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1.0 幼少年期 (1760〜1778 かぞえ 1〜19歳)
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出生は1760年9月23日。出生地は現在の東京都墨田区亀沢。幼名を時太郎、のち鉄蔵と改名。家系は川村氏の子として生まれ、のちに幕府御用鏡師で叔父に当たる中島伊勢の養子になったが、のちに実子にその職を譲って川村家に戻ったと伝えられる。
幼年期の動静は不明だが、後年の北斎の作品「富嶽百景」の跋文には、「己六才より物の形状を写すの癖ありて」と書かれている。年を経た十六才頃から19才ごろまで木版印刷の版木の文字彫りを業としていたと言われる。
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1.1 春朗期(習作の時代 1779〜1794 20〜35歳)
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19才の時、当時役者似顔絵で一世を風靡した勝川春章に入門。翌年勝川春朗の名で細版役者絵三枚を処女作として発表。当初は師風の模倣的だが、黄表紙の挿画に進出し、翌々年には洒落本や、咄本にも手を伸ばしている。間もなく役者絵のみならず、美人画など春朗独自の特徴を示し始める。 30才前後5年間は春朗期のなかで最も充実した年代といわれ、作品量が急激に増加し、春朗の作画と判別できるものになり、作品内容についても、従来からの役者絵、美人画などはもちろん、子供絵、武者絵、名所絵、玩具絵、宗教画、相撲絵や、さらには浮絵(西洋から入った透視画法を用いた作品)による名所風俗絵、絵暦など、あらゆる題材や分野に挑戦している。黄表紙の挿画も30才に入ると連年発表しつづ、山東京伝など著名な戯作者との提携も見られる。 |
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 34才のとき師春章が他界してから、役者絵や黄表紙は勝川様式で作画されているが、絵暦やこの時期に進出した分野、たとえば摺物(私家版の版画で、狂歌の発表、名披露目、演劇の案内などとして作成されたもの)では、今までにない新画風を出しはじめている。 |
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1.2 宗理期(宗理様式の展開 1794〜1804 35〜45歳)
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 34〜35才のころ、勝川派から離脱し、光琳風の肉筆画を描く江戸琳派の一門俵屋宗理を襲名する。なぜ勝川派を離脱したかは、春章在世中に他派の画風を学んだため破門になったと言う説、兄弟子との不和によって破門されたと言う説、などある。
襲名後の宗理は、それまでとは大きく作画傾向を異にしている。錦絵は一点もなく、黄表紙もない。それに代わって狂歌や俳諧の摺物あるいは絵暦の分野に活躍し、また狂歌絵本にも大いに筆を揮った。北尾重政、喜多川歌麿など人気絵師たちと肩を並べて挿画を寄せるなど高い評価を得ていたことが窺える。
一方、春朗時代にはほとんどなかった肉筆画がにわかに数を増し、勝川様式から離れ、いわゆる「宗理風」と呼ばれる独自の画様式を見せ始める。
宗理襲名後4年で宗理号を門人の宗二に譲り、北斎辰政に改名、さらに画狂人北斎と称している。その主だった作画活動は、独立前と変わらず摺物や狂歌絵本、あるいは肉筆画に主力が置かれたが、再び錦絵の制作が行われるようになる。錦絵は春朗時代の主力であった役者絵はなく、女性を主題に描き込んだ風俗図もっとも多い。浮絵技法を用いた作品、名所絵、景観図、などある。
肉筆画は年を追うごとに数を増してゆくが、墨線のみで表現された作品、着彩作品、題材も漢画、美人画、花鳥画、と幅広い。美人画では、流れるようにスラリと伸びたプロポーションで瓜実顔の楚々とした女性を描き、「宗理美人」と称せられる。
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1.3 北斎期(読本挿画への傾注 1804〜1811 45〜52歳)
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北斎が妙見菩薩(北斗七星を神格化した菩薩)の信仰者であったことから、北斗星、即ち北辰星に因って、北斎辰政、北斎を画号にしたらしい
摺物や狂歌絵本などで人気を博した北斎は、45才になると次第に当時流行し始めていた長編小説の読本挿画に力を注ぐようになる。46才以降、途切れることなく連年十種前後の作品を出し始める。北斎が生涯にわたって描き続けた読本挿画はゆうに千図を越えると云われる。
同時に、最晩年と並んで肉筆画も多作な時代で、宗理様式を脱した美人画、広範な描法を駆使した風景画、武者絵を描いている。
この時代、錦絵の作品は意外と寡作であったが、数種の洋風風景版画や鳥羽絵、武者絵、東海道の揃物など、幅広い題材の作品を発表している
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1.4 戴斗期(多彩な絵手本の時代 1812〜1819 53〜60歳)
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画号「戴斗」は北斎が守護星としていた『戴北斗(北斗七星)』を縮めたもの。
50才を過ぎた頃から次第に読本挿画から遠ざかっていく。それに代わり絵手本の出版に情熱を注ぐようになる。絵手本への傾注の背景は1)門人の増加に伴いそのつど手本を描き与える不便さ解消。2)全国に散在する多くの私淑者にも、画風を普及させる意図。3)挿画の一部を下絵として利用している職人たちのための図案集の提供。等であったといわれる。
すでに50才頃から数種の絵手本を出していたが、53才のとき名古屋の門人宅に逗留し、下絵三百余を描き、これを「北斎漫画」として当初は一冊本として上梓した。この出版以降、絵手本制作は本格化し、最晩年まで二十数種の絵手本を出版する。「北斎漫画」も60才までに10巻、晩年までに更に3巻、そして没後2巻が出版され、15巻となった。
 58才の頃再度名古屋に行く。記録によると、滞在中は版元の注文に応じ、江戸の生活とさほど変わらぬ作画三昧の日々を送っていたらしい。滞在中、寺院境内で、百二十畳大の達磨半身像を描くパフォーマンスを行っている。(45才のとき、護国寺で同様のパフォーマンスを行っている)このあと、大阪、伊勢、紀州、吉野へ旅行したらしい。
この年代は絵手本に限らず、幅広い絵本、挿絵本の分野に活躍したが、錦絵は寡作である。一方で、色紙版の摺物シリーズ、動植物を描いた肉筆画で佳作を残している。また、以前にも描いたらしいが、この時期に春画の名品を多く残している。 |
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1.5 為一期(錦絵の時代 1820〜1833 61〜74歳)
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 1820年 辰年、北斎が還暦を迎えたとき、画号を「為一」(いいつ)を名乗り始める。 「初めからもう一度」の意味であろう。 北斎が基本に立ち返ろうとする意思表示とうかがえる。
「為一」を名乗ってから10年後の4年間程が、錦絵に傾注した時代で、かの「富嶽三十六景」を含む風景画、江戸及び地方の名所を描いた名所絵、和漢の故事古典を題材にした古典画、化物絵などの揃物をはじめ、花鳥画、鳥瞰図、武者絵、戯画、玩具絵、ほかに雑画や団扇絵など広範囲に及んでいる。
しかし、この4年間は私的にはあまりよい時代でなかったようだ。 2−(3)にも書くが、孫が放蕩非行にはしり、その悪事の尻拭いに走り回らざろう得なくなり、またあちこちに借金をし、貧窮と不安な生活を送っていたことが、種々の書簡から窺える。
なお、この時代は錦絵に力が注がれたためか、肉筆画、版本とも寡作である。 |
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1.6 画狂老人卍期(最晩年 1834〜1849 75〜90歳)
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1834年、壮年期に用いた「画狂老人」と川柳の号としていた「卍」を合わせて画号とした。
「富嶽百景」を出版する。また、少ないが絵手本、古典画錦絵を出す。八十歳を過ぎる頃からは、若干の作品を除き、錦絵、版画の世界から離れ、肉筆画制作に傾注していく。 描くテーマも浮世絵師が本来手がけていた時様風俗ではなく、和漢の故事古典や動植物、あるいは宗教画などを題材にし、独自の画境を追い求めていく。
また、85才のころ二度ほど信州小布施の弟子高山鴻山(造酒業を営む)宅に行き滞在し、多くの肉筆画と、祭屋台の天井画4点、岩松院の天井画の下絵を残している。 (当時の交通手段を考えると、この歳での信州旅行は想像にあまりある。)

執念にも似た思いで一作一作を制作したらしく、80才からは必ずといっていいほど作画した年齢を画中に書き込んでいる。 |
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(1) 「富嶽百景」(75才時刊行)の自跋に以下の文章がある。 |
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| “己六才より物の形状を写の癖ありて五十才の頃よりしばしば画図を顕すといえども七十才前に描くところは実に取るに足るものなし。七十三才にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり。故に八十六才にしてはますます進み、九十才にして尚その奥意を極め、百才にして正に神妙ならんか。百有十才にしては一点一格にして生けるが如くならん。願わくは長寿の君子、余が言の妄ならざるを見たもふべし。” |
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北斎の作画に対する精神を現わす欠くことのできない重要な一文である。 また、嘉永二年4月18日90歳で息をひきとるが、その死の直前の様子が以下のように記されている。 |
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| “翁死に臨み大息し、天我をして十年の命を長がらわしめば、といい、暫くして更に言いて曰く、天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す。” |
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ちなみに辞世の句は |
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である。 |
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(2) |
下の左図は83歳の時の飾り気のない好々爺ぶりを描く自画像、右図は死後に渓斎英泉が描いた北斎像である。
実際は、両図を足して二で割ったあたりが実像に近いのだろう。
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(3) |
北斎は生涯で一度だけ49歳の時新宅を構えるが、一年程で借家住いにかえり、生涯で長屋などの借家に93回転居したと記されている。家には茶を入れる土瓶と茶碗が二、三、あるのみで、食事は近所の家に頼んだり、出前を取ったりで、皿や椀などの食器すら満足に備えていなかった。身なりにも構わず、粗末な木綿の着物を着たきり雀だったと云う。
そのような簡素な暮らし向きでありながら、老年の北斎はいつも困窮していた。放蕩者の孫に苦しめられ、借金取りに追い捲られていたらしい。
北斎は妻を二度娶り、先妻とは一男二女、後妻とは一男一女をもうけた。前述の放蕩の孫は、長女の子である。三女はお栄といい、絵師に嫁したが離縁となり、晩年の北斎と生活を共にし、応為という名で画家としても活躍した。右図はその作品の一つである。お栄は父に似て食事をしても食器を洗わずそのまま打ち捨ててかえりみない女だったと云う。
左図は北斎最晩年の借家の様子を弟子の二代目為一が描いたもので、老年を迎えた出戻り娘のお栄とともに住む部屋が描かれている。お栄は火鉢の傍で煙管に身体を預けて、部屋の反対側にいる父親を眺めている。北斎の顔は為一の尊敬の気持ちの表れであろう半分柱の陰に隠れているが、北斎は炬燵蒲団から首だけ出して、目前の紙に集中し、手を忙しく動かしている。北斎の右側には硯と絵具の小皿が置かれている。北斎は明らかに衰弱しているが、残りの力すべて蒲団の裾からのぞかせた手に注ぎ込んでいるように見える。
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(4) |
83才から2年間ほど日課に獅子、ないしは獅子舞の絵を描き始める。長寿を願ってのこととする見解と、放蕩の孫払いとして描いたという二説があるが、孫払いのための日課だったようだ。一日に一頭を描くことが目標だったらしく、月日が画中に記されている。いずれも小紙に描かれた墨絵ではあるが、描いては捨てていたという作品のため、屈託のない力強い筆使いや自由自在な発想の面白さが発揮されている。描き捨てたものだが、一部が残っている。 |
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(5) |
十一代将軍家斉は絵好き将軍として有名だが、当時江戸で評判の高い文人画家谷文晁と北斎の二人を鷹狩りの帰途立ち寄った浅草伝法院に召し出した。武士であった谷文晁が先に描いた後、北斎が将軍の前にあらわれ、落ち着いて畏れる気配もなく、まず花鳥画や山水画を披露した。その後に、貼り継いだ紙を広げ、刷毛に藍色の絵具をつけて長く引いた。そして、用意しておいた鶏を籠から取り出し、その足の裏に朱肉で赤い色を付けて紙の上に放ち、足跡のしるしを赤く付けさせた。そして「紅葉で名高い龍田川の風景でございます」と申し上げ、拝礼して下がったと云うのである。傍らに控えていた谷文晁は、はらはらと気をもんで、手に汗を握ったと言う。嘘のような話だが、文晁自身の語る実話として残っている。
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作品群を年代順に分野ごとに展示する。
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3.1 |
春朗期(習作の時代 1779〜1794 20〜35歳) |
48点 |
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3.2 |
宗理期(宗理様式の展開 1794〜1804 35〜45歳) |
166点 |
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3.3 |
北斎期(読本挿画への傾注 1804〜1811 45〜52歳) |
84点 |
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3.4 |
戴斗期(多彩な絵手本の時代 1812〜1819 53〜60歳) |
340点 |
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3.5 |
為一期(錦絵の時代 1820〜1833 61〜74歳) |
228点 |
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3.6 |
画狂老人卍期(最晩年 1834〜1849 75〜90歳) |
269点 |
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(1)
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学習院大学の小林忠教授がある書物にニューオリンズ美術館のミュージアム・ショップで売っている“RULERS of the ART WORLD”と名付けた物差しを紹介されている。右に示す如く、片面は普通の物差しだか、裏面には、ギリシャ時代から現代までの36人の画家の名が年代順に刻まれている。“Ruler”には、「物差し」という意味のほかに「支配者」という意味もあり、「美術の世界の支配者たち」ということのようで、この中に、日本人で唯一「葛飾北斎」の名がある。 誰がこの35人を選んだかは不明だが、外国に与えた影響力という点では、至当な選定と思う。
また、1998年に米国の「Life誌」が、「この1,000年間で最も重要な業績を残した世界の人物100人」についてアンケートをとったところ、日本人では唯一「北斎」のみがランク・インした、といわれる。
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(2)
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欧州のジャポニズムのきっかけをつくったのは「北斎漫画」と言われており、いろいろ逸話がある。 一つは、1856年にフランスの銅版画家フェリックス・ブラックモンが、日本から送られてきた陶磁器の梱包に使用されていた「北斎漫画」の一冊を印刷屋の家で発見し、以降、その描写の妙を盛んに宣伝したことが、浮世絵の流行のみならず、ドガ、マネ、ゴーギャン、ゴッホ、ロートレックなどの多くの印象派の芸術家たち、に影響を与えた、と云う伝説的な話である。(近年の研究では、この話の信憑性は疑わしい、とされているが) いずれにしても、「北斎漫画」が端緒になったことは事実である。
また、北斎漫画の紹介と云う点では、北斎存命時にその収載図の幾つかが西欧で転載されていたという事実がある。有名なものでは、1832-51年にオランダで刊行されたシーボルトの『日本』に日本の社会風俗の紹介のための挿絵として使われているし、シーボルトの収集品を所蔵するオランダのライデン国立民俗学博物館にシーボルトが集めた「北斎漫画」1セットが、発売時に付けられていた“袋”まで含めて大切に残されている。
1863年に出版された幕末のイギリス公使オルコックの日本滞在記『大君の都』にも、北斎漫画が挿画として掲載されており、芸術的視点だけではなく、日本の社会や自然を写真のように紹介できる、非常に描写力の確かな図像として認められていた、と云える。
1896〜1914年にかけて、即ち20年弱の間に、北斎の伝記がフランスで少なくとも3冊出版されている。うち2冊は、当時を代表する批評家エドモン・ド・ゴンクール『ホクサイ』とアンリ・フォシロンによるものである。 ちなみに、日本では1893年(明治26年)に初の本格的研究書『葛飾北斎傳』が飯島虚心により書かれている。
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(3)
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1893年、アーネスト・フェノロサは最初の本格的な北斎展をボストン美術館で行っている。 そして、1900年(明治33年)には、上野公園内にある日本美術協会で展覧会を催しており、自らそのカタログを執筆している。その中で右図の「老人のスケッチ」について「これは、北斎の作画の中期における堂々たるリアリズムを示す習作である。北斎はここで、ユーモラスな性格描写のため、ほかのすべてを犠牲ににしている。老人の滑稽さと憐れさとが追求されている。この豊かな表現をホガースのそれになぞらえることもできるのだが、このように、描線だけでなされた迫真的表現の例は、欧州のどのジャンルにも見出すことは難しい。描かれたものはほとんどギリシャである」と述べている。 そして彼は、デューラーやレオナルドまで引き合いにだして、北斎のデッサンの素晴らしさを絶賛している。
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(4)
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エドガー・ドガ:
「北斎は多々ある浮世絵師の中の一人ではない。北斎自身が島であり、大陸であり、世界そのものなのである。」
ファン・ゴッホが弟テオに宛てた手紙で、北斎のことを次のように言っている。
「日本美術を研究すると、間違いなく聡明で博学な哲学者を発見することになる。その男は何をして時間を過ごしていると思う? 地球と月の距離を測っている? ビスマルクを勉強している? 違う。一枚の葉を探求しているのだ。
しかし、この葉の探求のおかげで全ての植物が描けるようになり、次に季節が、広大な風景画が、動物が、そしてついには人間が描けるようになるのだ。こうやってこの男は人生を送っているが、すべてを完成させるにはこの人生は短すぎるのだ。
いいか、日本人が教えてくれているのは真の宗教だ。彼らはとても純粋で、まるで自分自身が花の如く自然の中を生きている。」
(ゴッホは「富嶽百景」の北斎の自跋(2-1参照)を読んだのであろうか!!!)
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(5) |
北斎漫画に触発された芸術家は多く、その作品群が多く紹介されているが、下に示すのは、アール・ヌーボーの旗手エミール・ガレの作品と彼がもとにした思われる『北斎漫画』十三編の絵である。
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| 北斎館 |
北斎が信州・小布施に滞在したときに描いた肉筆画、を展示する美術館 |
| 北斎漫画劇場 |
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| 動き絵 |
浮世絵アニメーションのサイト |
| 北斎漫画 |
北斎漫画の最大のコレクター浦上蒼穹堂のサイト |
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