3.4 70歳代

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梅花荘図 風雨赴約図 秋山訪友図 寒山行旅図 阿弥陀仏像
梅花荘図 明治38年(1905) 70歳 絹本着色 127 x 41 cm  賛は、「一生の心事、梅花に付す」。 一生、心の中で思う事柄は、梅の花のように清らかである、という意。
風雨赴約図 明治38年 70歳 絹本着色 127 x 41 cm  賛は明の李日華の『竹嬾続画賸』に載っている句、「雲深くして晴また雨。石冷かにして夏先ず秋」を録する。 雲が深くて、晴れたかとおもうとまた雨が降る。石が冷やかなので、夏が過ぎ去って秋になったのが先ず分かる、という意。
秋山訪友図 明治38年(1905) 70歳 絹本着色 129 x 42 cm。 賛は明の文徴明の詩。 大意は、「通り雨が、ひっそりとした林や美しい別荘を降り過ぎて行った。 夕日の照らしている野原の色は、小さな橋によって別たれている。春の山もいいものだが、どうして秋の山のよさに及ぼうぞ。秋の山では、紅葉と青山が白雲に閉ざされて、その景色はとても美しいのだ」
寒山行旅図 明治39年(1906) 71歳 絹本着色 129 x 42 cm。 賛は、「遠水、樹中に白く、寒峰、天外に青し」。 遠方の水が木の間に白く光っており、寒々とした峰が天外に青く聳えている、という意。
阿弥陀仏像 明治38年(1905) 70歳 絹本着色 123 x 30 cm。 図上に録するのは筆者未詳の阿弥陀浄土讃。

六曲一双屏風  明治38年(1905) 70歳 紙本着色  各 155 x 360 cm
   富士遠望図
富士遠望図  賛は自作の詩。 大意は、「夢の中で宋の仙人・陳希夷に会って地上の仙人の術を学び、縮地術を使って雲煙のかかっている山に登った。腰に仙人が周の霊王に献じた墨壺を下げているが、その墨を注いで富士山の白く輝く姿を描いた」。
   寒霞渓図
寒霞渓図 題詩は、この図を描いた前の年、明治37年の天長節の日、息子謙蔵を連れて寒霞渓に遊んだ折に得た詩。 大意は、「寒霞渓の風景は天然の黄大癡の絵である。 山の皺、悉く優れている。永い間、黄大癡の絵の秘訣を求めて得ることができなかったが、今日、思いもかけず会得することができた」。

麻姑女仙図 衝立   明治38年(1905)  70歳 紙本金地着色
表  竹石蘭芝図 裏  迦哩迦尊者
麻姑女仙図 明治38年(1905) 70歳 絹本着色 127 x 49 cm。 賛は『仙仏奇踪』を引いたもので、『三才図会』にも同様の記事がみえる。 大意は、「何仙姑は広州増城県の何泰の娘で、生まれた時、頭に六本の毛があった。十四、五歳の頃、夢に神人が現れて、雲母の粉を食べると身が軽くなり不死を得ると言った。 そこで雲母を食べ、常に山谷を往来したが、その行くさまはまるで飛ぶようで、毎朝行き、暮れ方に山の果物を持って帰り、母に捧げた。 後、穀物を食べなくなった。則天武后が使いをやって召し、宮中に赴いたが途中で姿を消した。 景龍年間(707-710)、真昼間に天に昇って仙人となった。 天宝九年、江西省南城県の麻姑壇に現れ、五色の雲の中に立っていた。 また、大暦年間、広州小石楼に現れた」。
賛は清の金冬心の句、「霜雪を凌いで節独り全し。我、君と歳寒を共にす」。 竹は冬になっても他の草木のように枯れず、ひとり節を全うする、私はこの君(竹を此君という)と共に歳寒(寒い季節と不遇な境遇をかけてある)を凌いで節を守る、という意。
迦哩迦尊者は羅漢の一人。 賛は蘇東坡の「十八大阿羅漢頌」の中の第十三尊者の頌。 大意は、「虎は猛獣だが、本来仏性を備えているから、妻を噛むようなことはしない。一念の誤りで畜生と生まれたので、導師が悲しみ哀れんで、お前のために嘆いている。しかし、お前の猛烈な性質を持ってすれば、本来の仏性に立ち戻ることは難しくはなかろう」。

観世音菩薩像 十六応真画像 十六羅漢渡海図 お多福図 鮮魚図
観世音菩薩像 明治39年(1906) 71歳 紙本淡彩 140 x 53 cm。 普陀落山中の観世音菩薩の像。 右手に楊柳、左手に水瓶を持っている。 賛は自作の詩。 大意は、「余生に仏道を学ぶのは、やらないよりやったほうがよい。観音の円通自在な心にお祈りする。 夢に観音が現れて、我が心の思うまま、自由自在に描ける筆を下さった。 その夢が醒めた時、手を清めてこの観音の像を描いた」。
十六応真画像 明治39年(1906) 71歳 絹本着色 157 x 72 cm。 十六応真は、十六羅漢のこと。 賛は、「外には、声聞を現じ、内には菩薩を秘む」とある。 十六羅漢は、外には小乗仏教の聖者たる声聞の姿を現わしているが、内には大乗仏教の聖者たる菩薩の心を秘めている、との意。
十六羅漢渡海図 70歳代 絹本着色 125 x 43 cm。 羅漢が海を渡る図ば古く唐宋の頃から描かれてきたが、鐵齋のこの作はおそらく明清画を学んだものであろう。賛は元の普応国師中峰明本が、「羅漢掲厲図」に題した文を録する。その大意は、小乗仏教の聖者たる羅漢は、なるほど悟りを開いて神通力を備えてはいるものの、まだ徹底した悟りの境地には至っていないと、羅漢を抑えたものである。
お多福図 明治三九年(一九〇六) 七一歳 絹本着色 141 x 36 cm。 賛は「巧笑倩たり。美目盼たり。彼の美人は東方の人なり」(にっこり笑った口もとにえくぼがあふれ、目もとぱっちりと美しい。あの女性は日本の人)というもので、上の二句は『詩経.衛風』の碩人篇にみえる句で、『論語』にも引用されている有名な句であるが、宋の龐元英の『談藪』にみえる「巧笑倩兮、美目盼兮、彼美人兮、西方之人兮」という句をもじったものであろう。
鮮魚図 明治43年(1910) 75歳 紙本着色 137 x 47 cm。 伊予松山の三津浜の近藤文太郎家から新鮮な海の幸が届いた。 その返礼にこの画を描き、賛をしたためた。 「躬隔波濤意至哉。 時新潑刺饋成堆。 山妻喜・・・・」。 その大意は「貴方は瀬戸内海の波濤の彼方に住んでいらっしゃるが、ご親切なお心は届きました。 お送り下さった生きのよいはしりの鮮魚は山のように沢山。家内の春子が喜んで、まず腕試しをなさいと言うので、海川の御馳走を絵に描きました」。

楽此幽居図 山居楽志図 対月鼓琴図 綺窗女紅図 始献牛乳図
楽此幽居図 明治39年(1906) 71歳 紙本着色 152 x 48 cm。 賛は、自作の詩。 大意は、「花の散る頃なので寒くも暑くもない。墨を磨り、筆をふるって、唐の王維を学んで絵を描く。絵はすでにできあがったが、詩はまだできない。まあ、余白を残しておいて他年詩ができるまで待つことにしよう」。画題に陶淵明の詩句から取る。
山居楽志図 70歳代  絹本着色  133 x 50 cm。 賛は自作の詩。 大意は、「雲や霧は私の気持ちにぴったりするもの。長時間をかけて山水を描く。 残墨をもって余白を塗りたくるのは、他人が下手くそな詩を題するのを避けるためなのだ」。
対月鼓琴図 70歳代  絹本着色 126 x 42 cm。 賛は『近世蝦夷人物誌』の文を録したもの。 大意は、「唐の詩人白楽天の五絃詩に、名人趙璧が五絃の琴を抱き、自由自在に奏でる、とあり、また、十本の指には一定の音はなく、さまざまな音がそれから生じる、とある。この五絃の形は琵琶に似ているが小さく、首が短く柄が長い。嫉夷で作られるもので、蝦夷の人は酒酣心臓で受けて胸に当てて弾き、撥を用いない。白楽天の詩にいう所と一致している。
綺窗女紅図 70歳代 絹本着色 133 x 43 cm。 窓近くで機を織る女性を描いた図は、明清の仕女図にことに多いようである。 賛は「素を邱園に養う」。大意は、「もって生まれた性質を隠栖の地に養い保つ」。 『元史』張特立伝にみえる句である。
始献牛乳図 70歳代 絹本着色 156 x 51 cm。 『類聚三代格』に載っている弘仁11年2月27日の太政官符によると、孝徳天皇の御代に大山上和薬師主福常が牛乳を取る術を習って、初めて乳長上の職を授けられ、それ以来、子孫がその職を世襲して、弘仁の世の今も継いでいる、という。 賛は『三代格』の文を録したもので、図は福常が牛を索いているところ。 

歌仙図 水仙花図 田舎清観図
歌仙図 70歳代 紙本着色 扇子 17 x 49 cm。 賛は狂歌。 『業ひらと小町かけ落 追手にはやす秀やりて跡の相談』。 六歌仙は在原業平、僧正遍昭、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀、小野小町であるから、図に描かれているのは遍昭、喜撰、黒主の三人となる。
水仙花図 70歳代 紙本着色 扇子 17 x 49 cm。 賛は「凌波仙子、玉、神となす」。凌波仙子は水仙の異名で、水仙は清らかな玉のような花をつける、というほどの意味。
田舎清観図 70歳代 紙本着色 扇子 17 x 49 cm。 図は、なす、きゅうりなど数種の野菜を描いたもの。中国文人画の伝続的な図柄のひとつである。 賛は「田舎清観」。農家の清らかな腕め、というほどの意味。

西郷隆盛角觝図 按図索駿図 姫百合図
西郷隆盛角觝図 70歳代 紙本着色 扇子 17 x 49 cm。 賛の大意は、「西郷隆盛は角力が好きで、京都にいた時は暇があると堀川町の博多山の相撲場に行って、力士たちと角力をとった。かつて私に、昔の勇士が戦場で勇敢であったのは、平素身体を鍛練していたからであり、私は古代の勇者孟施舎の人柄を慕って、彼に倣っているのだ、と言った。昔を追想して、この角力の図を描き、一言を題する」。
按図索駿図 70歳代 紙本着色 扇子 17 x 49 cm。 賛は『五雑組』『相馬経』などにみえる伯楽の子の逸話である。大意は、「伯楽はよく馬を見分けた。その子が『馬経』を持って名馬を探しに行き、大きなひきがえるを見つけた。父に報告して、『馬経』に書いてあるところと全く同じ馬を得ました、と言った。伯楽は子の愚かなことを知り、ただ笑って、この馬は跳ねるのが好きで、乗ることができない、と言った。いわゆる図を按じて名馬を求めるということである」。
姫百合図 70歳代 紙本着 色扇子 17 x 49 cm。 賛には、没骨風の花卉画をよくした清初の画家惲南田に学んだ、と記しているが、画因を惲南田の作に得たという意味であろう。

寒郊帰牧図 美人看梅図 酔郷銷夏図
寒郊帰牧図 70歳代 紙本淡彩 扇面掛軸 19 x 51 cm。 冬枯れの道を牧童が牛に乗って行く景。
美人看梅図 70歳代 紙本着色 扇面額装 18 x 54 cm。 賛は、「美人、羅浮の夢を作さず。独り梅花に倚って月明を看る」。美人が眠らないで梅花によりそって月の光を眺める、との意。 羅浮の夢というのは、隋の趙師雄が羅浮山の梅花村荘に宿し、夢に梅花の精である美人に会った故事であるが、ここでは句を整えるために使っただけで、直接関係はない。
酔郷銷夏図 70歳代 絹本淡彩 扇面掛軸 18 x 56 cm。 暑気ばらいに一杯やっている人物を描く。飲み尽した瓢箪を脇息がわりにして、円窓の外に竹があり、清風を呼んでいる。 賛は、「消夏、清涼に酔う」。

六曲屏風一双  絹本着色 各 169 x 377 cm  明治39年(1906)  71歳
   妙義山図
妙義山図  妙義山は三つの山峰から成る山で、最高峰を金洞山と呼び、奇峰天にそびえ、いたるところ石門、石柱があり、奇岩怪石が多い。 鐵齋は、明治36年 68歳の秋、善光寺に詣でてから妙義山に登り、さらに仙台から中尊寺に足をのばして道中、多くのスケッチを残した。この図はその折のスケッチをもとに構想したもの.。 賛は「金洞の石門」
   瀞八丁図
瀞八丁は熊野川上流の峡谷で、和歌山、奈良、三重の三県が接するところにある。深淵の上に直立数十メートルの絶壁が連なり、峡谷美で知られている。 「鐵齋は青年時代からたびたび和歌山に遊び、この年明治39年にも出かけているから、そのいずれかの折の写生をもとに描いたのであろう。 賛は、「双厳天を摩す」。

仙窩煉丹図 十年研錬帖 明治40年(1907) 72歳 紙本着色 画帖 各28 x 42 cm.
「何異瓦礫」と題し、山水、人物、雑画など21図 
伏見人形 蟹の図 蝶の図
仙窩煉丹図 70歳代 絹本着色 額装 28 x 34 cm。 題の「仙窩煉丹」は、仙人が穴ぐらで不老長生の丹を煉る、という意味であるが、図は呂洞賓が金丹を製しているところであろう。呂洞賓は中国、唐の人、盧山で仙人鍾離権に会い、煉丹の秘法を授けられて道士となり、道教の修行を積み、金丹をつくって人々の病気を救った、と伝えられる。
賛は、二月初午の日に人々は争って伏見稲荷にお参りする、という意味。
賛は清初の文人李漁(笠翁)の文。「私は蟹がたいそう好きで、毎年まだ出廻らない時に銭を貯えて待っている。そこで家人が私のことを笑って、蟹を命としていると言う。それで私はその銭を買命銭と呼んでいる」という意。
賛は李耀門の「百蝶図」に引く『聴黄鸝鶴館詩集』の緑蝶、紅蝶、白蝶、黒蝶、黄蝶を詠んだ詩。李耀門という画家については分明ではないが、清末から中華民国初期にかけて、蝶を主題にした画が流行しているので、おそらくその頃の画家であろう。

椿石霊鳥図 梅澗煮茶図 層巒秋霽図 円通大師呉門
山居図
豪渓真景図
椿石霊鳥図 明治40年(1907)  72歳  紙本着色 衝立 127 x 108 cm。 椿はいわゆるつばきではなく、『荘子・逍遥遊篇』にでてくる大椿で、八千歳をもって一年とするという木。長寿の象徴である。 鳥は西王母のために食を採ったという青鳥であろう。石は不朽のもの、霊芝も不老のシンボル。 四つとも不老長生を象徴するもので、祝寿の意をもつめでたい図柄である。 賛の大意は、「大椿の根が入り組み交わり、その美しい葉が蝉の鳴くようにとぎれなく連って、天地の瑞祥を呈す」。
明治40年(1907) 72歳 絹本着色 127 x 43 ㎝。 渓谷に咲く梅の下で茶を煮ている情景。賛は唐の詩人戎昱の早梅詩の句。大意は、「谷川のほとりに梅が真白に咲いているが、水に近いので他に先んじて発いたのであろうか、まるで春に消え残っている雪のようである」。
明治40年(1907) 72歳 絹本着色 127 x 43 ㎝。 「層巒秋霽図」は、秋晴れの山々というほどの意味であるが、鐵齋の関心は、実際は、滝や流れの音に耳をすましている高士にあったのであろう。賛は『墨場必携』に明の楊基の作として挙げる句。大意は、「秋風に散る木の葉の音は絶えず、夕暮の中に山々が淡く浮かんでいる」。
70歳代 絹本着色 144 x 57 cm。 三河守大江定基は愛妾の死に無常を観じて出家、寂昭と号し、源信の弟子となる。 名僧の誉れ高く、長保五年(1003)入宋、真宗に謁し、円通大師の号と紫方袍を賜わった。 徳を慕う宋人に引き留められ、蘇州の呉門寺に住み、帰朝することなくその地で死んだ。 図はその呉門寺の景。 賛は、長和四年(1015)、左大臣藤原道長が彼の帰朝をうながして送った手紙を録す。
豪渓真景図 明治四〇年(一九〇七) 七二歳 紙本淡彩 154 x 31 cm。 鐵齋は明治初年しばしば岡山県に旅行しているが、その時に県下の名勝豪渓に遊んだ。後年その景を思い出して描いたのが、この作。賛は自作の詩。大意は、「群山が今にも倒れかかってきそうにそびえており、眼中いっぱいにひろがる奇観は百回も驚くばかり。私より前に、浦上春琴がこの豪渓の景色を絵に描いたことがある」。

寿山福海図 神仙採薬図 和合万福図 赤壁前後図
明治40年(1907) 72歳 絹本着色 128 x 41 cm。 「寿山福海図」は、ふつう海中の岩に霊芝が生じ.上に蟷蟷の飛ぶ図柄に描かれることが多い。 鐵齋はそうした約束にとらわれないで、自分のつくりだした仙境図にその名を借りたのであろう。 賛は『墨場必携』に唐の李岑の句としてでているもの。 大意は、「めでたい雲が神仙の住む建物に浮かび、喜ばしい気が朱軒をめぐる」。
明治40年(1907) 72歳 絹本着色 128 x 41 cm。 「神仙採薬図」は、男女の仙人が不老長生の薬である霊芝などを採って帰ってくるところ。 賛の大意は、「大椿は千秋を凌いで繁り、霊草は一年に三度花を咲かせる」。 大椿は『荘子・逍遙遊篇』に長寿の象徴として出てくるもので、八千歳をもって春とし、八千歳をもって秋とする、という。
和合万福図 明治41年(1908)  72歳 絹本着色 159 x 58 cm。 唐の禅僧寒山と拾得ば仲がよかったというので、後世寒山には和聖、拾得には合聖という尊号を贈り、和合神と称して祭るようになり、正月や結婚式にその画像を飾る習慣が生じた。この図はおそらく清の民俗画を学んだもの。 賛は、「和合、万福を生じ、百事、意の如く来る」。
赤壁前図 明治40年(1907) 72歳 絹本着色 144 x 43 cm。 蘇東坂は黄州に流されていた時、元豊五年(1082)7月16日の夜、黄州府治の近くにある赤壁に遊び『前赤壁賦』を書き、また同年10月15日、再び赤壁に遊んで『後赤壁賦』を書いた。 賛は、『前赤壁賦』の一節、「ただ江上の清風と山間の明月とのみは、耳これを得て声となし、目これに遇うて色を成す。これを取れども禁ずるなく、これを用うれども竭きず。これ造物の無尽蔵なり」。
赤壁後図 明治40年(1907) 72歳 絹本着色 144 x 43 cm。 蘇東坂は黄州に流されていた時、元豊五年(1082)7月16日の夜、黄州府治の近くにある赤壁に遊び『前赤壁賦』を書き、また同年10月15日、再び赤壁に遊んで『後赤壁賦』を書いた。 賛は、『後赤壁賦』の一節、「ここに於て酒と魚とを携えて、また赤壁の下に遊ぶ。江流声あり。断岸千尺。山高く月小に、水落ちて石出づ。曽て日月の幾何ぞや。而して江山また知るべからず」。

北野大茶湯図 明治40年(1907) 72歳 紙本着色 額装 59 x 184 cm
天正一五年一〇月、豊臣秀吉が北野の松原に全国の茶人を集めて開いた茶会の景。賛は、この茶会の開催を告示した高札の文。元来風炉先屏風として描いたものだが、現在は額装にしてある。

白梅椿図 気衆万千図 閑居静適図
白梅椿図 明治41年(1908) 73歳 絹本着色 襖二面 各54 x 79 cm。 鐵齋は当時の実業家鈴木馬左也の垂水の別荘琢心軒に滞在して、一連の襖絵を制作した。これは地袋の小襖。
気衆万千図 明治41年(1908) 73歳 絹本着色 113 x 42 cm。 賛は、唐人の句「心を寂真に游ばせ。無為をもって実と為す」。
閑居静適図 明治41年(1908) 73歳 絹本着色 113 x 42 cm。 賛は、宋の易学者邵雍の句「静処乾坤大なり。閑中日月長し」。 大意は、「静かなところでは天地が大きく感じられるし、暇であると月日が長く思われる」。

梅渓清隠図 江山招隠図 南山瑞景図 名士帰山図 梅花満開図
梅渓清隠図  明治43年(1910) 75歳 絹本着色 139 x 40 cm。 賛は『林和靖集』の詩を録したもの。 大意は、「石臼で茶をひくと、緑の玉のような粉が飛ぶ。茶の名所、建渓の茶を煮ると、香のようなよい薫がたつ。このすぐれた茶を世間の人は知らない。私は静かに『茶経』をひらいて、唐の昔の陸羽を想う」。
江山招隠図 明治43年(1910) 75歳 絹本着色 138 x 65 cm。 賛は、「美しい江山が隠者を招き寄せる」との意。
南山瑞景図 明治43年(1910) 75歳 絹本着色 124 x 35 cm。 賛は『詩経・小雅・天保章』の句、「南山の寿の如し」。「南山が欠けず、くずれず、永久に存在するように、長生きして下さい」という意味。 「天保章」には君主の長寿福禄を九つのものに喩えて祝う句があり、それに因む「天保九如」は長寿を祝う言葉とされ、画題ともなっている。この図は「天保九如章図」と同趣のものである。
名士帰山図 明治44年(1911) 76歳 絹本着色 146 x 37 cm。 宋の彭淵材は音律に詳しく、京師の貴人の門に遊んで優遇されていたが、貧乏に苦しむ故郷の父から帰ってこいと命ぜられ、驢馬に乗り、下男に大きな袋を背負わせて帰郷した。親戚、友人が「この袋の中には金や珠が入っているのだろう。早く見せろ」と催促すると、淵材は得意満面、「私の富は国に匹敵する」と言って袋を開いたが、中には製墨の名家李廷珪の墨と、墨竹の名手文与可の竹の絵と、欧陽脩の書いた『五代史』の草稿が入っているだけで、他には何もなかった。賛は、そのことを記した『冷斎夜話』の文を節略したもの。 図は淵材帰郷の景。
梅花満開図 明治44年(1911) 76歳 紙本着色 151 x 41 cm。 明治四四年の歌会始の勅題に因んだ双幅のうちの一幅。 賛は、おそらく自作の詩。「梅華満開の夜。満月、梅花を照らす。凛凛として寒風勁し。磨いて氷雪の花と為す」。

古柯頑石図 夏景山水図 武陵桃源図 古石長椿図 松鶴図
古柯頑石図 大正元年(1912) 77歳 紙本着色 123 x 41 cm。 古木や頑石を描くことは、中国唐代の後半に逸格水墨画とともに始まり、宋・元には禅僧や文人画家が好んで描いた。風雪を凌いで毅然として立つ姿に、人生の苦難にも自若とありたいという願望を重ね合わせたものであろう。 賛は明の文人李日華の『竹嬾画賸』の詩。画法もまた李日華の画を学んだと記す。 賛の大意は、「老木は古めかしい趣きが多く、まばらな竹林はたおやかな姿をみせている。野中の休息所は、空っぽで人がいない。私が酔って詩を題するのを待っているのだ」。
夏景山水図 大正元年 (1912) 77歳 紙本淡彩 125 x 61 cm。 賛は自作の詩。大意は、「千金もの潤筆料で藍色の表紙の書物(漢籍をいうのであろう)を買い、灯火を掻き立てて読むと、心に揚々たるものがある。雨風がばらばらと窓の隙間に吹き込んできて、書物の上で大功を遂げたつもりになっていたのを現実に引きもどす」。 長男謙蔵と親交のあった東洋史学者内藤湖南に贈ったもの。
武陵桃源図 大正元年(1912)  77歳  紙本着色 130 x 45 cm。 銀齋は多くの「武陵桃源図」を描いたが、これは『桃花源志』を参考にして描いたもの。 賛に「唐宋以来、桃花源を描いたものは極めて多いが、大てい陶淵明の記事を用い、想像で描いたのである。今この図は『桃花源志』によって描いた。詳しいことは同書を読むべし」とある。 晩年いつも世語になっていた医師浅木氏に贈ったもの。
古石長椿図 大正元年(1912)  77歳 絹本着色 150 x 42 cm。 古石は長久を意味し、長椿は『荘子・逍遥遊篇』に不老なるものの例としてでてくる大椿で、八千歳をもって春とし、八千歳をもって秋とする、という。前の「椿石霊鳥図」と同じく不老長寿を祝う画題であるが、この図は図柄の上からは仙境図に近いものであろう。
松鶴図 明治45年(1912)  77歳 紙本淡彩 133 x 65 cm。 賛は自作の詩。大意は、「年老いた鶴が静かに浮かぶ雲に舞い上がり、翼を張って鳴いているのが遙か遠くに聞こえる。赤壁に再遊した時一羽の鶴が飛び去るのを見、その夜の夢に鶴の化身である道士を見た蘇東坡や、西湖の孤山に隠棲して鶴を飼っていた林和靖のような高士はすでに逝き、身を寄せる所もなく、俗世のけがれた空気の中で餌をついばんでいる」。 松も鶴も長寿を象徴するもので、それに霊芝を配したこのような図は、祝寿の意をこめて描かれるのがふつうである。目出度い図であるのにこの詩は侘しすぎる。

青緑山水図  六曲一双 明治45年(1912) 77歳 絹本着色  各169 x 350 cm
左半双に自作の詩を録する。大意は、「私は史書を講釈して生活の資とし、世とともに推移してきた。 わが文芸界は、すぐれた先人が死んで衰えてしまった。この時にあたって私が遊戯に書画を制作するのは、やらないよりやった方がましというもの。そこで絵具を塗りたくって画家の真似事をするしだいだ」。
左半双に自作の詩を録する。大意は、「私は史書を講釈して生活の資とし、世とともに推移してきた。 わが文芸界は、すぐれた先人が死んで衰えてしまった。この時にあたって私が遊戯に書画を制作するのは、やらないよりやった方がましというもの。そこで絵具を塗りたくって画家の真似事をするしだいだ」。

会稽清趣図 東坡戴笠図 葛仙移居図 擬土佐又平筆法
 遊戯人物図
仲麻呂賞月図
会稽清趣図 明治45年(1912) 77歳 絹本着色 137 x 41 cm。 晋の有名な書家王義之の愛鵞に関する逸話を主題にしたもの。 賛は明の聞道人の『癖顛小史』に引く『晋書』の王義之伝。 大意は、「王義之は生まれつき鵞鳥が好ぎだった。浙江会稽に一人暮らしの老婆が居り、一羽の鵞鳥を飼っていた。 その鵞鳥は鳴き声がよかった。売ってくれと頼んでいたが、まだ手に入れることができなかった。そこで親しい友人と、駕を命じて見に行こうとした。老婆は王義之がやってくるのを聞いて、鵞鳥を煮て待っていた。王義之はそれを知って、数日の間、がっかりして嘆いていた。また浙江山陰に一人の道士が居て、立派な鵞鳥を飼っていた。王義之は行って見て、大変喜んだ。ぜひとも買いたいと頼んだところ.道士は、それなら『道徳経』を写してきなさい、一羽どころか、全部差し上げますよ、と言った。王義之は喜んで写し終え、鵞鳥を籠に入れて帰り、大いに楽しみとした」。
東坡戴笠図 大正元年(1912) 77歳 紙本淡彩 169 x 48 cm。 蘇東披が海南島に流されていた時、土地の黎子雲という人を訪れ、帰途雨に遭ったので、農家から筍笠を借り、下駄を履いて帰ったところ、女子供が集まって笑い、犬が吠えた、という故事を描く。 賛は、この故事を略記し、また宋の王陶が東披を賛えた句を録する。 「東坡はこの世の中に流謫されてきた仙人のような人物だが、世の中は彼を容れず、さまざまな苦労を経験するが、常に洒々落々としていた」という意。
葛仙移居図 大正元年(1912)  77歳 絹本着色 143 x 43 cm。 中国、晋の道士葛洪は仙道を好み、不老長生の術を求めて『抱朴子』を著わした。後、不老長寿の薬である金丹を煉るため、丹砂を産する交阯に赴こうとして、一家をあげて移居の途中役人に止められ、ついに羅浮山に入って煉丹に日を送った。図は葛洪の移居の景。上に録するのは略伝。 「晋の葛洪、字は稚川、医術を練磨し、聖胎を長養す。嘗て羅浮山に移りて、丹を煉る。著もって、世に伝う。 詩有り、曰く。 洞陰冷々、風珮清々、仙居永劫、花木長栄すと。 真に上清金仙の語なり」。
擬土佐又平筆法 遊戯人物図 大正元年(1912) 77歳 絹本着色 138 x 51 cm。 鐵齋は大津絵を倣った作品をたくさん残しているが、これほど大津絵の特徴をうまく写したものは少ない。 賛は自作の詩。大意は、「絵画は筆の遊びであり、古画の模写はそのばかげて変わっているところをつかまえることが大切なのだ。人物画の名手であった晋の画家顧愷之は、人物肖像画の秘訣は瞳にあると言ったが、大津絵の祖岩佐又平(自ら土佐流を名乗っている)は私の人物画の師である」。
仲麻呂賞月図 大正二年(1913) 78歳 絹本着色 139 x 41cm。 遣唐留学生阿倍仲麻呂は名を朝衡と改め、唐の玄宗に仕え、李白や王維と交際して文名を揚げたが、天宝一二年(753)、大使藤原清河に従って帰朝の途についた。明州(寧波)での送別宴の席上、東の空に浮かぶ月を見て、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の一首を詠み、漢訳して人々に示したところ、衆人みな泣いたと『古今集』にある。 図はその景。

芳山春暁図 書聖臨池図 渓居清話図 山居高会図 華之世界図
芳山春暁図 大正2年(1913) 78歳 絹本着色 167 x 51 cm。 鐵齋は好んで吉野山を描いたが、この図は中でも色彩の美しい傑作。 技法は完全に鐵齋化された大和絵。 賛は後醍醐天皇の御製。 花にねて よしや吉野の よし水の 枕の下に 岩はしる音
書聖臨池図 大正2年(1913) 78歳 絹本着色 139 x 42 cm。 題字は、「蘭渚幽趣」。 賛は、「王義之、字は逸少。家を秘書郎に起こし、右将軍、会稽内史を歴たり。書を善くす。書を学びて池水尽く黒し。その書法は古今の冠となす。今大正二年癸丑は、晋の永和癸丑を距ること一千五百六十年なり。今この図を写して追情を寓すという」。 王義之の蘭亭脩禊から一五六〇年経過して同じく癸丑の年に当たるので、記念に制作したもの。義之が習字している景で、彼の愛した鵞鳥も描き添えてある。
渓居清話図 大正2年(1913) 78歳 絹本着色 140 x 43 cm。 渓流のそばの岩には一人の高士が水音に耳を傾け、廬の中では二人の高士が話をかわしている。 画面左下にみえる侍童は、訪れた高士の供であろうか。 賛は自作の詩。 大意は、「文苑の風流韻事はすっかり世俗にまみれてしまった。 この文壇の荒廃を、誰が開くことができようか。 私は易の、道を履むこと坦々たり、幽人貞にして吉なり、の意を愛して、世俗を逃れて渓間に住み、画を描いている」。
山居高会図 大正3年(1914) 79歳 絹本着色 153 x 41 cm。 前図「渓居清話図」と同様の主題の作品である。 賛は読書の楽しみをうたった自作の詩。「人は吾が書癖を笑うも、吾は読書の楽しみに耽る。 宛ら南面の王の如し。万巻、天爵を享く」。
華之世界図 大正3年(1914) 79歳 絹本着色. 140 x 42 cm。 古くから桜花の名所として有名な、吉野の春景色を描いたもの。 賛は自作の詩。「華を尋ねて到らざる無し。両歳芳山に到る。酔うて臥す雲深き処。経来る三日間」。大意は、「桜の花を尋ねて行かぬところはない。去年も今年も吉野の山にやって来た。花見の酒に酔っぱらって、白雲のように桜がいっぱいに咲いているところに寝て、三日も経ってしまった」。

通天晩秋図 寿老人図 周甲子図
通天晩秋図 70歳代 紙本淡彩 扇面額装 17 x 53 cm。 東福寺通天橋の秋景を描く。
寿老人図 大正元年(1912) 77歳 紙本着色 扇面貼交掛軸 17 x 53 cm。 友人の加藤藤園の還暦(六一歳)を祝って贈ったもの。 賛は、「五福、寿を先と為す」。『書経・洪範』に寿と富と健康と徳を好むことと天命を全うすることを五福として挙げているが、中でも寿がまず第一に大切だ、との意。
周甲子図 大正元年(1912) 77歳 紙本着色 扇面貼交掛軸 17 x 53 cm。 同じく、友人の加藤藤園の還暦(六一歳)を祝って贈ったもの。 「華」という字を分析すると十が六箇、一が一つあるので六十一を表し、蟹は甲を持っているから、菊の花と蟹を描いて六十一甲子を祝う図とする。

張子虎図 事事如意図 安楽居図
張子虎図 大正3年(1914) 79歳 紙本着色 扇面掛軸 16 x 53 cm。 大正三年寅歳の書初の戯画。 賛は自作の戯歌。 「猫でなく張子なからも虎なれハ それの証拠に竹を添置」。
事事如意図 大正3年(1914) 79歳 絹本着色 扇面掛軸 18 x 56 cm。 中国では正月に柿、百合根、橙などを、めでたい物として備える風習がある。 その図を描いて百事如意図と称する。 百合根は百を表し、柿は事を表し、また霊芝は「如意」の形に似ているので如レ意を表し、万事が思うように行くことを祈願するのである。 賛文中に「余は幽人なり。然れども事々かくの如きを願うのみ」とある。
安楽居図 大正3年(1914) 79歳 紙本着色 扇面掛軸 17 x 55 cm。 自作の詩、「茅筆、鋤に代えて硯田を耕す。仁風恵風、豊年に遘う。一家全く天恩の厚きを受く。人間の造孽肇銭を使わず」。 大意、「筆をもって鋤に代え、硯を田として書画を制作して生活費を稼ぐ。太平の世なので収入も多い。わが一家が安楽に暮らせるのも、厚い天恩のおかげである。私は世間の罪作りの銭は使わない」。 鐵齋は華の字を蘖と書き誤っている。

癖顚画史 大正3年(1914) 79歳 絹本淡彩 画帖 
12画 各 24x36cm。
静観楽事帖 大正3年(1914) 79歳 紙本着色 画帖12画6書  各 11 x 25 cm。
蘇東坡 林和靖 羅漢図
明の聞道人の『癖顚小史』は諸名家の癖を集め記したもので、鐵齋はしばしば、この書によって絵を描いた。この画帖もその一つ。図は、茶を愛した唐の盧全、『茶経』を著した唐の陸羽、流謫中庶民と話すことを愛した宋の蘇東坡、菊を愛した晋の陶淵明、酒を愛した晋の劉伶、石を拝した宋の米元章、梅を愛した宋の林和靖、竹を愛した晋の王子猷、鵝鳥を愛した晋の王義之の像。 外に二つの人物図があるが氏名は不明。 題字は「復た佳趣少し」。  本図は、蘇東坡。 蘇東坡は、黄州や広東に流されていた時、毎日客を集め、身分の上下を忘れて自由に放談し、話の種のないものには幽霊話をさせ、それさえ無いという者には、でたらめ話でもしなさいと言ったという。 
明の聞道人の『癖顚小史』は諸名家の癖を集め記したもので、鐵齋はしばしば、この書によって絵を描いた。この画帖もその一つ。図は、茶を愛した唐の盧全、『茶経』を著した唐の陸羽、流謫中庶民と話すことを愛した宋の蘇東坡、菊を愛した晋の陶淵明、酒を愛した晋の劉伶、石を拝した宋の米元章、梅を愛した宋の林和靖、竹を愛した晋の王子猷、鵝鳥を愛した晋の王義之の像。 外に二つの人物図があるが氏名は不明。 題字は「復た佳趣少し」。  本図は、宋の林和靖。 林和靖は、西湖孤山に隠栖し、梅花と鶴を愛したことで有名である。
この画帖は、清の姚若翼に倣って花弁を貼り付けた「奈良八重桜図」、「鶯宿梅図」、インドの菩提樹の葉に描いた「羅漢図」、宋の覚範和尚に倣ってさいかちの汁で描いた「梅花図」などよりなる。 本図は、渡辺雲照律師がインドのブダガヤから持ち帰った菩提樹の葉に、清の金冬心に倣った羅漢を描いたもの。 賛はそのことを記した文。

北窓画談図巻(部分)
北窓画談図巻 大正3年(1914) 79歳 紙本淡彩 巻子 17 x 247 cm。 大正二年三月、鐵齋は家族と共に南座で英一蝶を扱った芝居を見て興を催し、一蝶の逸話を集めて、この図巻を作った。 図は一蝶が大金を投じて手に入れた石燈籠に火を点じ、高価な新茄子を食っている景、罪を法廷で裁かれる景、三宅島に流された時、北向きの窓辺で江戸を偲び、母の生活費にあてるため画を揮毫する景を描く。

巌棲谷飲図巻(部分)
巌棲谷飲図巻 70歳代 絹本淡彩 巻子 35 x 340 cm。 題の「巌に棲み、谷に飲む」は、『淮南子・人間訓』にみえる「巌居谷飲」に因む語、「山に棲み、谷の水を酌んで飲む」という意味で、山中に隠居することの形容としても用いられる。 鐵齋が好んだ幽居図のひとつである。 賛は元の文人画家倪雲林の語。 大意、「城門の傍の寺院はひっそりと人気がなく、広々としていて、静かに居るのによい。俗事を断り、心を無為恬淡の境地に遊ばせ、清々しい早朝に髪をくしけずり、湯浴して、一日悠々と暮らす。古書を読んで古人と相対する気持になり、自分の肉体のあることを忘れて道に接すると、心引き締まって自得するところがある」。 

屏風額装  70歳代 絹本着色 各 31 x 75 cm
松藤図
桜花図

安楽窩図 社頭杉図 呂仙煉丹図 福神遊戯図 鍾馗図
安楽窩図 大正3年(1914) 79歳 絹本淡彩 138 x 50 cm。 安楽窩は河南省洛陽県天津橋の南にある五代の安審琦の故宅で、宋の嘉祐年間、洛陽の長官となった王洪辰が易学者邵郡雍をここに迎えてその住居とし、安楽窩と名付けた。 賛は、易理に通じていれば、人生万事、和気をもって対処できる、という意味。
社頭杉図 大正3年(1914) 79歳 紙本淡彩 125 x 36 cm。 大正3年の和歌勅題に因んだ作。 祇園八坂神社の鳥居の前にあった歌人梶女の茶屋の景。 梶女の娘百合も和歌に巧みであった。 百合の娘町は池大雅と結婚し、玉瀾と号し絵をよくした。 賛は、以上のことを略記してある。
呂仙煉丹図 70歳代 絹本着色 141 x 42 cm。 唐の仙人呂洞賓が、山中の洞穴の中で不老不死の薬を作る景。 賛は呂洞賓の略伝。大意は、「呂洞賓は永楽県の人、号は純陽子。会昌年間、二度進士に挙げられたが落第。長安の酒屋で一道士が壁に『坐臥常に携う酒一壷。双眼をして星都を識らしめず。乾坤しかく大なれど名姓無し。人間を疎散す一丈夫』と詩を題するのを見て姓名を問うと、漢の仙人鍾離権だった。そこで、弟子となって道を得た」。
福神遊戯図 70歳代 紙本淡彩 131 x 25 cm。 大津絵を倣ったもので、戯画風なこっけいさをもっている。 賛は自作の狂歌。 「はだかにて投られたさまを見よ 福禄寿も有たものかは」。
鍾馗図 70歳代 絹本朱墨 79 x 37 cm。 賛は、「正気邪を駆る」。

六曲一双  大正3年(1914) 79歳 絹本着色 各 170 x 375 cm  重要文化財
安倍仲麻呂明州望月図
賛は『文苑英華』に載っている仲麻呂の詩と『古今集』に載っている「天の原……」の歌。 詩は天宝一二年(七五三)、帰朝に際し、長安を出発する時に別れを惜しんで作ったもの。
円通大師呉門隠栖図
賛は藤原道長が彼の帰朝をうながして送った手紙と、『宋史・日本伝』に載っている関係記事を録す。