3.1 20~40歳代

画像の上にマウスを置くと、画題、制作年、賛文の要旨、などが吹き出ます。(代替テキスト)
クリックすると、拡大します。

叡山雪景図 烟霞幽情図 万歳図 名花十友図 秋草図
叡山雪景図 文久4年(1864) 29歳 絹本淡彩 132 X 42 cm。  題詩は自作の詩で「昨夜来の寒気が書斎の窓から入り込み、窓辺の竹の音も絶え、風が止んだ。侍童がバタバタとかけてきて、比叡の山が雪で真白です。」
烟霞幽情図 文久4年(1864) 29歳 紙本淡彩 98 X 32 cm。 題詩の「寡って烟霞泉石の盟を結べり。竹間に逃れ住んで幽情を愛す」。即ち「かって山水に親しもうと決めていたので、隠遁して竹林に住み、その静けさを愛する」の詩意を描いて梅翁老君(未詳)なる人に贈ったもの。おそらく自作の詩。
万歳図 蓮月賛 30代 紙本淡彩 130 X 30 cm。 蓮月の賛は、「万世の春のはじめとうたふ也 こは敷しまのやまと人かも」。
名花十友図 慶応2年(1866) 31歳 紙本淡彩 122 X 55 cm。 中国、宋の曾端伯は名花十種を選んで、それを十友に配した。即ち、茶蘼を韻友、梅花を清友、茉利を雅友、瑞香を殊友、荷花を浄友、桂花を仙友、海棠を名友、菊花を佳友、梔子を禅友、芍薬を艶友とする。鉄斎は曾端伯の文章を引用しているが、茶蘼を描きもらしている。
秋草図 蓮月賛 30歳代 紙本淡彩 33 X 49 cm。 蓮月の賛の和歌は、「むさしのの尾花が末にかかれるは たがひきすてし弓はりの月」。

貼交屏風 六曲一双 右隻  慶応3年(1867) 32歳 紙本着色 132 X 52 cm
武陵の漁夫が山中奥深く発見した秘境の景。 杭州西湖の晩夏の景。 楚の屈原が懐王に追放され、君を思って山野を放浪し、詩を作るの景。 蘇東坡、蘇子由、黄山谷、李公麟、米元章、円通大師らの宋の名士が西園で雅会を開いている景。 蘇東坡が赤壁に遊んで月を賞する景。 漢の劉備が諸葛孔明を三度訪れて出馬を懇請する景。
 左隻
宋の易学者邵雍の住んだ安楽窩の景。 茂った林と竹に囲まれた隠栖の景。 濂渓に住んで蓮の花を愛した宋の儒者周敦頣の家の景。 唐の杜牧の山行詩「遠く寒山に上れば石径ななめなり。白雲生ずるところ人家あり。車をとどめてそぞろに愛す楓林の晩。霜葉は二月の花より紅なり」による作。 『詩経・小雅・天保九如章』の句「松柏の茂るが如し」にちなみ、長寿を祝う作。 堯が天下を譲ろうとしたのを拒絶して箕山にかくれた許由は、また召して九州の長にしようとするのを聞き、けがらわしいとして潁水のほとりで耳を洗った故事による作。

隠逸畸人図 十六羅漢図 賞心十六事図 鐵齋蓮月合作帖(部分)
隠逸畸人図 明治元年(1868) 33歳 紙本淡彩 107 X  36 cm。我が国の名高い隠逸の人、畸人を描いたもので、横に夫々その人の歌が書いてある。 上から大石良雄、石川丈山、牡丹花肖柏、松花堂昭乗、熊沢蕃山、最下段が池大雅とその妻玉爛、その左上が売茶翁。なお、一番上の武士は不明。池大雅夫婦の上に対座する二人はやはり大雅夫婦か。 
十六羅漢図 明治元年 (1868) 33歳 紙本着色 129 X 29 cm。 賛は元人の詩を録する。 大意は、「小乗仏教の四つの聖果たる須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果は、あまねく融和して本性は常住である。天台国清寺の楼閣も、すべて本来虚無である。誰がこの十六羅漢の図を描いて私の眼に提供してくれたのか。羅漢たちは雲中に拍手して旅人の私の愚かさを笑っている」。
賞心十六事図 明治元年 (1868) 33歳 紙本着色 141 X 51 cm。 蘇東坡が自分の気に入ったこと十六条を挙げたものを、「東坡賞心十六事」という。 即ち、清渓浅水に舟をやる、涼雨竹窓に夜話する、暑いとき流れに足を濯う、雨後楼に登って山を見る、柳の堤の散歩、花咲く土手で酒を飲む、川向こうの山寺の鐘を聞く、月下隣りで笙を吹く、早起きして香をたく、午後昼寝をする、酒瓶を開くと詩酒を解する友が来る、客に会うにも不断着のまま、盛りの名花をもらう、飛んで来た鳥がさえずる、客が来て茶を煮る、琴をひくと聞く人が音楽を理解している、の十六条である。
鐵齋蓮月合作帖 明治3年(1870) 35歳  紙本金砂子地墨画 画帖 18 x 51 cm (扇面形)。 この蓮月との合作の画帖は、扇面形の色紙を貼ったもので、一二図よりなる。 蓮月との合作が六点、残りの六点は蓮月の作である。 この画は、画帖第一〇図の杣人であるが、他に、奴、藤娘、簾、灌木、瓢箪の図があり、それぞれに蓮月の歌がついている。 この図の蓮月の歌、かたちこそまかりてみゆれ 山かつの心利鎌ハときすましてん。

海岳草堂図 蘄王閑遊図 杏邨牧童図 層巒積翠図 渓山不尽図 越渓観楓図
海岳草堂図 明治元年 (1968) 33歳 紙本淡彩 141 X 51 cm。 宋の書家・米芾は、絵も上手で米法山水の創始者でもあった。江蘇省鎮江の潤州の風景を愛し、ここに海岳楼を建てて住んだ。図はその景を米法山水の技法で描かれている。賛は米の略伝である。
蘄王閑遊図 明治元年(1868) 33歳 紙本淡彩 141 X 51 cm。 宋の名将・韓世忠は寡勢よく金の大軍と対し国を守ったが、宰相秦桧が金と和親する政策をとるや、これと衝突して辞職、杭州に住むこと10年、西湖に遊び、山水の勝を探り、清涼居士と号した。 死後蘄王に追封された。 図は西湖に遊ぶ景。賛はその略伝。
杏邨牧童図 明治元年(1868) 33歳 絹本着色 129 X 37 cm。 唐の詩人・杜牧の『清明』と題する詩「清明時節雨紛紛。路上の行人魂を断たれんと欲す。借問す酒家は何処にか有る。牧童遥かに指す杏花村」の詩意を描いたもので、その第四句を図上に題している。
層巒積翠図 明治2年(1869) 34歳 紙本淡彩 180 X 54 cm。 新傾向の清画を学んだもの。 賛は清の四大家の一人・王原祁の語「古法にあらず、わが手にあらず、しこうしてまた古法わが手の外にあらず。筆端金剛杵、習気を脱尽するにあり」を引いている。 「絵画は古法を研究するばかりでもいけないし、自己の手腕をふるうだけでもいけない。しかも古法の研究を無視してもいけないし、自己の手腕も閑却してはいけない。要するに筆をもって俗念をはらうところに絵画の妙がある」との意。
渓山不尽図 明治2年(1869) 34歳 紙本淡彩 180 X 54 cm。 賛の大意は「文章は気をもって主となすと古人がいっているが、画でもやはりそうだ。もし、そうでなければ、天真瀟洒なおもむきを得ることはできない」。
越渓観楓図 明治2年(1869) 34歳 紙本着色 137 X 48 cm。 自題に「明治二年十月十四日、江州永源寺の高野楓を見て、帰途、近江八幡の寺村氏のもとに寄り、見物した風景を描き、自作の詩を記した」とある。 詩の大意は「遥かに寒山を眺めると紅葉が赤く、白雲が寺院にかかっている。一本の杖をたずさえて楓の林の中の道を帰ってくると、まるで唐の詩人杜牧の山行詩の中にいるようだ」。

六曲一双 靖献遺言人物像
六曲一双 靖献遺言人物像 明治3年(1870) 35歳 紙本着色 165 X 371 cm。 徳川時代の学者浅見絅斎の著『靖献遺言』に載っている中国忠臣の像。即ち、楚の屈原、漢の諸葛孔明、晋の陶淵明、唐の顔真卿、宋の文天祥、宋の謝枋得、元の劉因、明の方孝孺、である。 像は『三才図会・人物』に載っているもの。 賛は、『靖献遺言』に引いてある各人の詩文。
六曲一双 南朝忠臣遺像
六曲一双 南朝忠臣遺像 明治4年(1871) 36歳 紙本着色 165 X 371 cm。 児島高徳、名和長年、新田義貞、大塔宮護良親王、楠木正成、同正行、万里小路藤房、と不詳の朝臣の像。 

小楠公弁内侍像 楠公像 楠公画像 売柑者図 山林深遠図
小楠公弁内侍像 明治2年(1869) 34歳 紙本着色 114 X 40 cm。 小楠公は楠木正成の長子正行。弁内侍は後深草天皇の宮女。 賛は『大日本史』に引く『吉野拾遺』の文章を引用したもの。大意は「ある日、正行が朝廷に参内する途中、高師直が兵卒をやって内侍を誘拐してくるのに出会った。 正行は兵を斬って内侍を救い、吉野に送り返した。帝はねぎらって内侍を正行に賜わったが、正行は、とても長くは生きられそうにありませんのに、どうして結婚できましょうか、という意味の和歌を詠んでお断りした」
楠公像 明治3年(1870) 35歳 絹本着色 101 X  35 cm.。 賛は正成の歌「久かたの天津帝の安かれと祈るは国のみくまりの神」。 水分(みくまり)神社は河内国金剛山の麓に有る正成の産土神であった。
楠公画像 30歳代 紙本淡彩 125 X 46 cm。 水分神社に祭る後醍醐天皇親筆の楠木正成の画像を模写したもので、図上に頼山陽の「楠河州の墳に謁す」と題する詩を録している。
売柑者図 明治5年(1872) 37歳 紙本着色 149 X 50 cm。 賛は、『続文章軌範』に載っている明の劉基の「売柑者言」。 大意は、「杭州に果物を売る者がいる。柑を貯蔵するのが上手で、夏冬を経て市場に出すと、金のように輝いていて値が十倍になった。その一つを買って割くと、中は乾いて古綿のようであった。そこで、詐欺ではないかとなじると、柑を売る者は笑って言った。貴方は私を詐欺だというが、世の中にはそんな連中が沢山いるではないか。将軍は国を守る人間だが、一体、孫子、呉子を教えることができるか。大冠を着けた文官は一体善政を行うことができるか。泥棒も防げず、人民の苦しみも救えないのに、ただ俸給を受け、贅沢な生活をしている連中は、みんな立派な様子をしているではないか。表面を金や玉のように飾り立てているが、中は古綿ではないか。そんな連中のkとをおいて、どうして私のことを責めるのか」というもので、文武の官の無能を諷刺した文である。
山林深遠図 30歳代 紙本淡彩 137 X 40 cm。 賛は明の李日華の『竹嬾画賸』に載っている句、「古淡自ずから知る山格の在るを。 粛条未だ解せず時を逐うて観ることを」を録す。

桂華図 人物図 紅梅図 竹林幽趣図 山水図
桂華図 明治5年(1872) 37歳 紙本着色 121 X 33 cm。 人物図、紅梅図と三幅対。 賛は「桂華(金木犀)は一万石もの天香を用意して、それをまき散らして人間界の秋八月とする」という意。
人物図 明治5年(1872) 37歳 紙本着色 121 x 33 cm。 紅梅図、桂華図、と三幅対。 人物図を中尊、紅梅図を、右脇、桂華図を左脇に見立てている。 賛、「人、菜根を咬着せば、則ち百事做す可し」は、宋の汪信民のことばで、「人は菜根をかじるような貧困の生活に重文耐えられる人物であってこそ、はじめて人生の多くの事業を成し遂げることができる」の意。
紅梅図 明治5年(1872) 37歳 紙本着色 121 X 33 cm。 人物図、桂華図と三幅対。 
竹林幽趣図 明治7年(1874) 39歳 絹本淡彩 134 X 40 cm。 賛の大意は、「野にいる鶴よりも心のどやかであり、雲よりも、ものぐさである」
山水図 30代 絹本着色 130 x 43 cm。 米法山水の技法による作品。 賛の大意、「うすぼんやりとかすんだ樹木の向こうに水が遠く流れており、さらに山が長く横たわっている」。

江山雪霽図 雪中牡丹図 韓信図 売餅翁図 蔬果図
江山雪霽図 30歳代 紙本淡彩 130 x 42 cm。 自題には「江山雪霽、宋人の詩意を写く」。
雪中牡丹図 30歳代 紙本淡彩 123 X 36 cm。 自題は、「かって明の趙之壁の画冊にこの図があるのを見た。そこで、それに倣ってこの画を描いた」の意。
韓信図 30歳代 紙本淡彩 127 x 56 cm。 賛は「股間、四海を容る。四海もと寛きにあらず。四海もと微物。君が胸中の間にあり」。
売餅翁図 30歳代 紙本淡彩 127 x 56 cm。 「門外遥かに聞く餅を売る簫」という清人の詩句によって描いた作。
蔬果図 30歳代 紙本淡彩 138 x 48 cm。 賛は、「世の中の有様を嘆き憤って、一振りの剣を帯びて草葺の庵を出、漢の張良が、下邳の土橋の上で出会った老人黄市松から授けられたという太公望の兵書を密かに尋ね求めた。 ところが今は落ちぶれて行方をくらまし、恥ずかしいことだが都の門前で野菜や果物を売っている」の意。図柄と深い関係はない。

渓山真楽図 浪合神社図 月瀬図 三津浜魚市図 漁楽図
渓山真楽図 明治8年(1875) 40歳 紙本淡彩 148 x 80 cm 賛は文天祥の詩から取ったもの。 「自ずから渓山、真の楽地あり。従来冨貴は是れ危機なり」。即ち、「冨喜は何時没落するかも知れぬ危険をはらんでいるものであり、真に楽しむべきところは山や谷の自然の中に在る」という意。
浪合神社図 明治8年(1875) 40歳 絹本着色 117 x 38 cm。 浪合神社は、宗良親王の王子尹良親王を祭る社で、長野県伊那郡浪合村の尹良親王の陵に近い小山の中腹に在る。 鉄斎は明治8年六月、その陵に詣で、数日滞在した。 その時の作品。 鉄斎は明治36年、再び同神社を詣でて、尹良親王殉難記念碑を建てた。 賛は自作詩、「遺臣かって此に皇孫を奉ず。一戦して兵は亡ぶ浪合村。 老樹森々として昼なお暗し。慨然涙を揮って蘋蘩を薦む」。 蘋蘩は粗末な供え物。
月瀬図 明治8年(1875) 40歳 紙本淡彩 146 x 78 cm。 月瀬は奈良県東北部を流れる名張川に沿う梅の名所。題詩は自作の「月瀬探梅詩」。 「谷となく山となく梅ならざるは無し。梅花多き処水栄廻す。咲う吾の猶探奇の癖あるを。亦同人を伴いて得々来る」。
三津浜魚市図 明治8年(1875) 40歳 紙本淡彩 180 x 82 cm。 明治8年11月13日、愛媛県三津浜の石崎氏の家に宿泊し、翌朝魚市を見て興を覚え、出立間際に酒席で描いたもの。 賛は明の李日華の句。「山は樵るべく水は漁るべし。大夫、招けども車に登らず」。 「田園生活は楽しいので、政府の高官として招かれても出仕するようなことはしない」の意。
漁楽図 明治9年(1876) 41歳 紙本淡彩 133 x 58 cm。 賛は田能村竹田が自作の『漁樵問答図』に題した詩の一節を引用したものであるが、そそっかしい鉄斎は、原詩の漁夫と樵夫とを取り違えている。 意は、「漁夫は自分の営みとする漁にたとえて問い、樵夫はそれに山のことで答える。二人の一問一答は山水のことばかりである」

野宮雪霽図 売茶翁図 大鳥神社神幸図巻(部分)
野宮雪霽図 40歳代 絖本淡彩 掛軸 23 x 34 cm。 嵯峨の野宮社の雪景色。
売茶翁図 40歳代 紙本着色 掛軸 25 x 19 cm。 売茶翁高遊外が北野の西雲寺で茶を売る景。『売茶翁偈語』に載っているその詩を録する。 「蓮社結成す菅廟の辺。竹炉携え去って清泉を煮る。松風、盌に満ちて先ず主に供す。応に笑うべし生涯半竈の烟」。 大意、「北野天神の近くの西雲寺では西方浄土を欣求する者の結社を作っているが、私は竹の炉を携えて行き、泉の水を煮て茶を売る。松風のような音がして茶が煮えると、まず一杯寺主に供するが、彼は私が茶を売って貧しい生活を送っているのを笑うだろう」。
大鳥神社神幸図巻 明治11年(1878) 43歳 紙本着色 巻子 17 x 336 cm。 鐵齋は官幣大社大鳥神社の宮司として在任中、同社の社殿その他の復興に献身したが、また廃絶していた神事の再興にも熱心であった。この図は、明治11年、同社の祭の神幸の景を描いたもの。

貧窮問答図巻(部分) 扶桑神山図巻(部分)
貧窮問答図巻 40歳代 絖本淡彩 巻子 35 x 222 cm。  図は山上憶良の有名な「貧窮問答歌」によって描いたもの。 歌に詠まれている貧しい農民の暮らしを大和絵の筆法で描き、図の後に、『万葉集』巻五に載せる「貧窮問答歌」と短歌を草書で録している。
扶桑神山図巻 40歳代 紙本淡彩 巻子 19 x 277 cm。 富士の裾野、頂上、龍華寺から眺めた全景を描く。 『万葉集』巻三に載っている高橋連轟麻呂の長歌と、『本朝神社考』中の四の解説文を録す。

大田垣蓮月肖像 山水図 漁樵問答図 通天紅葉図 群盲評古図
大田垣蓮月肖像 明治10年(1877) 42歳 絹本淡彩 102 x 43 cm。 蓮月が没した翌々年、追慕の念をこめて描いたもの。 賛は自作の蓮月尼伝。
山水図 明治11年(1878) 43歳 紙本淡彩 150 x 68 cm。 賛は晋の道士葛洪の『抱朴子外篇・博喩』の一節。 「田園生活に満足している者は、身は貧窮しても心は安らかである。天下国家の政治にあくせくする者は、暮らしは楽でも心は苦しい。だから水瓶を抱えて畑にまく農夫は宰相よりも楽しみが多く、蕨を喜んで喰うもの(伯夷・叔斉のこと)は王侯の御馳走よりうまいと思っている」の意。
漁樵問答図 明治13年(1880) 45歳 紙本淡彩 168 x74 cm。 賛は北宋の邵雍の『漁樵問答』の一節。樵夫と漁夫の問答に託して、己の力以上のことをすると身を損ねる、人は分に応じて事をなすのが賢明である、とといたもの。 鉄斎は、官に就くことを拒んで自適の生涯をおくった邵雍に敬慕の情を抱いていたらしく、たびたびこの題で描いている。
通天紅葉図 明治15年(1882) 47歳 絹本着色 138 X 55 cm。 売茶翁は宝暦年間、京都東山東福寺の境内にかかる通天橋の傍で茶を売っていた。 図はその情景を描いたもので、上に売茶翁の詩三首を録している。 ただし、賛の題の「霜葉は二月の花よりも紅なり」という句は、唐の詩人杜牧の山行詩の第四句。
群盲評古図 明治17年(1884) 49歳 紙本淡彩 182 x 86 cm。 鉄斎は古書を集めることに熱心であったが、いわゆる珍本、稀覯本には関心をもたなかった。骨董についても、癖になることを常に戒めていた。 賛は清の鄭板橋の骨董詩。 大意は、「世人は骨董を好んで人に欺かれ、千金を投じて書画を買って大騒ぎをし、はたは骨肉の間で訴訟を起こし、友人まで疑う。私は太古の物を持っているが、それは『易経』、『書経』、『詩経』から、新しいところでは唐の韓退之や李白、杜甫の詩で、書架に一杯だ。これらの書を読んで徳行を養い、天下を治めれば、淳風を生むことができる。しかし、世人がつまらぬ物を宝としているのは、馬鹿はどうしようもないと言うものだ」。

蘭亭曲水図 売飴翁図 上古祭器図 日本武尊御神像
蘭亭曲水図 明治17年(1884) 49歳 絹本着色 137 x 51 cm。 賛は王羲之の『蘭亭序』全文を録している。
売飴翁図  40歳代 絹本着色 139 x 42 cm。 賛は宋の邵雍の『養心歌』の一節。「粗衣粗食、それがわが家の日常であるが、それに満足しており、はかない生涯をおくることができる」という意。
上古祭器図 40歳代 絹本着色 127 x 49 cm。 賛は明の雲楼大師袾宏の『竹窓二筆』の「古玩入手」の文。大意は、「今の人は、宗廟の酒器とか甕、書画など、大昔のものとか名家からでたもの、また常常欲しいと思っていた物を手に入れると大喜びする。しかし、値段も付けられないほど貴い、仏心という宝がいつ自分の手に入るかということは考えもしない。骨董は、外にあるから、求めても得られない事がある。ところが仏心は我我の内にあるのだから、求めれば手に入れることができる。 ただ求めないだけである」。 世人の骨董癖を戒めたもの。
日本武尊御神像 40歳代 紙本着色 121 x 44 cm。 大鳥神社に宮司として奉職中、同社の祭神日本武尊を描いて奉納したもの。

山沢清娯図 老子出関図 淵明遊興図 茶事秘録 豊公秘話図
山沢清娯図 40歳代 紙本淡彩 134 x 54 cm。 賛は『酔古堂剣掃』からとったもので、「山沢いまだ必ずしも異士にあらず。異士いまだ必ずしも山沢に在らず」。 「優れた人間は、山や沢のような世間離れしたところに隠れ住んでいるものだと、よく言われるが、必ずしもそうではない。 俗世間の中に隠れている優れた人間もあるのだ」という意。
老子出関図 40歳代 紙本淡彩 138 x 64 cm。 老子は周の王室の役人であったが、周の衰えたのをみて隠棲しようとして都を去り、関所を通った。 そのとき、関所の長官・尹喜に請われて上下二編、五千余言の書物を書いて去り、どこで生涯を終えたか分からないといわれる。 賛は『史記』の「老子伝」をかなり節略したもの。
淵明遊興図 40歳代 紙本淡彩 138 x 64 cm。 東晋の詩人・陶淵明は地方の下級官吏から県令になったが、在任八十余日で、わずかな俸給で汲々として上役に屈する事はできない、といって、『帰去来辞』をつくって官をやめ、郷里に帰って田園生活をおくった。 「日に渉りて趣を為す」は『帰去来辞』の中の句。 賛は伝記を記したもの。

茶事秘録 豊公秘話図 40歳代 紙本着色 34 x 45 cm。 『茶事秘録』にみえる秀吉の逸話を描いたもので、賛は、「千利休にひとりの娘がいた。嫁いだが早く夫に死別し、寡婦になった。あるとき、東山で鷹狩をした秀吉が、その女性を見て美しさに驚き、聚楽第に誘ったが女は行かなかった。世間の人は、さすがは利休の娘であると感心した」という意。