Gallery - IX  曽我蕭白の世界   



蕭白は、江戸時代中期の、円山応挙、与謝蕪村、池大雅、等と同時代の画家である。 一時期 京画壇を代表する画家二十人の名士録に、末尾であるが載ったことがあるが、奇矯の画家として、画界での評判は芳しくなく、あまり高く評価されなかったようだ。 以降江戸時代においてほとんど論ぜられず、明治時代に一人の画家・桃沢如水が蕭白についてその履歴を調べ、雑誌「日本美術」に作品や逸話を載せたことがあるが、明治、大正、昭和を通じて美術史上でも無視された画家であった。 

この画家の再発見と言われるのが、昭和44年(1970)に発刊された辻惟雄氏の名著「奇想の系譜」である。 ここで辻氏は「奇想」とは「エキセントリックの度合いの多少にかかわらず、因襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想」ととらえ、蕭白ほか若冲ら六人を紹介した。 それ以降、少なからぬ美術評論家、愛好家が注目しはじめ、近くは、京都国立博物館のキュレーター狩野博幸氏が長年の研究成果を踏まえて開催した05年4-5月の京都国立博物館の特別展覧会「曽我蕭白」となった。このとき狩野氏がつけたキャッチ・コピー『円山応挙が、なんぼのもんじゃ!』で特に注目を集めた。

以下に、辻惟雄氏、狩野博幸氏の研究論文、などを踏まえて略伝、人物像を略記し、作品を掲載する。

なお、蕭白の作品は山水画、花鳥画、人物画、にわたっているが、いずれも特異な表現描写、彩色が特徴であり、また、屏風絵、襖絵、など 大画面のものが多いため、PC上で再現するのは極めて難しいが、挑戦してみた。

1.略伝

 (よく分かっていない。 明治の画家・桃沢如水の調査、及び、辻惟雄氏、狩野博幸氏の研究結果に基ずき記述する)

京都の紺屋・丹波屋吉右衛門の次男として享保15年(1730)に生まれる。十一歳のとき兄が江戸で没し、十四歳のとき父が亡くなる。 つづいて、十七歳のとき母を亡くす。 天涯孤独の身の上になった。 この前後から三十歳ぐらいまでどこでどうしていたか不明。

二十九歳の頃、2年間ほど伊勢地方に旅に出て、曽我蕭白の名で三重県の西来寺、浄光寺で襖絵、などを描く。(何れも消失)  
「柳下鬼女図屏風」
三十歳のとき、「久米仙人図屏風」、「寒山拾得図屏風」、「李白酔臥図屏風」、右図の「柳下鬼女図屏風」、を、また三十一歳のとき、「林和靖図屏風」を描く。
「寒山拾得図」の『拾得』
三十二歳のとき、京都・興聖寺にあるに左図の「寒山拾得図」を描いている。

三十三歳の頃、播州を遊歴したらしい。 高砂の加茂神社に「神馬図絵馬」を描く。 現在ボストン美術館蔵になる巨大としか言いようのない雲竜図(襖八面)を兵庫県の寺で描いた。 また「富士・三保松原図屏風」「楼閣山水図屏風」を描く。
「雪山童子図」
「後醍醐帝笠置潜逃図」


三十五歳のころ、伊勢地方へ二度目の旅に出る。 斎宮永島家で「瀟湘八景図」「松に鷹図」「竹林七賢図襖」「牧牛図」「波濤群鶴図襖」を、朝田寺で「唐獅子図」、継松寺であの異様な右図の「雪山童子図」を描く。
「美人図」
さらに、蕭白作品中、最も異様な下図の「群仙図屏風」を、また「鷹図」、「宇治川先陣争図屏風」、及び薄気味が悪いとしか言いようのない右下図の「後醍醐帝笠置潜逃図」を描く。
「群仙図屏風」の右隻


三十八歳、このころ、播州に滞在。 「梅に鶏図襖」を描く。
「蘭亭曲水図」

四十六歳。 この年刊行の『平安人物志』に応挙、若冲、池大雅、蕪村とともに二十人中十五番目載る。 居所は上京となっている。
「石橋」


四十八歳、左の「蘭亭曲水図」を描く。 

五十歳、右の「石橋」を描く。



天明元年(1781)、五十二歳で没す。 京都府上京区の興聖寺に墓碑がある。

2.人物像
蕭白はある時、冗談まじりに「画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」と語ったという。 この言葉は、応挙のいわゆる〈写実主義〉に含まれる無内容な側面を指摘したものとして傾聴に価するのだが、京画壇を風靡した応挙の名声に対する嫉妬が含まれているようだ。
(京都国立博物館の特別展覧会「曽我蕭白」で狩野博幸氏がつくったキャッチ・コピーは上記の言葉を踏まえてつくられたらしい。)

鷹図
左図の「鷹図」の款記に『明太祖皇帝十四世玄孫蛇足軒 曽我左近次郎暉雄入道蕭白画』と書かれている。 これによれば京都の町屋出身の蕭白は、中国明の太祖の血を引く者であると云うことになり、誇大妄想というも愚かな大言壮語である。
また、室町時代に朝鮮から来朝し越前朝倉氏の家臣曽我氏を継いだ秀文を祖とする曾我派を名乗り、かつ秀文の子・蛇足の十世ととも名乗っている。 
いずれも、蕭白の家柄や肩書き万能のご時世に対する彼一流の逆説的皮肉を読み取るべきであろう。


桃沢如水の蕭白の事跡を記述した雑誌「日本美術」(明治39年)にある逸話。 三話。

“松阪の近辺の村落に豪農があった。其人が他出した帰り途に金剛坂の下まで来ると一人の青年が路傍に打倒れて居て、其頭のあたりに頭陀袋と筆らしいものが放り出してある。 其人は親切に呼び起こして聞いてみると、己れは画家だが空腹のために最早歩行も出来なくなったから寝て居るのだと聞いては捨てヽ置くわけにも行かず、親切に家に連れ帰った。 之れ蕭白の伊勢に足を止めて画を描いた初めの様である。”

“黒田村といふは津市を去ること二里許の村落である。 此処に浄光寺といふ寺があって中々大寺である。 此処に蕭白が来て凡一年許も居た。 夏の頃で蕭白は毎日本堂へ行っては昼寝をして居た。 或日の事朝食もせず本堂に居る様である。 又朝から寝ているのかしらむ と既に例になって居るから別に不思議にもおもはぬが、昼になっても出て来ない夜になっても来ないから本堂に行って見たらば、蕭白は居ないで其辺に梯子がある。能く見ると内陣の左右の壁が真中に柱があって九尺宛の張壁になって居る、其外に向かった処へ十六羅漢が描いてあり、欄間には葡萄が描いてあって当人は影も形もない。 蕭白は画を描き終わると其まヽ何処かへ去ったのであらふ。”

“久居侯の命で金屏風を描くことヽなった蕭白は、久居侯の食客となって毎日酒をのみご馳走を食っては其まヽ寝てしまったり何かする。 家老は今日は描くかしらんと思っては御機嫌をとって又酒をすすめ御馳走するが又前の通りで描きそうにもない。 暫く我慢はして居たがあまり甚だしいから或日催促をした。 夫では描くといふことになって、沢山の墨をすらせ夫を擂鉢に入れ、其内へ紺青群青金泥など貴い絵具を凡そ十五両程買ふたのを其擂鉢の墨に交ぜて棕櫚箒でかきたてた。 家老や家来は何を描くかと見ていると、金屏風一双を併べて其処へひろげさせ、棕櫚箒を把って彎曲した一線を描いて其余勢を以って家老の顔を塗ったまま飄然と去った。 家老は此侮辱を非常に怒ったが已に去ってしまった後で致方がない。 其内に墨の乾いた処に何やら意味ありげに思われる。 全く乾いて見たら七色燦然たる虹霓が現れた。”

3.作品
3.1 山水画  24点
3.2 花鳥画  49点
3.3 人物画  86点
159点