姑蘇繁華図

1.解説

姑蘇繁華図』(原名『盛世滋生図』)は清代の宮廷画家徐揚が、乾隆年間における江南・蘇州城内外の風物を描いた縦39cm、全長1241cmの図巻である。

この図巻には、蘇州の山川、城郭、大通りや横町、橋梁、運河、波止場、寺院、廟堂、役所、米倉、民家、店舗などの当時の情景が描かれており、さらに蘇州の船舶、轎輿、学塾、舞台、服飾品、看板などの様子、婚礼、宴会、文人の集まり、科挙の試験、巡幸、演芸、商売、田作、漁業、建築、錬兵、などまで描かれている。 本図巻に描かれている人物は全部で四千六百余人、家屋などの建物は約二千百四十棟余り、各種の橋梁が四十余、各種の客貨船舶及び筏合わせて約三百余隻。 各種の商号看板が三百余りあり、造船、絹織物、綿花問屋や錦織物、染物屋、顔料、漆器、竹細工製品、磁器、煉瓦、石灰、銅器、錫器、鉄器、金銀装飾品、玉器骨董、書画、花木盆栽、扇子、手拭、化粧品、楽器、靴類、帽子、雑貨、書簡紙、文具、図書、食糧、をはじめ約五十余種の商工業を代表しており、蘇州経済の隆盛を物語っている。

中国歴代の社会風俗図巻には『流民図』、『清明上河図』、『南巡図』などがあり、それぞれ時代、技法、風格において異なる特徴を持つが、その精緻、規模において、本『姑蘇繁華図』は稀有のものである。

本図巻はもと清の宮廷の御書房に所蔵されていたが、最後の皇帝溥儀が満州建国時、長春へ持ち出し、敗戦後、民間に流出していたのを、1945年、現在の遼寧省博物館が取得し、所蔵することとなった。

原画題の「盛世滋生」については、徐揚は跋語の中で「國家・・・・・・幅員之廣、生歯之繁、亘古未有」であるからと語っている。 即ち、庶民の人口増加は国家の隆盛の象徴である、として、画題を『盛世滋生図』と付けた。 しかし、字面が難解で意味を掴みにくい、として、1950年代初期から遼寧省博物館はこの図巻を『姑蘇繁華図』と命名したもの。 

2.画家

本画巻の画家・徐揚は字を雲亭、蘇州呉県の出身であった。 もとは監生であって、山水や梅花を描くのに優れていた。 乾隆16年(1751)、南行巡幸した乾隆皇帝が蘇州を訪れた際、徐揚は自分の画作を乾隆帝に献上し、これをもって「充畫院供奉」に任命された。 その後、乾隆18年(1753)、「舉人」を賜わり、内閣中書を授与された。 乾隆24年(1759)、『盛世滋生図』を描きあげて、乾隆帝に献上した。

3.作品

3.1 作品全貌
本画巻の構成について、徐揚はその跋で次のように記している。 
「其圖自霊厳山起、由木瀆鎮東行、過横山、渡石湖、歴上方山。従太湖北岸、介獅、和両山間入姑蘇城、自葑、盤、胥三門出閶門外、轉山塘橋、至虎丘山止。」 
さらにこれにつづく文より、この絵に描かれている沿線一帯は当時蘇州において最も繁華な処であり、風景も美しく、最も魅力のある場所であったらしい。 この一帯は、乾隆帝が江南を巡幸する折には、必ず訪れる処であった。(乾隆帝は六度江南巡幸をしており、その都度蘇州に立ち寄っている)


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3.2 作品詳細
作品をその情景より十二段にわけて、詳述する。 各画像をクリックすると拡大します。
3.2.1 第一段 霊巌山前
蘇州城の西三十里にある著名な景勝地・霊巌山の前にある小さな村の情景である。
画面は朝霧が帯のようにたなびき、田や樹を覆い、その下で四、五人の農夫が田畑で働いている情景より始まる。 右下隅の近景には小さな廟があり、二人の僧が何かを指差しながら話をしている。 廟の前に旗竿が一対そびえ立ち、翻る旗幟には「恭祝萬壽」と書かれている。 (皇帝の福を祝っている) 廟の後方に村の小さな広場があり、駕籠に乗って村の出口に向かう人、荷を担ぐ人の往来などでごったがえしている。
小さな二軒の商店の軒先には「雑貨」「浦城建煙」の看板があり、売られている煙草が福建浦城の産であることを物語っている。 居酒屋の看板の下には数人の人たちが食卓を囲み、閑談している。
目を左に移すと、近景に村塾が描かれ、塾の教師がまだ幼い学生に授業をしている。 塀を隔てた向こうでは、家を造っている最中である。 更に左に向かうと、糸を紡ぐ作業場がある。 中庭に置かれた糸紡ぎの枠には長い白色の縦糸が張ってある。 そのそばで子供たちが遊んでいる。 庭のもう一方には豚に餌を与える女が描かれている。 赤子を抱いた婦人が人と世間話をしている。
中庭の潜り門は小さな庭に通じており、六角形の東屋と老木とが映え合って、人々の庭園趣味がうかがえる。
遠景には、煙波縹渺とした太湖や、湖中に聳える胥山がある。 湖岸の漁村では漁民が網を担いで歩いている。

3.2.2 第二段 山遊雅集
霊巌山を描いている。 山は木瀆鎮の西にあり、高さは82m。 山の上にある石は変わった形状をなし、中でも珍しいのは霊芝に似た形をした石で、それが霊巌山と呼ばれる由来である。 ここには館娃宮、琴台など多くの古跡があり、しばしば詩人の題詠の中にみられる。 
図巻では、遊覧客の登山の情景を描くに相応しい、この山の一角のみをとりあげて描いている。 十数人の遊覧客が階段を登り、輿に乗った人もいる。 僧侶が山から下りてくる。 これは高処に寺院があるからだろう。
山の右側の竹薮の中に小さな高殿が見える。 隠者の住いか。 中では紙を広げて字を書いているのがみえる。 山すその平坦な山頂には、三人の文人が茣蓙をひき、紙と墨を並べている。 一人は今字を書こうとし、一人は盃を持ち酒を飲もうとしている。 もう一人はこれを眺めている。 山に遊ぶ優雅な集まりの図である。
三人の従者が弁当の番をしながら、傍に控え、さらに少し遠くに三台の輿と担ぎ手が休みみながら、四方山話に耽っている。

3.2.3 第三段 木瀆鎮と状元船

霊巌山より東に向かうと、著名な木瀆鎮にはいる。 呉王が姑蘇台を築くため、ここに木を積み水路を満たしたことから木瀆と呼ばれるようになったと伝えられる。 木瀆は地勢がひらけ、家屋が立ち並び、大小の船が行き来する水郷の町である。
本段は、鎮の西側である。 段の中心は高々と聳える眼鏡橋と今まさにくぐり抜けようとしている大型の宮船ー状元船である。 橋の左側に「状元及第」「翰林院」などと書かれた十組ほどの高架燈籠を捧げ持つ従人が乗った一艘の引船が、後方には豪華な船楼があり、真紅の窓が並んだ大官船がつづいている。 甲板には赤い帷に囲まれた彩轎が置かれ、帆柱は既に降ろし、橋をくぐり抜ける準備が整っている。右脇には楽隊を乗せた小船が1艘描かれている。 おそらく状元に合格し、翰林院に職を受けて、故郷にもどる船隊であろう。
 (状元とは、科挙(官吏登用試験)の殿試(天子自らが行うもの)に首席で及第した者、を云う)
河をはさむ両岸が、木瀆の「中市」で、店舗や居酒屋が軒を並べる。看板には、菓子、食品、宴会料理、軽食、綿、絹織物、雑貨、などの字がみえる。 この一帯の川には、帆船、篷船、楼船、など多数の船舶とそれを操る種々の船乗りを描いている。盛り場の後ろには庵院や仏塔、静寂な佇まいの東屋などがみえる。

3.2.4 第四段 遂初園
本段は画面下方にある三孔橋(木瀆鎮東にある東安橋)よりはじまる。 橋の上には驢馬に乗った老人が、後につづく輿を振り返って見ている。 ここから木瀆鎮の東に入り石湖へと至る。 まだ町中ではあるが、西側のような賑やかさはない。 
東安橋を渡ると、一並びの家屋を隔てて、幾層もの中庭のある大邸宅が現れる。 蘇州名園の一つ清代初期に呉銓が築いた遂初園である。奇樹異石が配置され、亭、台、楼、閣は雅致に溢れる。 中庭には巻棚式屋根の高堂では食器が並べられた机に向かった主人と客が座り、その前で芝居が行われようとしている。 主人の後ろに赤色の屏風が立てられ、 主人の誕生祝いの宴席のようである。
遂初園の上には水路を隔て、塀に囲まれた穀物の倉がある。 収穫の時には食糧を徴収し、貯蔵し、凶作のときの貸付に備えていた。 塀に貼られた四枚の紙には「社倉重地」「禁止騒擾」「加緊看守」「小心火燭」などと書かれている。 
遂初園をさらに左へ行くと、四つの中庭がある広大な廟がある。 山門の門額に「福國佑民」と書かれ、門内には線香の台が置かれている。 乾隆帝期の法雲庵といわれている。

3.2.5 石湖の風光
霞たなびく石湖地区へ入る。 石湖は蘇州の盤門の西南十里にある。 周囲は数十里あり、茶磨峰、上方山、呉山の諸峰が湖と映えあっている。 北は越来渓へと連なり、横塘へと続く。 法雲山の後ろに遠く眺められる一帯の水郷が横塘である。 村の前には三つのアーチ型の「横塘橋」がある。 橋の上には東屋があることから、俗に亭子橋と称している。 
左に行くと、あたり一面の農地をへて、高々と聳える「越来渓橋」に至る。 橋の手前には数隻の遊覧船が接岸している。 越来渓橋は水の中に伸びる長堤に繋がり、長堤の終端は九つの橋孔をもつ「行春橋」に繋がる。 行春橋を過ぎると、山寄りに建てられた范公祠(范成大の石湖草堂の旧跡)がある。 湖の中に四角い形状の水榭式の建物:湖心亭がみえる。 さらに遠くを見ると、茫洋とした水面がひろがり、漁船が十数隻うかんでいる。 
近景の越来渓橋の畔には鍛冶屋があり、職人が鉄を鍛えている。 河端の柳の下には漁網が乾してある。そばには四隻の漁船が繋留されており、漁夫たちが酒を飲んでいる。 また、近くの漁船で子供をあやす女と横笛を吹く男の家族が描かれている。  

3.2.6 獅、何二山と高台の芝居
左方向に二つの山が現れる。 獅山と何山。 獅山は、獅子が頭をあげて、後ろに振り返っているようにみえる。 獅山の北にあるのが何山で、南梁の隠士:何求、何点が ここに葬られたことから何山といわれた。
獅山の近景に高舞台で行われている芝居が描かれている。 演じられている劇は、花鼓芸人の物語「鳳陽花鼓」である。 舞台の前には「恭謝皇恩」と書いた旗が掲げられている。 舞台の前方左側に女客のための茣蓙を掛けた小屋が特設されている。
漁業や農業の「生逢盛世」を現すため、何山の左側の水を隔てた空き地において、老人に対する優待及び貧民救済の場面が描かれている。 大きな輿に乗っている役人、立って何か説いているような役人、腰をかがめ、お礼の意を表わしている老人たち。

3.2.7 姑蘇城の西南の一角
蘇州城の盤門、胥門の門外を流れる運河の一帯からはじまる。 盤門は城の西南の隅にあり、胥門は城の西側にある二門のうちの南の門にあたる。 門外は京杭(北京ー杭州)大運河である。
盤門の門外には橋孔を三つもつ有名な呉服門がみえる。 また、近景にはアーチ型の懐胥橋があり、胥江はこの橋の下を流れ、大運河に合流する。 懐胥橋の下、胥江に沿った街道が棗市街である。 街道には水運業、米穀業、綿、布などの雑貨を扱う業者、銭荘(金融業)、煙草販売業、宿屋などが見える。 橋の袂の歌舞楼台では女が舞い踊っている。
左側に描かれた胥門の外は船着場になっており、様々な船がひしめいている。 運河の中心に赤旗を立て、赤地に「欽命」「部堂」と書かれた看板を斜めに立てた官船が描かれている。 船主は六部首脳あるいは督撫(地方長官)の大役人である。 船着場にはもう一隻の官船が停泊している。 豪華な輿から出てくる主人を待っているようだ。 見送りの役人たちが取り巻いている。  この手前ではやはり大きな官船が通り過ぎようとしている。

3.2.8 万年橋と府衙試験場
胥門を過ぎると、情景は蘇州城の城壁にそって南から北へと進んでいく。 画中の城壁の占める位置は次第に画面の下の方へ移っていき、逐次城内へと転じていく。 
場外の中心に三つの橋孔を持つ大規模な橋、万年橋がある。橋頭には寄付者の名を記した碑亭がある。 万年橋は門外にある盛り場であり、橋の上には露店あり、絵、骨董などを売る商売人が多く描かれている。
一方、城内には役所が多く描かれている。 万年橋と相対する城内には「江蘇按察院司」の旗竿の立った建物は、司法を管理する役所である。 城内を縦に流れる小運河の左側には、広大な蘇州府役所がある。 いま、この中では、丁度“府試”(科挙の府レベル試験)が行われている最中である。 「天開文運」の横幕が架かった大門の右側には、試験用具を売る小店が軒を並べている。 大門の中は厳重に警戒され、裏庭の東にある長い棟は試験場になっており、受験生が整然と並んで答案を作成している。 中庭の突き当たりは正庁で正面に座っているのが首席試験官であろう。

3.2.9 藩台の役所と婚礼の情景
蘇州府役所を城壁に沿ってさらに北へ、閶門以南へ至るまでの城内の光景が描かれている。
右上方にある小さな運河にかかる簡単な板橋が状元橋で、これを渡ったところが県の孔子廟である。 門前には下乗の石碑が二本立っており、東西にある牌坊には「興賢」「育才」の額が掛けられている。 中庭のつきあたりの高台に立っているのが大成殿である。 
手前の「江蘇總藩」と書かれた二本の旗竿が立てられているのが藩台の役所である。 藩台は布政使の俗称で、清代には省の財政と人事を管理する高級官吏である。 儀杖侍従が門外に詰め掛けている。 多分藩司が出かけるところなのだろう。 ここは明代の王鍪の怡老園であったところなので、石や木の景色が優れ、優雅な東屋が描かれている。  
藩台の役所からさらに北へいくと、高くかかるアーチ型橋梁 黄鸜坊橋がある。 橋から手前にくると、北側の大きな庭の中では、婚礼が行われている。 門の前には輿が五台停めてあり、お祝いの提灯を持つ人、お祝いの贈り物をする人が、中庭には灯籠が吊り下げられ、主人が来客を迎えている。 大堂の正面には老人が座り、その前で花婿、花嫁が天地に拝する礼をしている。 

3.2.10 閶門
閶門は蘇州の西の城壁の北側の門で、門の内外はともに商業の盛んな地域である。 閶門は蘇州で最も早期に造られた城門で、古代の詩人が詠じた詩も多くある。 
城門の外を取り囲んでいる外城郭は三つあり、中門は西向きで、門の外は大運河を跨ぐ虹橋につながり、主要な陸路の通行路となっている。 南門は南向きで、閶門南波止場へつながる。 北門は水門で西に向いており、閶門の北波止場につづく。 虹橋の両側、南波止場から北波止場まで種々の船や筏が犇めいており、胥門の大波止場に劣らない。 この地区の繁栄は門内にある通りの商店の構えや看板からわかる。 商店はすべて二階建てである。 門外の城壁に沿った狭い土地にも三十あまりの店が張り付くように密集している。 虹橋の上さえも小屋を掛けて店を開いている。 南門外では一群の芸人が見世物をやっている。
城内のやや遠い所に八角九層の塔が高々とそそり立っている。 蘇州で最も高い報恩寺塔(南宋初年建造。76m。)である。 さらに北へいくと、北城壁があり、城門:斉門がある。 門内には錬兵場があり、まさに演習が行われている。 中央では騎馬が疾走しており、両側に兵士がぎっしり立っている。

3.2.11 山塘街
閶門を過ぎたところに「山塘橋」と書かれたアーチ型の橋がある。 その左側が山塘街である。 盛り場としての役割も失っていないが、郊外に位置しているので、商店も多くは田舎の味わいを帯びている。 看板から見ると、売り物の多くは食糧、油、酒、味噌、塩づけ肉、雑貨、煉瓦、石灰などである。 盆栽、精巧竹細工、などの特産品を扱う店もある。 川には遊覧船が往来している。 料亭も数軒灯籠をさげている。
中央にあるアーチ型橋は「普済橋」である。

3.2.12 虎丘山
アーチ型橋:斟酌橋を過ぎると、虎丘山へ着く。 虎丘山は蘇州城の西北七里の地に位置し、 標高約30m余りの小高い丘である。 春秋のころ、呉王夫差は父をここに葬った。埋葬して三日後に、白虎がその上に蹲っていたので、虎丘の名が付けられたと伝えられる。 面積は二百畝余り(一畝は約6.7アール)に過ぎないが、呉王夫差の父:闔閭の墓の上にあると伝えられる剣池、をはじめ、千人石、試剣石、虎跑泉などの名所旧跡がある。 
虎丘には唐代からつづく虎阜禅寺があり、塀が全山をすっぽり取り囲み、山門が山の麓にある。 山頂にある虎丘塔、即ち雲巌寺塔は五代の呉越末期に建造された八角七層の塔で、高さ47mで、独自の風格をもつ江南最古のものである。