3.3 60歳代

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祝望月玉泉翁
周甲子詩図
天保九如章図 乙宝寺縁起 漢織呉織二女像
祝望月玉泉翁周甲子詩図 明治28年(1895) 60歳 紙本淡彩 135 x 39 cm。 望月玉泉は京都の画家。父玉川に画を学び、明治天皇即位のとき屏風を描き、京都に絵画専門学校が創立されると、教員に迎えられた。 これは玉泉の還暦を祝って贈ったもの。 賛は自作の詩で、大意は、「白髪まじりの髪、赤ら顔で身体は達者。毎日大酒飲んで本性を養う。望月家は代々長生の法を伝えている。それは寿老人を描いて人に与えることだ」というもの。
天保九如章図 明治29年 (1896) 61歳 絹本着色 140 x 56 cm。 『詩経・小雅・天保章』に、臣下が君主の長寿福禄を、九つのものに喩えて祝福する句がある。「山の如く阜の如く、岡の如く陵の如く、川の方に至るが如く、月の恒の如く、日の升るが如く、南山の壽の如く、松柏の茂るが如し」というもので、〈如〉の字が九つあることから、天保九如は長寿を祝う言葉とされた。 賛は、その「天保章」の前述の部分。
乙宝寺縁起 明治28年(1895) 60歳 絹本着色 116 x 51 cm。 越後国乙宝寺の僧が毎日『法華経』を読誦していると、二匹の猿がきて樹上で聞いていた。 それが百余日続いた。 不審に思った僧が、ある日猿に、毎日やって来るが読経して欲しいのかと聞くと、首をふった。 写経して欲しいのかと聞くと、肯いて礼拝して去った。 数日後、百余匹の猿がやわらかい木の皮を沢山運んできた。僧はその木の皮に写経し、二匹の猿は、毎日、木の実や瓜を僧に供養した。 しばらくして二猿がこなくなった。 いぶかしく思った僧が近くの山の中を探すと、谷の中で二猿は山芋を掘り掛けたまま、疲労のあまり死んでいた。 僧は哀れに思って、読経し埋葬してやった。 数十年後、二猿はは経の功徳で越後国司・紀躬高夫婦に生まれ変わり、乙宝寺に来て、未完成の写経を求め、ついに昔の僧と対面し、写経を完成してもらったと云う、『本朝法華験記』、『今昔物語』などにみえる「乙宝寺縁起」を描いたもの。賛は、『元享釈書』巻十七の文。 乙宝寺縁起 明治28年(1895) 60歳 絹本着色 116 x 51 cm。 越後国乙宝寺の僧が毎日『法華経』を読誦していると、二匹の猿がきて樹上で聞いていた。 それが百余日続いた。 不審に思った僧が、ある日猿に、毎日やって来るが読経して欲しいのかと聞くと、首をふった。 写経して欲しいのかと聞くと、肯いて礼拝して去った。 数日後、百余匹の猿がやわらかい木の皮を沢山運んできた。僧はその木の皮に写経し、二匹の猿は、毎日、木の実や瓜を僧に供養した。 しばらくして二猿がこなくなった。 いぶかしく思った僧が近くの山の中を探すと、谷の中で二猿は山芋を掘り掛けたまま、疲労のあまり死んでいた。 僧は哀れに思って、読経し埋葬してやった。 数十年後、二猿はは経の功徳で越後国司・紀躬高夫婦に生まれ変わり、乙宝寺に来て、未完成の写経を求め、ついに昔の僧と対面し、写経を完成してもらったと云う、『本朝法華験記』、『今昔物語』などにみえる「乙宝寺縁起」を描いたもの。賛は、『元享釈書』巻十七の文。
漢織呉織二女像 明治31年(1898) 63歳 絹本着色 106 x 33 cm。 賛の大意、「『日本書紀・雄略記』に呉の国から織工の漢織・呉織の二女を献じたとある。これを応神天皇の世のこととする説は、あやまり。太秦の広隆寺に二女を祭る祠があるが、何時はじまったのか分からない。我が国の織物は神代に起こったことは、伊勢神宮の神庫に『はた』と『おさ』が保存してあるから明らかだが、織物業は漢織・呉織の二女から盛んになったのだから、これを祭るのも自然である」。

富士山図 六曲一双      
右隻
富士山図 右隻  明治31年(1898) 63歳 紙本着色 153 x 352 cm。 賛は自作の詩文で、「池大雅は画家、高芙蓉は篆刻家、韓大年は書家であるが、みんな仲が良かった。 ある日、三人は大雅の家で一緒になり、富士山の話から、三人で登山しようと云うことになった。 すぐ旅支度をととのえ、富士山に登り、さらに越中の立山、加賀の白山に遊んで帰京した。 世人はそのことを伝え聞いて、風流なことだと思った。 大雅は富士を愛して十六回も登った。 だから富士の画はたいそう優れているのだ」の意。

左隻

江山雪霽図 源頼光討賊図 闔家全慶図 群仙祝壽図 瀛洲仙境図
江山雪霽図 明治33年(1900) 65歳 紙本墨画 153 x 56 cm。 賛の大意、「数日雪が降った。 興に乗じて江口に至り、濁酒を買って楼に登って眺めると、堤も林も真っ白に光っている。 一杯やってよい気持ちになる。 山の下の人家は柴の戸を半ば閉ざしており、酒屋の青い旗がかぜに翻っている。 風雪のうち、遠方の江水が空と一つに連なっており、上も下も白く、金山と芭蕉山は水盤に浮かべた二つの石のよう。 蓑笠を着た老人が枯れ柳に舟を繋いで釣りをしており、時に舟の帆が見え、霞が現れたり消えたりする。 真に奇観である」。 おそらく明人の文か。
源頼光討賊図 明治32年(1899) 64歳 絹本着色 126 x 50 cm。 源頼光が勅命を奉じ、大江山の酒顛童子を討つべく、部下の平井保昌・渡辺綱・坂田金時・白井定光・卜部季武と山伏に変装して登山する景。 賛は徳川時代の学者・亀田鵬斎の作った擬文で、菅原輔正が頼光の大江山行きを激励するために作った文ということになっている。
闔家全慶図 明治33年(1900)  65歳 絹本着色 104 x 49 cm。 闔家全慶は一家中が皆喜ぶという意味で、祝賀の画題。 これは明治年間、岐阜県会議長から衆議院議員となった吉田利和翁なる人の古希の祝いのために、その子息から求められて描いたもので、図は郭子儀とその子孫の像である。郭子儀は唐の高官で、長寿の上、多くの子孫がまな高位高官に昇ったので、めでたい画題。 賛は吉田翁の略伝。
群仙祝壽図 明治32年(1899) 64歳 絹本着色 128 x 56 cm。 瀛洲仙境図とともに久邇宮に献上したもの  多くの仙人が集まって、寿命の神である南極老人星、即ち寿老人の壽を祝する景。 空中を鶴に乗って飛んでいるのが寿老人。
瀛洲仙境図 明治32年(1899) 64歳 絹本着色 128 x 56 cm。 群仙祝壽図とともに久邇宮に献上したもの  『雲笈七籤』によると瀛洲は神仙の住む十洲の一つ。東大海中にあり、地は方四千里、おおむね会稽郡に対し、西岸を去ること七十万里のところにある。上に神芝仙草を生ずる。 また千丈ほどもある玉石があり、酒の味がする玉醴泉という泉が涌いている。これを飲むこと数升すれば酔い、長生きすることができる。 仙家が多くある。 風俗は呉中ににており、山川は中国の如くである。

漁樵問答図 六曲一双
右隻
漁樵問答図 六曲一双 右隻 明治33年(1900) 65歳 紙本着色 156 x 361 cm。 賛は宋の学者・邵雍の『漁樵対問』の中の、漁夫と樵夫の問答をかりて、人は己の力に応じた仕事をすべきであると説く文。

漁樵問答図 六曲一双 左隻 明治33年(1900) 65歳 紙本着色 156 x 361 cm。 賛は宋の学者・邵雍の『漁樵対問』の中の、漁夫と樵夫の問答をかりて、人は己の力に応じた仕事をすべきであると説く文。
左隻

多福多壽多男子図 塐像菅公図 茶仙渓居図 十六羅漢図 魁星図賛
多福多壽多男子図 明治34年(1901)  66歳 絹本着色 128 x 50 cm。 多福多壽多男子は祝誦の語。 松と霊芝は多壽、石榴は多男子、仏手柑は多福をあらわし、それに正月の縁起物である百合根と柿を描く。 賛の「口を守ること瓶の如し」は宋の富弼の語で多言を戒めたもの。また瓶のまわりに「粛永八今黒次差力聶需矢尹真葉千乞内丁女五」とあり、中央に口の一字があるが、夫々の字に口の字を加えると、「嘯咏只だ嘿を含む。咨嗟、囁嚅を加う。知んぬ君が喋舌を嗔るを。吃吶、吾の如くなる可し」という詩になる。やはり多言を戒めたもので、『奚囊寸錦』に出ている。
塐像菅公図 明治35年(1902) 67歳 紙本着色 125 x 31 cm。 菅原道真の泥人形を写したもの。明治35年5月、菅公千年祭に当たって描いたもの。 賛は自分の詩で、大意は、「菅原道真公は学問文章は並ぶものがいないほど優れていた。公は皇室の力を回復しようとして政治に励み、誠心をもって神徳に参行し、死後は天神と祭られて千年も皇居を護っている」。
茶仙渓居図 明治36年(1903) 68歳 絹本着色 147 x 51 cm。 茶道の始祖とされる陸羽を描いもの。 賛は陸羽の略伝で、大意は、「陸羽は字を鴻漸といい、復州の人である。棄子だったので、幼いころ自分の父母を知らなかった。成人してから自分で易を占い、その卦の文をもとに姓を陸、名を羽、字を鴻漸とした。唐の上元年間のはじめ、苕渓に隠居して桑苧翁と称し、また竟陵子と号した。のち世間との交渉を絶って、『茶経』三巻を著した」。
十六羅漢図 明治36年(1903) 68歳 絹本着色 171 x 72 cm。 賛は、「外には声聞を現わし、内には菩薩を密む」。 羅漢は小乗仏教の聖者たる声聞の姿を現わしているが、内には大乗仏教の聖者たる菩薩の心を秘めている、との意。
魁星図賛 明治37年(1904) 69歳 絹本着色 143 x 57 cm。 魁星は北斗七星の第一星。 宋元のころから奎星と混同され、文運を司るとされ、科挙を受ける人々に祭られた。 魁の字は鬼へんに斗だから、鬼と升(ます)を描き、百花の魁(さきがけ)たる梅花を添える。 この図は元人の作による。 賛は作者未詳の魁星賛。  秋風の起こるころ、科挙の試験場で多くの人々と勝を争い、立派な文章を書いて及第し、目出度く出世するということをのべてある。

旧蝦夷風俗図   二曲一双屏風  61歳 紙本着色 各 167 x 184 cm

山水図貼交屏風  六曲一双 60歳代 絹本着色 各131 x 51 cm
右隻
賛は、明の文徴明の詩「颯々として山風、樹枝を吹き、冷々として石間、氷凘をそそぐ。幽人、褐を擁す茆簷の下。茗を煮、香を焚いて、みずから詩をもとむ」。 賛は、宋の黄山谷の句「雲は横たわる日落つる処。一片楚峰青し」。 賛は、明の李日華の句「須いず洞壑に芝草を尋ぬるを。ただ青山に対して俗人に勝る」。 賛は、元の黄大癡の詩「春夏山中、日まさに長し。竹梢、粉を脱して午窓涼し。幽情ただ許す麋鹿と同なうを。みずから詩書を愛して静裡に忙し」。 賛は、性命圭旨の文「元君はじめて汞を煉る。神室、洞虚をふくむ。玄白、金公を生ず。巍々として始初を建つ。これ金碧経の口訣なり」。 賛は、元の呉鎮の詩「岩谷深居、素貞を養う。歳寒、松竹淡く相隣る。孤根歴尽す氷霜の苦。識らず人間、別に春あるを」。

賛は、元の鄧文原の詩「木落ち千林、秋気あらたなり。虚亭寂々として塵を生ぜず。悠然危坐す玄を草する者。山橋、字を問う人に負じず」。 賛は、唐の仙人呂洞賓の召使の牧童の詩句「草は広野に鋪く六七里。笛は晩風に弄す三四声」。 賛は、元の趙仲穆の詩「瀑流千丈、天より垂る。風は銀河を激して雪となって飛ぶ。間に謫仙が廬岳の句を詠ず。知らず空翠の人衣をうるおすを」。 賛は出典不明。 「身閑なれば以って気を養なうべし。心閑なれば以って神を養うべし。韓退之の詩に、一生を断送するは、ただ酒あり、百計を尋思するに閑に如かずと。閑のおもむきを得たること深しというべし」。 賛は、明の文徴明の詩「江魚上らんと欲して雨瀟々。棟子風生じて水ようやく高し。 短棹を停め軽橈を駐む。楊柳湾頭、晩潮を歴る」。 賛は、宋の黄山谷の句「雨ふらんとし晴れんとす、苔色の裏。 山光断ゆる処、人家を見る」。
左隻

六曲一双 蓬莱仙境図・武陵桃源図  明治37年(1904) 69歳 紙本着色 各 178 x 365 cm
蓬莱仙境図
賛は、宋の張君房の『雲笈七籤』の文。 賀陽宮に献上した屏風。

武陵桃源図
賛は、陶淵明の『桃花源記』。 賀陽宮に献上した屏風。

蓬莱仙境図 天窟神楽図 筑波山真景図 三保望岳図 牛祭図
蓬莱仙境図 60歳代 絹本着色 139 x 43 cm。 賛は、宋の張君房の『雲笈七籤』の文。
天窟神楽図 60歳代 絹本着色 132 x 51 cm。 天の岩戸隠れの景。
筑波山真景図 60歳代 紙本着色 136 x 52 cm。 賛は、『常陸国風土記』の文。 大意は、「神祖の尊が諸神のところを巡り、日暮れに富士山の神に宿を請うたが、真粟の初嘗で物忌みをしていることを理由に断られた。 神祖の尊は親の宿泊を断るとは何事だと立腹し、富士山には冬も夏も雪が降り、人民が登らず、飲食を奉らないようにと呪詛した。ついで筑波山の神に宿を請うと、歓迎された。 神祖の尊は喜んで、筑波山には永久に人民が集まり祝い、飲食するようにと、祝福した」。
三保望岳図 60歳代 絹本着色 125 x 55 cm。 三保崎から富士山を遠望した景。 賀陽宮へ献上したもの。
牛祭図 60歳代 紙本着色 137 x 34 cm。 太秦の広隆寺で9月12日(後には10月12日)の夜執行した摩多羅神の祭。 牛の背に神幣を載せ、面をかぶった人が共に乗り、薬師堂の前で源信僧都の作と伝える祭文を読む。 それは、天神地祗をはじめ、あらゆる変部を祭り、寺内の悪魔障礙、疫疾災厄を退散せしめ、寺物を盗むものたちを戒めるものである。

蓮月幽居図 祇園夜雨図 虫籠図
蓮月幽居図 60歳代 紙本淡彩 扇面掛軸 19 x 53 cm。 恩人大田垣蓮月の洛東聖護院村に幽栖の図。当時その辺りは閑静な郊外であったが、現在は市中になっていて、昔をしのぶよすがもない。
祇園夜雨図 60歳代 紙本淡彩 扇子 17 x 49 cm。 白河上皇が雨の夜、祇園近くに住む愛妾のもとに通う途中、鬼のようなものが見え隠れするのを見て、随従の平忠盛に命じて捕えさせたところ、老僧が社に火を上げるため、麦藁を笠の代りに被り、火を吹きながら歩いていたのであった、ということが、『平家物語』や『源平盛衰記』にみえる。 図は、おそらくそれによって描いたものであろう。 賛は「祇園夜雨」。
虫籠図 60歳代 紙本淡彩 扇子 17 x 49 cm。 図は、へちま棚に下げられた虫籠。 賛は「枕上、秋声を聴く」。

西渓対棋図 漱老謔墨帖 (部分)
西渓対棋図 60歳代 紙本淡彩 扇面掛軸 17 x 51 cm。 友人奥野西渓に贈ったもの。西渓は囲碁を愛したので、その対局の景を描く。
漱老謔墨帖 明治33年(1900) 65歳 紙本着色 画帖 各11 x 15 cm。 この画帖は、興の向くままに、中国の故事、逸話を戯画風に描いた二一図(他に、題字、跋二を含めて二四頁)から成るもので、自跋に次のように記している。 「ある夕、たらふく食べて太鼓腹になった。そこで燈下に坐って、この小冊になぐり描きし、夜中になって寝た。翌る朝、童子が一筆跋を書いてくれと乞うたが、自分は断って言った。これは私が描いたのではない、粥飯の気が溢れてこの幻の形となったのだ。引き裂いてもかまわないと」。 本図は、前漢の文豪司馬相如は、若い時郷里の土豪卓王孫の娘文君と駆落ちして金に困り、臨邛耶で酒屋を開き、文君は店に出て酒を売り、相如はふんどしをつけて器を洗ったという。 図はその故事を描いたもの。賛は、「文君、壚に当たる」。 壚は土を重ねてつくった酒を売る場所。
漱老謔墨帖 明治33年(1900) 65歳 紙本着色 画帖 各11 x 15 cm。 この画帖は、興の向くままに、中国の故事、逸話を戯画風に描いた二一図(他に、題字、跋二を含めて二四頁)から成るもので、自跋に次のように記している。 「ある夕、たらふく食べて太鼓腹になった。そこで燈下に坐って、この小冊になぐり描きし、夜中になって寝た。翌る朝、童子が一筆跋を書いてくれと乞うたが、自分は断って言った。これは私が描いたのではない、粥飯の気が溢れてこの幻の形となったのだ。引き裂いてもかまわないと」。 本図は次の逸話を描いている。 宋の汪洙は幼い時から詩がうまく、いつも学校で鵝鳥を飼っていたが、九歳の時、学校の建物が壊れているのを見て、壁に詩を書き付けた。その詩は、「校舎の屋根が壊れているので、顔回の像は毎晩星を観察しているし、孔子の像は毎朝雨に頭を打たれている。万代の公卿はみなここを卒業したが、誰が俸給を割いて修繕してくれるだろうか」というものであった。 図は注洙が壁に詩を題している情景。

伊勢海老図 盆踊図
伊勢海老図 明治37年(1904) 69歳 紙本着色 46 x 61 cm。 明治37年4月、愛媛県三津浜の近藤氏から焼蝦を贈られた御礼に描いたもの。 賛は、明の程敏政の詩を録する。 大意は、「蝦の長い髯が、花じゅんさいの青い芽を、突き破って突出している。湖上に風が吹いて来て、水気が生臭い。 この蝦を料理などせずに、画家が絵に描いたのを、嬉しく思って見る」。
久邇宮の命により描いたもの。 久邇宮の命により描いたもの。

骨董図巻
骨董図巻 明治33年(1900) 65歳 絹本着色 巻子 32 x 141 cm。 いわゆる骨董を描いたもので、賛は明の文人董其昌の、骨董というのは古い器物の総称であり、字句の解釈によってその意味を明らかにすることはできないと述べた「骨董十三説」の文。なお、跋に骨董癖を戒めた鄭板橋の「骨董詩」を録している。

群仙祝壽図
群仙祝壽図 60歳代 紙本着色 襖4面 各 170 x 93 cm。 賛は『詩経』の中の句、「この春酒を為り、以て眉壽を介く」。 大意は、10月には稲を刈り取り、その稲で春に飲む酒を造り、老人に飲ませてさらに長寿を得るように助ける、というもの。 賛の終わりに、酔っ払って描いた、と記している。 群仙祝壽図 60歳代 紙本着色 襖4面 各 170 x 93 cm。 賛は『詩経』の中の句、「この春酒を為り、以て眉壽を介く」。 大意は、10月には稲を刈り取り、その稲で春に飲む酒を造り、老人に飲ませてさらに長寿を得るように助ける、というもの。 賛の終わりに、酔っ払って描いた、と記している。

利市三倍図巻(部分) 明治37~38年(1904~05) 69~70歳 絖本淡彩 巻子二巻 各36 x 469 ㎝
乾巻
乾巻は盲目の乞食と猿まわし。 賛、「鵾弦檀板長途を走る。六耳空しく聞くも一目無し。道う莫れ丹青は着意に非ずと。閻浮世界すべて糢糊」。
坤巻
坤巻は花売り、揣骨という人相見、葡萄棚の下の農民。賛、「彼は両目を眇す。尓は一足を跛す。跛者は強いて歩し。眇者は乱りに卜す。玎々璫々。忙々碌々。街を穿り巷を蹈き。凶を談じ福を論ず。匀く神に通ずるを賛う。分文を賺し得て。酒を市閣に沽う。昏然酔飽すれば。誰か主僕たる」。