3.2 50歳代

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漁樵閑話図 江山幽邃図 西園雅集図 青緑山水図 武陵桃源図
漁樵閑話図 明治18年(1885) 50歳 紙本淡彩 178 x 97 cm。 賛は宋の邵雍の『漁樵対問』の文を録す。大意は、「魚を釣るには鎖を竿・糸・浮・沈・鈎・餌の六物を具えなければならぬ。その一つが欠けても魚は釣れぬ。しかし、全部そろっても、魚は釣れぬ場合もある。それは天運がしからしめるのだ。人がある事をなすには、全力をつくさねばならぬが、事の成否は天運次第だ」という意。
江山幽邃図 明治20年(1887) 52歳 絹本着色 131 x 55 cm。 明治20年の春、但馬の湯島に赴く途中、丹後の佐治村を通り、松歌堂に泊まって制作したもの。 賛はおそらく明清人の文。大意は、「孔子も山水を愛し、智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむといっており、また泰山に登って魯国を小なりとしたが、山に登ったり水に臨んで道機を触発したり、心志を開くことはよいことだ」。
西園雅集図 明治22年(1889) 54歳 絹本着色 165 x 86 cm。 蘇東坡・王晋卿・蔡天啓・蘇子由・黄魯直・李伯時・晁牙咎・張文潜・鄭靖老・秦小游・陳碧虚・米元章・王仲至・円通大師・劉巨済ら宋代の名士が西園に雅会を開いた光景を李伯時が描いたものを『西園雅集図』という。 賛は米元章の長文が録してある。
青緑山水図 明治23年(1890) 55歳 絹本着色 134 x 55 cm。 甲府滞在中の作品。 賛は自作の詩。 大意は、「余分の銭で茅ぶき小屋を買い、畠の半畝には花、半畝には野菜を栽培する。来客を謝絶して常に戸を閉ざし、読書にふけっているので貧乏である。寵栄も恥辱も塵のようなものだから気に掛けないし、隠退して市井に混じっているので、我を知るものはない。世人が用いてくれるなら進んで道を行い、捨てられるなら隠退する。それはすべて天命のまま。そこで天を仰ぎ膝を抱いて、嘆きの声を発する」
武陵桃源図 明治24年(1891) 56歳 絹本着色 126 x 50 cm。 晋の太元年間、武陵の漁夫が山中で発見した秘境の景。 秦の暴政を逃れた人々の子孫が住んでいたという。陶淵明が、そのことを『桃花源記』に書いた。 賛は宋の王安石の『桃源行』。 「桃源郷の人々は、君臣の別もなく、時代の変遷も知らず、平和な生活を楽しんでいるが、この俗世では、もはや古代の聖王、舜のような名君は現れず、戦乱ばかり続いているのは情けない」ということを詠んでいる。

大雅軼事図巻(部分)  明治21年(1888) 53歳  紙本着色 巻子 24 x 682 ㎝
池大雅の逸話を集めて制作したもの。  本図は、真葛原の草堂で大雅が揮毫する景。  右図の他に、石刻の十三経を買うために貯えた金を八坂神社に奉納する景、韓大年や高芙蓉と共に富士登山に赴く景、乗馬を習う景を描く。 長野豊山の『大雅伝』、『北辺随筆』、『近世崎人伝』、『孔雀楼筆記』などの文を録す。
池大雅の逸話を集めて制作したもの。  本図は、大雅が江戸滞在中ある大名の家で祇園祭の真似をする景。  左図の他に、石刻の十三経を買うために貯えた金を八坂神社に奉納する景、韓大年や高芙蓉と共に富士登山に赴く景、乗馬を習う景を描く。 長野豊山の『大雅伝』、『北辺随筆』、『近世崎人伝』、『孔雀楼筆記』などの文を録す。

北野大茶湯図巻(部分)
北野大茶湯図巻 明治23年(1890) 55歳 絹本着色 巻子 33 x 575 cm。 秀吉は天正一五年10月1日から十日間にわたって、京都北野神社の森を舞台に大がかりな野外の大茶会を催した。京都、大阪、堺の町々に高札を立てて、茶の湯に関心のある者なら若党、町人、百姓でも中国人でもかまわぬ、釜一つ、つるべ一つ、のみ物一つでもよいから持って参加せよ、と呼びかけた。当日は利休をはじめ、宗久、宗及など当時の代表的な茶人が総出で運営にあたり、多くの名物が用いられた。天下の三大名物といわれる新田肩衝、楢柴肩衝、初花肩衝が出たのもこの時である。この茶会は北野大茶湯と呼ばれ、同年正月三日の大坂城の大茶湯とともに秀吉の催した有名な茶会の一つである。 鐵齋は『茶事秘録』その他によって、早くから北野大茶湯の図を研究していたようで、他にも数点残しているが、この図は浮田一蕙の図によって描いたもので、中でももっとも長大で充実した構図である。 賛は予告の高札の文と、この時出品された器物の目録を記した『北野大茶湯記』の文を録したもの。

蔦の細道図巻(部分)
蔦の細道図巻 明治23年(1890) 55歳 紙本淡彩 巻子 31 x 325 cm。 『伊勢物語』に、在原業平が東下りをした折、駿河の宇津山中で、『駿河なる宇津の山へのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり』  と詠んだことが載っており、蔦の細道は歌枕として古来有名。 鐵齋は、みずからその旧跡を踏査して、この図巻を製した。

蝦夷人図 六曲一双 
右隻
蝦夷人図 六曲一双 明治25年(1892) 57歳 紙本金地着色 160 x 337 cm。 アイヌ人の熊祭りの儀式を順を追って描く。 小熊を捕え、これを養い、大木で挟んで絞め殺し、祭場に祭る光景。 賛は荘子の句「鼓腹して遊ぶ」。「古代赫胥氏の民は素朴な生活をして太平を楽しんだ」というが、アイヌ人の生活は、まさに赫胥氏の民のそれのようだ、との意。
蝦夷人図 六曲一双 明治25年(1892) 57歳 紙本金地着色 160 x 337 cm。 アイヌ人の家屋建築の工程と厚司織の紡績の工程を描く。 賛は「七竅いまだ鑿たず」。『荘子』に「南北の二王である倏と忽が、中央の王、混沌を訪うて歓待を受けたので、その謝礼のつもりで、目・耳・鼻・口の七つの穴のない混沌に毎日一つずつ穴を開けてやったところ、七日にして混沌は死んでしまった」という話があるが、アイヌ人の生活は、混沌にまだ穴をあけてやらなかった時のような原始素朴な状態である、という意。
左隻

菅家神像 群童牧牛図 樵者会遇図 仙洞煉丹図 楠妣庵図
菅家神像 明治24年(1891) 56歳 絹本着色  101 x 32 cm。 菅原道真の肖像。 賛は『菅家後集』に載っている自詠の詩。 「家を離れて三四月、落つる涙は百千行、万事皆夢の如し、時々彼の蒼を仰ぐ」。
群童牧牛図 明治25年(1892) 57歳 絹本着色 167 x 70 cm。 宋の張文潜の詩『牧牛児』を録する。 大意は、「牧牛の子らが緑草しげる堤で牛を飼う。子が怒って鞭を振るっても牛には触れない。谷川の辺の柳に南風が清く吹き、麦は生茂って田野は平らか。黒牛は角をといで草を追い求めて行き、老牛は腹一杯食って臥して反芻し、子牛は飛び跳ね回って草に隠れ、母牛の呼び声に答えて鳴く。 老人は子供に弁当を持って行こうと、まず丘の上から、あたりを見回す。夕方になって風雨が蓑を潤すと、子らは唱歌拍手して一緒に帰ってくる。 遠村の放牧は風日うすく、近村の放牧は泥水がひどい。 牧牛の子らは世間の冨貴栄華を知らず、生まれてただ牛の背に乗る楽しみを知っているだけだ」。
樵者会遇図 明治25年(1892) 57歳 紙本淡彩 164 x 77 cm。 山中に樵夫が人に遇って談話する景。 賛の大意は、「樵夫が荷をゆるめて高く深い山に休息する。たまたま隣人に遇って仕事の辛さ苦しさを話す。帰り道で薪を売って銭をもうけて山を下る。濁酒を三杯飲むと御機嫌になって、ニコニコ笑う」。
仙洞煉丹図 明治26年(1893) 58歳 絹本着色 126 x 58 cm。 仙人が洞穴の中で不老不死の丹薬を煉る景。 賛は仙人・李八百の伝記。 大意は、「李八百は蜀の人、名は真、筠陽の五龍岡にいた。夏・殷・周の三代を経て八百歳、行けば一日に八百里。そこで時の人は李八百と称した。 山林に隠れたり、市中に隠れたりした。また華林山の石室で修行した。丹薬ができ、蜀に帰った。周の穆王の時、金堂山にいた。蜀の人々は代々彼を見た。紫陽真君と号する」。
楠妣庵図 明治27年(1894) 59歳 絹本着色 140 x 51 cm。 楠正成の妻(南江氏、名は久子)は、子の正行が戦死した後、尼となり、蒲園と称し、河内の甘南備村に小庵を結び、戦死者の菩提を弔った。この庵を楠妣庵といい、代々尼僧が住持してきたが、維新後廃絶し、その土地を開墾して田畑とした。 鉄斎は、それを惜しみ、この図を制作し、その由来を賛に書いたのである。

魚藍観音像 湘君像 関羽像 山上憶良卿像 東方朔像
魚藍観音像 明治27年(1894) 59歳 紙本着色 124 x 50 cm。 唐の元和12年、陝右の金沙灘に観音が魚を売る美女として出現、衆生を済度した。これを魚藍観音という。 賛は『勧善録』の文。 大意は「宋代、海州胸山の賀氏は代々仏画を描き、生臭物を食べなかった。同家六代で待詔となった者に至って、最も芸が巧みだった。ある日瘡だらけの乞食が鯉を持って来て作品を求めた。 代々生臭物は食わぬ、といって断ると、君の絵は真に迫っていない、私は乞食だが好い絵をもっている、見せてあげようか、といった。喜んで部屋に招き入れると戸を閉めた。 しばらくして呼ぶので行ってみると、観音の姿になっていた。賀は子弟を呼び、香をたいて礼拝した。にわかに姿を消した」。
湘君像 明治27年(1894) 59歳 紙本着色 141 x 49 cm。 湘君は湘夫人とともに、銅庭湖に注ぐ湘水に住むといわれる女神。 伝説によると、二人は堯帝の娘で、舜帝の正后、次妃となったが、舜が南方征伐にでて蒼梧の地で死ぬと、二妃もそのあとを追い、湘水の辺に行って死んだと伝える。 のちに楚の屈原は湘水の近くを放浪したとき、王を思う心を二人に託して、詩をつくった。『楚辞・九歌』の中の湘君、湘夫人の章がそれである。 賛はその湘君の章。
関羽像 明治27年(1894) 59歳 紙本着色 175 x 96 cm。 蜀漢の忠臣・関羽は死後疫病を払う神として祭られ、明の万暦年間、三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君という尊号を贈られた。 賛は、「丹心、日月を懸く」。
山上憶良卿像 50歳代 紙本淡彩 35 x 60 cm。 山上憶良の歌、「男やもむなしかるべき万世にかたりつぐべき名はたたずして」を録する。
東方朔像 50歳代 紙本淡彩  134 x 53 cm。 東方朔は漢の武帝の臣で、滑稽な言辞をもって帝を諌めた。後世仙人とされ、西王母が武帝に、三千年に一度花咲き、三千年に一度実る桃を与えた時、朔を指して「この子は三度桃を盗んだ」といったという伝説を生じた。 賛の大意、「東方朔は広く伝説雑説の書を読み、滑稽で知恵多く、大言して人を驚かし、世間を馬鹿にして思うままに振る舞い、彼の本心を知らぬ人々から気違い扱いされた。世俗の中に隠れ、朝廷の間に世を避け、悪を正し救うこと多く、君をよく諌めた。その遺像は意気盛んで、その人物を想像するに足る」。 

  耶馬溪真景図巻(部分)
耶馬溪真景図巻 50歳代 紙本着色 巻子 31 x 105 cm。 巻末に自作の詩を題する。「奇石嶙峋として人を噛まんと欲す。千年誰かまた精神を画く。至文独り山陽叟あり。字々写し来る耶馬の真」。 五十歳代の作であるが、後年巻頭に洞門を開鑿した禅海の像を描き、僧敬雄が禅海の功を賛えた賛を録した。

  月瀬図巻(部分)
月瀬図巻 50歳代 絹本着色 巻子 19 x 342 cm。 月瀬は大和の梅の名所で、鐵齋は若い頃からしばしば遊び、多くの作品を残しているが、画巻は少ない。 題字の「香雪世界」は、白い梅の花を雪に喩えたもの。賛は月瀬を詠んだ自作の詩、「谷と無く老梅ならざるは無し。梅花深き処水榮廻す。咲う吾猶探奇の癖有るを。亦同人を誘いて得々来る」。

八坂神社図 八百遐齢図 富貴国香図 万歳舞図 安楽祭図
八坂神社図 50歳代 絹本着色 137 x 51 cm。 賛は、祇園八坂神社鳥居の南側に茶店を開き、和歌に巧みだった梶女とその娘の百合女のこと、百合女がその娘の町女を当時まだ無名作家だった池大雅を見込んで結婚させたが、池大雅は後に有名になり、町女も玉瀾と号し、夫と共に名をあげたことを記し、また梶女・百合女・大雅・玉瀾の和歌ならびに冷泉為村が大雅に贈った和歌を録す。
八百遐齢図 50歳代 絹本着色 117 x 56 cm。 長寿を祝うめでたい画題。 叭々鳥が八、百合根が百をあらわし、八百を意味するのであろう。 遐齢は長寿の意。
富貴国香図 50歳代 絹本着色 117 x 49 cm。 冨貴は牡丹、国香は蘭の異名。 賛の大意は、「『私の描く山水や竹石の画が、当世の人の好みに合わないということが早く分かっていたら、臙脂を沢山買って世人の好む牡丹の画を描いたものを』。 これは元の隠士呉鎮の句である。 私はこの句意に感ずるところがあり、そこでここに記しておく」というもの。 
万歳舞図 50歳代 絹本着色 130 x 61 cm。 万歳は、正月五日に行われた朝儀釿始に千秋万歳を唱えた遺例ととして、中世から民間に行われた。 年の初め、風折烏帽子に大紋の直垂を着て貴賎の家に至り、腰鼓を打って祝言を歌った。 京都には大和万歳、江戸には三河万歳が来た。 賛は、その歌詞「言立」「富久舞」「京の町」「枡舞」「浜出」を録す。 長文だが、いずれもめでたい文句を連ねてある。
安楽祭図 50歳代 絹本着色 130 x 61 cm。 安楽祭は、もと三月十日、今日は四月十日、紫野の今宮神社で行われる祭礼。賀茂上野の村人が、犀の鉾という飾り立てた笠をさし、素袍烏帽子その他異形の姿に扮し、寂蓮法師の作と伝える歌を唱え、笛・太鼓・鐘・を鳴らして舞う。鼓

蕉翁乗馬図 安宅関図 大嘗会図 釈尊図 常盤赴伏見図
蕉翁乗馬図 50歳代 絹本着色 128 x 51 cm。 芭蕉は陸奥の旅の途中、下野那須野を野飼の馬に乗って殺生石に行った。 その時、馬の口取りに短冊を請われて、『野を横にひきむけよほととぎす』の一句を詠んだことが〈奥の細道〉にみえる。 賛は、そのことを説明した文章。
安宅関図 50歳代 紙本着色 136 x 62 cm。 能の『安宅』や歌舞伎の『勧進帳』で有名なさわりの場。 賛は、京都の四条派の画家・幸野楳嶺。
大嘗会図 50歳代 絹本着色 131 x 60 cm。 大嘗会は天皇即位の後、始めての新嘗祭のこと。 
釈尊図 50歳代 絹本着色 131 x 60 cm。 釈尊は孔子を祭る儀式で、二月、八月に行われた。 孔子十哲の肖像を掲げ、杯を供えた。 我が国では文武天皇の時に初めて行われ、一時廃絶し、江戸時代に復興されたが、明治になって再び廃絶した。 賛は、「公事根源」をもとに儀式の由来、内容を述べたもの。
常盤赴伏見図 50歳代 絹本着色 130 x 51 cm。 平治の乱後、母常盤が牛若ら三子をつれて大和の伯父のところへ逃れる途中、伏見の叔母の家に赴く景。 三は『平治物語』の文。

石清水八幡宮図 伊勢神宮図 春日神宮図 大楠公奉勅図 小楠公懲凶図
石清水八幡宮図 50歳代 絹本着色 127 x 50 cm。 京都府綴喜郡八幡町の男山にあり、男山八幡ともいう。 応神天皇、神宮皇后、比咩大神を祭る。
伊勢神宮図 50歳代 絹本着色 127 x 50 cm。 図は内宮を俯瞰したもの。
春日神宮図 50歳代 絹本着色 127 x 50 cm。 藤原の氏神として発展した春日神社。
大楠公奉勅図 50歳代 絹本着色 147 x 42 cm。 笠置山行在所の景。 賛は、『大日本史』の文を節略したものと、正成の歌「久方の天津みかどの安かれと、祈るは国の水分の神」を録す。
小楠公懲凶図 50歳代 絹本着色 147 x 42 cm。 正成の子・正行が弁内侍を救う景で、賛は『大日本史』の文を節略したもの。

  十六羅漢図
十六羅漢図 50歳代 絹本着色 43 x 132 cm。 賛に「顔輝の筆法を学んだ」とある。 顔輝は元代道釈画の代表的画家で、我が国にも多くの作品が伝存している。

四暢図 獅子舞図 蒲生君平像 筑摩神社鍋祭図 群仙高会図
四暢図 明治27年(1854) 59歳 紙本淡彩 158 x 77 cm。 髪を梳く、孫の手で背中の痒いところをかく、くしゃみが出そうで出ない時に紙縒りで鼻の孔を突付いてくしゃみを出す、耳掻きで耳を掃除する、これを〈四暢〉、即ち四つの気持ちのよいことという。 賛は宋の禅僧・恵洪覚範が、李成徳の描いた四暢図に加えた賛の詩四首を録する。
獅子舞図 50歳代 紙本淡彩 128 x 58 cm。 正月の門付け獅子舞の景。 賛は、深草の元政上人の詩。 大意は、「獅子舞は、金毛の獅子の形をしているが、心は虎狼のように猛々しい。日ごとに紅塵の深い町々をうろつき回る。頭を動かし、尾をゆすって、巧みに獅子の真似をするが、わが身が百獣の王であることを覚っていない」。
蒲生君平像 50歳代 絹本着色 142 x 50 cm。 蒲生君平は林子平、高山彦九郎とともに「寛政の三畸人」と呼ばれる勤皇家。 さんは、『近世畸人伝』の文を節略したもの。 鉄斎は明治22年、宇都宮の蒲生家を訪れて、君平の肖像を模写している。 図は君平が足利尊氏の墓を杖で打っているところ。
筑摩神社鍋祭図 50歳代 絹本着色 126 x 51 cm.。 近江国の筑摩明神の祭の日に、神への誓いとして、女が男と浮気した数だけの土鍋を頭にかぶって参拝した風習を描く。 賛は、『俊頼口伝集』の文と、『伊勢物語』や『拾遺和歌集』に載っている「近江なる筑摩の祭りとくせん、つれなき人の鍋の数みん」という歌を録す。
群仙高会図 50歳代 絹本着色 139 x 58 cm。 唐の仙人・呂洞賓は、海島の舎に、師の鍾離権をはじめ多くの仙人を招待し、御馳走をならべ、美酒をくみ、舞ったり、歌ったりして楽しく一日を送り、やがて散会すると、各々鶴に乗って去ったことを、自ら『群仙高会賦』を作って述べた。 図は群仙の集まっている景。 賛は、『群仙高会賦』を録す。

和気清麿朝臣図巻(部分)  50歳代 紙本着色 巻子 31 x 1312 cm。
詞書は彼の自作で、弓削道鏡が帝位を窺う野望を起こした時、清麿が宇佐八幡の神託を奉じて道鏡の野心を挫き、大隅国に流されたが、世が変わってから赦されて都に帰り、繁栄したことを述べてある。 絵は八段で構成されている。第一段、清麿が称徳天皇から宇佐下向を命ぜられる景。第二段、路真人豊永が清麿を激励する景。第三段、宇佐下向の途中の景。第四毅、八幡の神託を請う景。第五段(本図)、大隅国へ流される途中、道鏡の使が清麿を殺そうとした時に暴風雨が起こった景。第六段、折柄勅使が到着して清麿の死を救う景。第七段、大隅講居の景。第八段、赦免されて都に帰り繁栄する景。
詞書は彼の自作で、弓削道鏡が帝位を窺う野望を起こした時、清麿が宇佐八幡の神託を奉じて道鏡の野心を挫き、大隅国に流されたが、世が変わってから赦されて都に帰り、繁栄したことを述べてある。 絵は八段で構成されている。第一段、清麿が称徳天皇から宇佐下向を命ぜられる景。第二段、路真人豊永が清麿を激励する景。第三段、宇佐下向の途中の景。第四毅、八幡の神託を請う景。第五段、大隅国へ流される途中、道鏡の使が清麿を殺そうとした時に暴風雨が起こった景。第六段、折柄勅使が到着して清麿の死を救う景。第七段(本図)、大隅講居の景。第八段、赦免されて都に帰り繁栄する景。