大田垣蓮月

 



 寛政三年(1791)~明治八年(1875)幕末京都三本木出身の尼僧。俗名は誠(のぶ)。
 藤堂藩伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎六代良聖(よしきよ)の庶 子。生後十日余りで京都知恩院の寺士・太田垣常右衛門の養女となる。八、九才にして但馬亀岡城に奥勤めとして奉公し、薙刀ほか諸芸を身につけた。 このことが後に才色兼備の女性として成長する基礎を築く元とな る。 若いころは非常な美人で評判であった。
 十七才で大田垣家の養子望古(もちひさ)と結婚。一男二女をもうけたが、いずれも夭折した。夫の放蕩により、同十二年(1815)、離婚し、京都東山の知恩院のそばに住む。文政二年(1819)、二十九歳の時、大田垣家に入家した古肥(ひさとし)と再婚し、一女を得たが、四年後夫は病没。葬儀の後、養父と共に、知恩院大僧正により剃髪式を受け、文政六年(一八二三)蓮月を名乗る。 蓮月は陶器を製して売り、その収入で父を養い、和歌を詠んで、なぐさめた。。二年後、七歳の娘を失い、さらに天保三年(1832)、四十二歳の時、養父を亡くす。
 その後は岡崎・粟田・大原・北白川などを転々とし、急須・茶碗などを焼いて生計を立てた。やがてその名は高まり、自作の和歌を書きつけた彼女の陶器は「蓮月焼」と呼ばれて人気を博するようになる。しかし自身は質素な生活を続け、飢饉の際には三十両を匿名で奉行所に喜捨したり、資財を投じて賀茂川の丸太町に橋を架けたりしたという。
 父が死んでからは全く孤独な生活をおくり、世人が彼女の名を慕って訪れるのをきらい、頻繁に転居した。
 鉄斎とのつながりについてはある記録によれば次のようであったらしい。蓮月がかねてから親交のあった鉄斎の父に転居の相談をしたところ、知り合いの心性寺の住職に話して蓮月を心性寺に住まわせることにした。 ところが心性寺は人里離れた不便な山寺なので、無用心だと、大田垣家の当主が心配するので、鉄斎が父の命令で、蓮月と共に心性寺に住むことになった、という。嘉永三年(1850)蓮月六十才、鐡斎二十歳のころである。
 慶応三年(1867)秋、西賀茂の神光院の茶所に間借りして、境内の清掃と陶器制作に日をおくった。
 
 和歌は上田秋成・香川景樹に学び、小沢蘆庵に私淑したという。穂井田忠友・橘曙覧(あけみ)・野村望東尼(もとに)ら歌人のほか、維新の志士とも交流があった。
 明治元年(1868)『蓮月高畠式部二女和歌集』の著作と、近藤芳樹編の蓮月歌集『海女の刈藻』を残す。明治八年十二月十日夕刻八十五才で静かに没し た。その遺言は、『無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい』としるされていたという。生みの子すべてを失い、よほど鐵斎が可愛 かったのであろう。

  蓮月の死後、鉄斎はその肖像を描き、略伝を書き、その徳を偲んだ。 鉄斎晩年の筆記の中にしばしば蓮月についての思い出を書き記しており、年忌ごとの法要を怠ることがなかった。