよう。以後は心上の塵、口上の塵、筆墨の塵、世渡り上の塵など、すべて掃除せねばならぬ」。
幽渓漁隠図 大正6年(1917) 82歳. 絹本着色 143 x 51 cm。 賛の「魚を獲て筌を忘る」は、『荘子・外物篇』にみえる有名な句で、意味は「筌は魚を獲るための道具で、魚を獲ってしまえばもはや用のないものである」。 この図は賛の本義とは直接の関係はなく、鐵齋が好んだ漁楽図のひとつとみてよい。
散木高居図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 141 x 42 cm。 賛は唐の方干が陳式の水墨山水に題した詩の句、「意を立つれば雲髯出で、頤を支うれば煙汗乾く」を録する。絵の構想を立てると髯のような雲が画面に現われ、両手で顎を支えて休息しているうちに、汗のような煙気が乾燥する、というような意味か。

撥雲訪友図 幽渓帰樵図 東坡帰院図 献珠成仏図 聚沙為塔図
撥雲訪友図 大正6年(1917) 82歳 紙本着色 132 x 32 cm。 唐の綦母潜の「題争林寺山頂禅院詩」の詩意を描いたもので、図は墨染の衣を着た僧が山中の寺院を訪ねて行くところ。上にその詩句を一字改めて録している。「鍾声、白雲を撞く」。意味は「鐘の音が山中に立込めている白雲の中に響いていく」。 画題は「雲を撥いて友を訪ねる」という意味。
幽渓帰樵図 大正6年(1917) 82歳 紙本淡彩 120 x 33 cm。 清の文人画家戴煕の詩意を描いたもので、上にその詩を録す。「泉声雨を噴いて千山響き、石気雲を蒸して万木陰し」。大意は、「泉が雨のように噴き出して、その音が四方の山々に響き、山中の岩が雲を蒸し出して、あたりの木々がよく見えない」。
東坡帰院図 大正6年(1917) 82歳 紙本着色 133 x 32 cm。 蘇東坡は神宗の時、讒言によって投獄された後、黄州に流されたが、哲宗の時、召還され、翰林院学士に任ぜられた。元祐二年(1087)、呂公著を総理に任ずる制を宮中で書いた折、宣仁皇太后から、神宗が生前、蘇東坡を任用する意志がありながら、果たさずに崩御したという話を聞いて感泣した。御前の金蓮燭を下げて、東坡が翰林院に帰るのを送らせた。臣下最高の栄誉だった。 賛は、そのことを記した宋の施宿の『東坡年譜』の文。
献珠成仏図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色額装 73 x 67 cm。 『法華経・提婆達多品』の中に、娑竭龍王の八歳の女が仏に宝珠をたてまつり、たちまち変じて男子となり、南方無垢世界に行って成仏したとある。 図は龍王の女が珠を献じている景。
聚沙為塔図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色額装 73 x 66 cm。 『法華経・方便品』に、「子供たちが、遊戯に沙を聚めて仏塔をつくるというような営みも、仏道を成就するものである」という意味のことが述べてある。 図は、この経文によって描いたものである。

竹生島図 蓬莱仙境図 乾坤清気花図
竹生島図 大正6年(1917) 82歳 絹本着色 扇面掛軸 17 x 55 cm。 賛は、「遠山の雪景を竹生島に於て望む」。 大正六年の和歌勅題「遠山雪」に因んだ作。
蓬莱仙境図 大正7年(1918) 83歳 紙本淡彩 扇面掛軸 17 x 53 cm。 賛は自作の詩。「八十三年古愚を養う。また新歳を迎えて屠蘇を酌む。酔余遊戯して開筆を為す。写し出だす蓬莱仙境の図」。 大意、「私は八三年も世間と調和しない愚かさを養ってきたが、また新年を迎えて屠蘇を酌んだ。酔ったまぎれの遊戯に書き初めをやり、蓬莱山の画を描いた」。
乾坤清気花図 大正7年(1918) 83歳 紙本着色 扇子 17 x 49 cm。 いわゆる「歳寒二友図」で、梅と水仙を描く。 賛は、「乾坤清気の花」。 西園寺公望刻の朱文印「現居士身」を捺す。 この印文はしばしば誤って「現身居士」と読まれているが、正しくは「居士の身を現ず」と読むべきである。 『法華経・普門品』に、「応に居士の身を以て得度すべき者は、すなわち居士の身を現じて為に法を説く」とあるのを出典とする。

武陵桃源図 鍾馗嫁妹図 桃花流水図
武陵桃源図 大正7年(1918) 83歳 紙本淡彩 扇面掛軸 17 x 52 cm。 陶淵明の『桃花源記』によると、晋の太元中、武陵の漁夫が山中奥深くに桃の花咲く秘境を発見したところ、そこには秦代の乱を避けて隠れ住んだ人々の子孫が平和に暮らしていたという。
鍾馗嫁妹図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 扇面額装 20 x 58 cm。 唐の玄宗皇帝が病気になった時、夢に小鬼が現れて帝を悩ましたが、大鬼が現れて小鬼を食い殺した。帝が誰かと問うたところ、「終南山の鍾馗であるが、科挙に失敗して自殺した時、特旨を賜わり進士の礼をもって葬られた。その恩に感じて天下の災いを無くす誓いをたてた」と言った。夢から醒めると、帝の病気は治っていた。そこで呉道子に命じて鍾馗の像を描かせ、魔除けとした、という。 鍾馗の妹の図は五代の石恪にあり、鍾馗が妹を嫁がすという図は、宋の李公麟に始まるという。
桃花流水図 大正7年(1918) 83歳 紙本淡彩 扇面掛軸 16 x 53 cm。 賛は李白の「山中問答詩」の第三、四句、「桃花流水、杳然として去り。別に天地の人間に非ざる有り」。 息謙蔵(桃華居士)の法要に際して、香典返しとして諸家に贈った扇面の一つ。

桔梗図 秋草図 白河楽翁たそがれの宿図
桔梗図 大正7年(1918) 83歳 紙本着色 扇子 11 x 34 cm。
秋草図 大正7年(1918) 83歳 紙本着色 扇子 12 x 37 cm。
白河楽翁たそがれの宿図 大正7年(1918) 83歳 紙本淡彩 扇面掛軸 17 x 53 cm。 松平定信(楽翁)の歌による作。 『心あてに見し夕かほの花ちりて たつねそわふるたそかれの宿』。 名歌として名高く、この歌によって定信は「たそがれの少将」と呼ばれたという。

漁楽図 遊山玩水図 円通大師
呉門隠栖図
東瀛仙苑図 山高水長図
漁楽図 大正9年(1920) 85歳 紙本淡彩 131 x 32 cm。 賛は明の唐寅の『漁家楽詩』を録す。 大意は、「太平の世なので物価が安く、酒を買う銭がたくさんある。夕日が半ば落ち風波が激しいが、舟は港に入っているので安全だ。魚を煮たり、酒を温めて友人を招き、船舷をたたいて漁歌を歌う。明月に杯をささげ、この楽しみは仙人の楽しみに通じるという。はるかに黄塵の立つ道を望むと名利を追う人々が奔走しているのが見えるが、我ら漁夫にとっては富貴は雲煙のようにはかないものだ」。
遊山玩水図 大正7年(1918) 83歳 紙本着色 135 x 33 cm。 賛は、「一生ただ山を看る楽しみのみ有り」。 
円通大師呉門隠栖図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 145 x 42 cm。 賛は藤原道長が円通大師の帰朝をうながして送った手紙を録す。
東瀛仙苑図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 75 x 86 cm。 賛の「束瀛僊苑」は、「東の海にある仙境」というほどの意味。中国では蓬莱、瀛洲、方丈の三つの霊山は、東方の海中にあると考えられていた。
山高水長図 大正7七年(1918) 83歳 絹本着色 143 x 51 cm。 題の「山高く水長し」という句は、漢の高士厳子陵の人品節操の高潔なことを、山の高く流れの長いのに喩えて誉め称えた言葉。范希文(仲俺)の『厳先生祠堂記』にみえる。賛は僧元賢、左思、程頤、邵雍などの詩句に註して、大丈夫たるものは度量寛大、気節清高、人格温厚、気性洒落でなければならぬ、と説いたもの。

阿倍仲麻呂
在唐詠和歌図
西王母図 柳陰漁楽図 大原邨婦図 漁樵対問図
阿倍仲麻呂在唐詠和歌図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 146 x 52 cm。 賛は、『古今和歌集』に載っている仲麻呂の歌と、『文苑英華』に載っているその詩。
西王母図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 146 x 51 cm。 女性の神仙西王母は崑崙山中に住み、三千年に一度花咲き、三千年に一度実る桃を栽培した。仙人東方朔は三度その桃を盗んだという。桃の木の下、二人の侍女を従えたのが西王母、鹿に乗る男は東方朔だろう。 賛は西王母が漢の武帝の宮殿に降臨して宴会を開いた時、上元夫人が唱った琴歌の歌詞を『雲笈七籤』から引いてある。
柳陰漁楽図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 142 x 42 cm。 賛は「静坐観心は閑中の一楽」。大意は、「静坐して己の心の本性を明らかに観照することは、閑中のひとつの楽しみである」。
大原邨婦図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 141 x 52 cm。 賛は村瀬孝亭の詩。大意は、「薪をしっかりと束ね、頭の上に軽々と載せて行列を作って行く。妹が一曲の山歌を歌うと姉がそれに唱和する。花を髪に挿しているので、蝶が彼女らの行く道にそうて追っかけてくる」。
漁樵対問図 大正7年(1918) 83歳. 絹本着色 130 x 42 cm。 賛は唐の羅隠の詩、「得れば、すなわち高歌し。失えば、すなわち休す。多愁多恨また悠々。今朝酒あり今朝酔う。明日愁い来らば明日愁えん」の末二句を録す。

三老吸酢図 掃蕩俗塵図 学士耕雨図 東山花雨図 層巒秋霽図
三老吸酢図 大正7年(1918) 83歳 紙本淡彩 137 x 40 cm。 蘇東坡が黄山谷と一緒に仏印禅師を訪れた時、仏印が桃花酸でもてなし、三人がそれを嘗めて共に顔をしかめたという逸話を描いたもの。 賛は明の儒者王陽明の書『三酸』の文。大意は、「世間では鼻で五斗の酢を吸うような辛い目に堪えて始めて宰相となることができると言っている。蘇東坡は平生、おれは物事にこだわらないと言っていた。しかし、黄山谷と仏印を訪問して桃花酸を出された時、酢が一滴ロに入ると、そのまま目を閉じ、眉をしかめた。時世に合わず、宰相になれなかったのも尤もである。たまたまこの三老吸酢図をひらいて、これを記して大笑いした」。 孔子、老子、釈迦が一つのかめの酢をなめて、やはり顔をしかめている場面を描いた「三聖吸酢図」というものがあり、これはそれをもじったものである。
掃蕩俗塵図 大正7年(1918) 83歳 紙本淡彩 130 x 44 cm。 
学士耕雨図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 48 x 29 cm。 清の学者朱彝尊(竹坨)が雨中に耕作する情景を描いたもの。 朱彝尊に「煙雨帰耕図」のあったことが、朱氏の文集『曝書亭集』や呉修の『青霞館論画絶句一百首』などによって分かる。 鐵齋はこの図の箱書に「読画詩集に依り描いた」と記しているから、朱氏の題画詩に画因を得て描いたものであろう。
東山花雨図 大正7年(1918) 83歳 紙本淡彩 145 x 40 cm。 桜の頃の東山円山あたりの風景を遠望したもの。 賛は「酔郷の花天、美人の天」。
層巒秋霽図 大正7年(1918) 83歳 絹本着色 146 x 52 cm。 賛は明の李日華の『竹嬾画賸』に載っている句。「南窓に墨を注いで余傲に供す。秋は白雲黄葉の中にあり」を録す。南向きの窓辺で絵を描いて、世間を超越した心のなぐさめとするが、秋は白雲たなびく黄葉の中に来ているというような意。

群仙高会図 豊公茶讌図 呂仙翁自写像
群仙高会図 大正7七年(1918) 83歳 絹本着色 176 x 52 cm。 唐の仙人呂洞賓は甲子の年の三月八日、師の鍾離権をはじめ、多くの仙人たちを山島の舎に招いて一日の清遊を楽しみ、そのことを「群仙高会賦」に書いた。 賛は『呂帝文集』に載っている「番仙高会賦」の全文を録す。
豊公茶讌図  大正七7年(1918) 83歳 絹本着色 61 x 72 cm。 天正11年(一五八三)一〇月一日から一○日間、北野の松原で、豊臣秀吉が天下の茶人を集めて大茶湯を開催した。 その光景を描いた浮田一蕙の作が北野神社にあるが、鐵齋は、それを種にして、しばしばこの茶湯の光景を描いた。
呂仙翁自写像 大正7年(1918) 83歳 絹本淡彩 145 x 52 cm。 唐の仙人呂洞賓(純陽子)は、宋元明清まで生きて諸所に出現したと伝えられる。この図は、明代に出現して描いた自画像なるものを模写したもの。 従来の呂洞賓像と特に異なるという。賛は明の徐渭(文長)の「純陽子図賛并序」の全文を録する。その賛は、「昔の図は彼のごとく今の図は此のごとし。昔か今か、一純陽子。およそ有形に渉れば、露・泡・電の如し。顔色をもって求めなば、ついに見るべからず。彼もまた凡なることを知れば、すなわち我の仙なるを知る。謂うなかれ学人、この語、禅に堕すと」。
煙雲供養幀
煙雲供養幀 大正7年(1918) 83歳 紙本着色 133 x 46 cm。 対聯 各 128 x 18 cm。 鐵齋の古書蒐集に関係の深かった大阪の古本屋鹿田松雲堂主人の十三回忌法要に贈ったもの。 布袋、文殊、達磨、白衣観音、六臂観音、阿弥陀を描く。 対聯は元の禅僧石屋清珙の句「仏を求め仙を求むるは全く妄想。憂い無く慮り無き、すなわち修行」。われわれは生まれつき不生不滅の仏心を備えているから、その仏心のままでいることが修行なのであって、今さら仏になろうとか仙人になろうとするのは妄想だ、との意。

孔明躬耕図 葛井故宅図 乗桴浮海図 魚籃観音像 釈尊出山図
孔明躬耕図 大正8年(1919) 84歳 紙本淡彩 131 x 48 cm。 諸葛孔明は南陽で自耕し、天下の形勢を観望していたが、劉備が三顧の礼をとって出馬を請うたのに応えて草廬を出、劉備を助けた。図は孔明の隠棲の景である。 賛は宋の張栻の『漢丞相諸葛忠武侯列伝』を録したもので、大意は、「後漢の建安12年、左将軍・豫州の長官劉備が荊州の司馬徳操に世の中のことを問うたところ、近くに時勢の分かるすぐれた二人、諸葛孔明と龐士元が居ると答えた」というもの。
葛井故宅図 大正8年(1919) 84歳 絹本着色 117 x 42 cm。 諸葛孔明の旧居の景を描いたもの。賛の大意は、「嚢陽府に孔明の旧宅がある。深さ五丈、広さ五尺の井戸があり、葛井という。堂の前に三間の建物があるが、土台がたいそう高く、避暑台という。家の西は山に面し、水に臨んでいる。孔明はかつてその山に登って大琴を弾き、『梁父の吟』という詩をつくった。それに因んで、この山を楽山という。嗣に董家がいてこの家に住んでいたが、滅びてしまった。後の人は、ここに住む者がいない。以上は忠武志にみえている」。 なお、この図の賛の出典、『忠武志』というのは、張栻の『漢丞相諸葛忠武侯列伝』のことであろう。
乗桴浮海図  大正8年(1919) 84歳 絹本着色 165 x 50 cm。 仙人が桴に乗って海上に出かける景。 賛は論語の句「桴に乗って海に浮かぶ」
魚籃観音像 大正8年(1919) 84歳 紙本着色 173 x 72 cm。 唐の元和12年(八一七)、陝右の金沙灘に魚を売る美女があり、人々が結婚を求めたところ、金剛経や法華経を暗講させてテストした。馬氏の子が成功したが、結婚式を挙げる段になって急死した。他日一僧が馬氏の子と共に墓を開いたが、金の鎖子骨があるだけだった。「観音が、お前を済度するために美女となって現れたのだ」と言って僧は飛び去った。 これを魚籃観音、または馬郎婦観音という。図は明の丁雲鵬を学び、 賛は明の名僧紫柏大師が情欲を超越すべきことを説いた偈を録す。
釈尊出山図 大正8年(1919) 84歳 紙本着色 161 x 47 cm。 山中での六年の苦行を終え、成道して雪山を出る釈迦を描いたもので、上方に唐の高僧義浄三蔵が印度で得た釈迦の華判を、建長寺の笠仙が板行したものを写す。賛はその華判の由来を記した文で、大意は、「古くからの言い伝えによると、義浄三蔵が経典を求めた時、この釈迦如来が手ずから押された華判を印度で得たという。宋の真宗皇帝が次のような賛をつくられた。この華判のあるところを諸諸の神が守護し給うことは、仏の親属のようである。もし大切に供養すれば、国を安んじ家を護り、悪邪をさけ、利益福徳きわまりないであろうと。そこで板行して世間に流布させる。貞和三年(一三四七)、建長寺の笠仙が模刻す」。 息謙蔵の追薦のため、是住院へ奉納したもの。

画帖東坡談 大正7年(1918) 83歳 絖本着色 画帖 各26 x 37 cm
金蓮燭を持って、蘇東坡が翰林院に帰るのを送らせる図。 蘇東坡は神宗の時、陥れられて黄州に流されたが、哲宗が立つと召還されて翰林院学士に任ぜられた。元祐三年、宮中で制を書いた折、宣仁皇太后から、この度の任用が神宗の遺志であったことを告げられ、感泣した。そして退出の時には、御前の金蓮燭を下げて、蘇東坡が翰林院に帰るのを送られたが、それは臣下最高の栄誉であったという。賛は施宿の『東坡年譜』の文。
墨竹の大家で、蘇東坡と親交のあった文与可の筆法に倣った図。 賛は東坡の「於潜僧緑筠軒」詩。 大意、「食膳には肉が無くてもよいが、住居には竹が無くてはいけない。肉が無いと人は痩せ、竹が無いと人は俗になる。人の痩せたのはなお肥ることができるが、俗なのは医すことができない」。
蘇東坡が海南島に流されていた時のこと、ある日、黎子雲という人を訪ねての帰途、雨に遇い、農家から筍笠を借りて被り、下駄を履いて帰ったところ、女や子供が後からついてきて笑い、村の犬が吠えたてた、という逸話を描いたもの。いわゆる「東坡笠屐図」である。 中国でも画題となっていて、鉄斎もしばしば描いているが、これは明の唐寅の図に倣ったもの。 賛は『梁谿難漫志』・「東坡戴笠」の文。
賛は蘇東坡の「登州海市」詩の序。大意、「私は登州の蜃気楼のことを、ずっと前から聞いていたが、登州の父老の話では、屡気楼は春夏に見えるもので、今は年の暮だから出ないとのことであった。私は登州の刺史となったが、わずか五日で去ることになり、見ることができないのを残念に思い、海神広徳王の廟に祈ったところ、翌日見ることができた」。図は『蓬莱海市帖』によって描いたという。

蘇東坡は周橦から石銚を贈られたが、のちにこの石銚を手に入れた清の文人尤蔭(水邨)は、それを画に描き、諸家の題詠を求めて、乾隆三八年『石銚題詠』を刊行した。 図はその石銚。 賛は同書に載せる程嗣立の詩の序。内容は石銚の形状、特色を述べ、その由来を記したものである。
『東坡後集』巻八にみえる「點鼠賦」の賦意を描いたもの。 賛はその文。 大意、「蘇子が夜坐っていると、鼠が物をかじる音がする。床を叩くと止むが、またかじりだす。侍童に燈火で照らさせると、書物を入れる袋で中が空っぽなのがあり、その中でガリガリと音がする。鼠が中に閉じ込められています、と言って開けてみたが、なにも無い。火を掲げてよく見ると、死んだ鼠があった。侍童が驚いて、これがかじったのです、急に死んだようですが、さっきの音は鼠の幽霊でしょうか、と言って包んで外に出したところ、床に落ちると素早く逃げてしまった。蘇子が歎息して、不思議なことだ、これが鼠の悪賢いところだ、と言った」。
賛は蘇東坡の「怪石供」。大意は、「斉安(湖北省黄岡県)の揚子江のほとりで美石を得ることがある。玉に似て、黄、紅、白色のものが多い。その紋は人の指紋のようで、可愛らしい。上手な人が丹精こめて描いてもとても及ばない。『書経・禹貢』に青州に怪石があると書いてあるが、これが怪石というものであろう。斉安の子供が江で水浴みする時、この石を得るものがある。面白半分で餅をやって石と取りかえたが、長い間に二百九十八個になった。大きいのは何寸かあり、小さいのはなつめや栗、菱、鬼蓮の実位である。その中の一つは虎か豹の頭のようで、口、鼻、眼がある。それをたくさんの石の大将とした。また、一枚の古銅盆を手に入れ、石を盛り、水をかけるときらきらと光った。ちょうど廬山の仏印禅師の使が来たので、この石を呈することにした」。
蘇東坡は海南島に流されていた時、蜀の張氏筆と伝える「十八羅漢像」を得、表装を改め、燈明や香果を供えて礼拝し、「十八阿羅漢頌」をつくった。 賛はその中の「第九尊者の頌」。 大意、「第九尊者は食事を終わり、鉢を包み、数珠を持ち、咒を誦えて坐っている。下には侍童がいて火をおこし、茶の用意をしている。また、筒を片づけて水を蓮池に注いでいるものがいる」。図はその文によって描いたもの。

蘇東坡は、ふつう、枯木竹石の画をよくしたことが知られているが、人物、鳥獣にも巧みで、「墨猫図」「楽工図」「雪雀図」などがあったという。賛は、清の銭載の『蘀石斎集』や張道の『蘇亭詩話』を引いてそのことを述べたもので、図は清の王武の「墨猫図」に倣ったもの。
北宋の文人画家李公麟の龍眠山房を、清の画家陳洪綬の図によって描いたもの。 賛は、蘇東坡がかつて流されていた黄州を懐しみ、そこの梅や杏の花を思って、「王晋卿が梅花を送るに和し次韻す」と題した詩。
明の聞道人の『癖?小史』にみえる蘇東坡が黄州に流されていた時の逸話を描いたもの。 賛は、『癖顚小史』の文。
『竹坡軒梅冊』なるものに、蘇東坡の真蹟を手本にしたとある「梅花図」を倣ったもの。

賛は『梁谿漫志』に引く『東坡事類』の文。ある日、蘇東坡が役所から退出してきて、食事を終え、腹をさすり、ゆっくり歩きながら女中たちに言った。「お前達はこの腹の中に何があると思うかね」。一人の女中がすぐに言った。「全部文章です」。東坡は「そうではない」と言う。また一人が言った。「すべて識見です」。東坡はまだそうだとは言わない。妾の朝雲の番になると、彼女は「学士さまの腹は時節に合いません」と言った。東坡は腹をかかえて大笑いした。
蘇東坡の妾朝雲の墓所の図。 賛はそのことを説明した文。 大意、「蘇東坡の妾朝雲の墓は恵州栖禅寺のかたわらにあり、寺の塔の真正面である。清の道光年間、伊秉綬先生が修理した。 その前に東坡が建てた六如亭の碑がある」。

子供たらし絵巻
子供たらし絵巻 大正7年(1918) 83歳 紙本着色 巻子 15 x 330 cm。 子・丑・寅・卯・辰・.巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支に、鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・雞・.犬・.猪を配する風は漢代に始まり、これを十二生肖という。 徳川時代の南画家岡田米山人は、上の諸動物の玩具を集めて「十二生肖図」を作ったが、鐵齋はそれによって、この図を描いた。  賛は米山人の作のものと同じ。