1.東方正教会

東方正教会  Orthodox Church キリスト教の3大潮流のひとつ。イエス・キリストの使徒たちが地中海東部沿岸地方に創建した共同体との歴史的連続性を保ちつつ、宣教活動によって東ヨーロッパ各地にひろまった。 「正統」を意味する「オーソドクス」は、「正しい信仰」を意味するギリシャ語に由来し、その教義が使徒たちの説いた真理と一致するという主張をあらわす。 正教会は、西ヨーロッパや北アメリカ、さらに最近ではアフリカやアジアでも有力な教会をもっており、現在の世界総信徒数は1億7400万人以上と推定される。 「正統カトリック教会」「ギリシャ正教」「東方教会」などの名で呼ばれることもある。

1.1 構造と組織

正教会は、独立した諸教会の連合体であり、各教会が固有の首長をもつ。 すなわち、それぞれの教会は、国ないし地方ごとに独自の首長聖職者によって統治されている。 これらの独立・自治教会はすべて、同一の信仰、教会政治と組織に関する同じ原則、共通の典礼の伝統を分かち合っており、礼拝で用いられる言語と、伝統の細部が国ごとに異なるに過ぎない。

各独立・自治教会の首長は、総主教(パトリアルフ)、大主教、府主教とよばれる高位聖職者であり、カトリック教会の司教、乃至は大司教にあたる。 これらの首長聖職者は、主教会議の議長であり、この会議が夫々の教会において、教会法、教義、教会行政に関する最高の権威をもつ。 正教会には一種の上下の格づけがあるが、それは現在の教勢にもとづくというよりも、歴史にもとづいて決定されている。

1. コンスタンティノープル総主教

「名誉的な首位管轄権」は、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の総主教にある。これは、コンスタンティノープルがかつての東ローマ帝国およびビザンティン帝国の首都であり、320年か1453年まで東方のキリスト教の中心地だったことによる。

コンスタンティノープル総主教の教会法上の権限は、第1コンスタンティノープル公会議(381)およびカルケドン公会議(451)によって定められた。 6世紀には、コンスタンティノープル総主教は「世界総主教」(ないし「エキュメニカル総主教」)の称号を名のりはじめた。 ただし、過去においても現在においても、その権威が、西方教会でローマ教皇が振るう権威に匹敵するようなものになったことは1度もない。 総主教の行政上の権力は、自分の管轄する教区の外に及ぶものではないし、コンスタンティノープル総主教が無謬性を主張したこともない。 彼の地位は、たんに「同等者中の第一人者」であるに過ぎない。

ほかの諸教会はコンスタンティノープル総主教に、世界の正教会全体にかかわる協議会や教会会議を召集したり、準備する役割を認めている。 しかし、コンスタンティノープル総主教庁の権威は、トルコに住むギリシャ人の小さな、しかも急速に減少しつつある共同体、ギリシャの島々やギリシャ北部の諸教区、アメリカ合衆国やオーストラリアや西ヨーロッパのギリシャ語を話す多くの教団、および自治教会をなすフィンランド正教会の上に及ぶに過ぎない。

2. その他の古い総主教
他の3つの総主教庁は、エジプトのアレクサンドリア総主教庁、シリアのダマスカス総主教庁(ただし、由緒ある「アンティオキア総主教」の称号を名のる)、エルサレム総主教庁で、いずれもその地位をか輝かしい過去に負っている。 アレクサンドリア総主教とエルサレム総主教は、ギリシャ語を話す。アンティオキア総主教は、シリア、レバノン、イラクの重要なアラブ系のキリスト教諸教会を率いている。

3. ロシア正教会およびその他の正教会
モスクワおよび全ロシア総主教庁(ロシア正教会)は、1917年のロシア革命以後、厳しい弾圧の時代を生き伸び、今日では最大の正教会となっている。 ロシア正教会は、総主教教会の序列では5番目の地位を占める。 以下、グルジア総主教庁(グルジア正教会)、セルビア総主教庁(セルビア正教会)、ルーマニア総主教庁(ルーマニア正教会)、ブルガリア総主教庁(ブルガリア正教会)とつづく。

総主教をもたない正教会としては、キプロス大主教庁(キプロス正教会)、アテネ大主教庁(ギリシャ正教会)、ティラナ大主教庁(アルバニア正教会、1937年に創設されたが、共産主義政権時代には弾圧された)、およびチェコ、スロバキア、アメリカの府主教庁などがある。


1.2 教義

正教会は、教義文書や典礼でよむテキストにおいて、自教会が、元来のキリスト教信仰、すなわちキリスト教の歴史の最初の1000年間、東でも西でも共有されていた信仰を保持していることを強調する。

とくに正教会は、東西教会がともに参加した初期の7回の公会議の権威を承認する。 すなわち、第1ニカエア公会議(325)、第1コンスタンティノープル公会議(381)、エフェソス公会議(431)、カルケドン公会議(451)、第2コンスタンティノープル公会議(553)、第3コンスタンティノープル公会議(680)、第2ニカエア公会議(787)である。 その後の正教会による教義上の決定(たとえば14世紀における、神との交わりのあり方に関する重要な定義)は、初期教会の本来の信仰の発展とみなされた。

1.伝統
正教会の特徴である連続性と伝統の重視は、過去そのものの崇拝を意味するのではない。 むしろそれは、最初の使徒的証言との同一性および一貫性を意味するものであり、その同一性と一貫性が、各地の教会の秘跡共同体を通じて現実化されるとみなされるのである。

ペンテコステ(五旬際)の日に教会に授けられた聖神(聖霊)は、「すべての真理において」(「ヨハネによる福音書」16章13節)教会全体を導かれているとみなされる。 共同体を教化し導く力は、特定の聖職者、とくに各教区の主教に授けられ、あるいは特定の制度(たとえば教会会議)を通じて明示される。それにも拘わらず、教会は主教やその他の神品だけで構成されているのではなく、全平信徒をもふくむものであるが故に、真理の守り手は「神の民」全体であることが強調される。

真理が秘跡共同体としての教会と不可分であるという信仰は、主教の使徒継承についての理解の基盤をなしている。 主教は、同僚からの聖別を受け、教会が集う聖体礼儀(聖体拝領、聖餐式)において「キリストの座」を占めることを通じて、使徒から切れ目なく受けつがれてきた伝統の守り手および証人となる。そしてこのことが、各地の教会を信仰の共同体へと統合しているのである。

2.キリスト教とマリア
千年紀の公会議は、至聖三者(三位一体)、キリストの特殊な位格(ペルソナ)、および「真の神にして真の人」であるキリストにおける神性と人性などについて、キリスト教信仰の基本的教義を決定した。これらの教義は、正教会の信仰書や奉神礼(典礼)でうたわれる讃美歌を通じて力強く表現されている。

さらに、キリストの位格に関する伝統的教義にもとづいて、生神女(しょうしんじょ)マリアが神の母として崇敬される。 ただし、たとえば比較的最近カトリック教会で生まれたマリアの「無原罪の宿り」の教義のような、マリア論の更なる展開は、正教会とは無縁である。マリアの「とりなし」が求められるのは、マリアが他の誰よりも救い主キリストに近く、したがって、堕落した人類のための代弁者であって、教会の成員の中でもっとも傑出した、もっとも聖なる人物だからである。

3.秘跡(サクラメント)
正教会では、一般的に7つの秘跡が受け入れている。 ただし、7という数は、いかなる究極的権威によって限定されたわけでもない。

第1の中心的な秘跡は聖体礼儀である。 第2に洗礼秘跡(洗礼)。 通常は全身を水にひたす浸礼でおこなわれる。 第3に傅膏(ふこう)秘跡(堅信)。 洗礼につづいて直ぐにおこなわれる、全身に聖油をぬる儀式。 第4に痛悔秘跡(ゆるしの秘跡)。 罪の告白。 第5に神品秘跡(叙階)。 聖職者への任命と権威付与。 第6に婚配秘跡(結婚)。 第7に聖傅(せいふ)秘跡(病者の塗油)。 病者の体に聖油をぬる儀式。 中世の著作家の中には、修道士になるための剃髪(ていはつ)、葬儀、水の祝福など、これ以外の秘跡について述べている者もある。

4.独身制
正教会の教会法は、司祭までの聖職者の結婚をみとめている。 しかし主教は、修道士や妻と死別した神品の中からえらばれるので、必然的に独身である。

5.宗教生活
中世の年代記によれば、988年にキエフ朝ロシアの大公ウラジーミルのつかわした使者たちがコンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂を訪れたとき、彼らは「天上にいるのか地上にいるのかわからないほどの」感銘を受けたという。 正教会の荘厳な奉神礼(典礼)は、宣教のための手段としてもっとも効果的なものであり、中東をイスラム教が支配した何世紀もの間、正教会が宗教として存続するための有力な支えともなった。 この奉神礼の形式は、まずビザンティン帝国でつくられ、その後数多くの言語に翻訳されて各地で行われるようになったが、いまだに初期のキリスト教教会に起源をもつテキストと形式を保存している。

6.奉神礼
奉神礼(典礼)の聖体礼儀で最もよく用いられるのは、クリュソストモスのものとされる典礼文である。 そのほかにカエサレアのバシレイオスによるものもあるが、後者は年間に10回行われるだけである。 いずれの場合にも、聖体の聖変化の際の祈りと、パンとブドウ酒の上への聖神(聖霊)の招き寄せ(エピクレシス)がクライマックスをなす。 したがって、キリスト教の信仰の中心をなす秘跡は、教会の祈りと聖神(聖霊)の働きによって成し遂げられるものとみなされている。 この点で、かつてキリストによってとなえられ、キリストの代理役をはたす司祭によって繰り返しとなえられている「祈りの言葉」によって秘跡が成し遂げられるとみなす西方キリスト教とは異なっている。

正教会の奉神礼の大きな特色をなすのは、膨大な数の聖歌であり、各聖歌は教会暦上のさまざまな奉神礼の周期(サイクル)を特徴づけている。 ときには複雑に組み合わされて用いられるこれらの周期には、以下のものがある。

まず、毎日の日課の周期としては、晩課、晩堂課、夜半課、早課、4つの時課祷(1時課、3時課、6時課、9時課)があり、それぞれのための聖歌がうたわれる。 復活大祭の周期は、復活祭の前40日間の大斎(四旬祭)と、パスハ後50日目の聖神降臨祭(五旬祭、ペンテコステ)までを含む期間で、この周期は、その後年間をとおして毎日曜日の奉神礼に引き継がれる。 年の周期ないし聖人祝日の周期には、固定祭日と各聖人の祝日のための聖歌がうたわれる。

このような奉神礼の体系は、中世のビザンティン帝国でつくられたが、新たな聖人を讃える聖歌が付け加わることによって今なお発展しつづけている。 こうして、アラスカへの初期の布教者であるヘルマンとインノケンチイが、最近になって正教会の聖人名簿に付け加えられた。


7.イコン
奉神礼の伝統とは切り離せない仕方で、正教会では、宗教美術が信仰告白の目に見える形として、また宗教的体験の経路として、重視されてきた。 ほかのキリスト教の伝統には比すべきもののないこの宗教的絵画(イコン)は、ビザンティン帝国における聖像破壊運動(イコノクラスム)が終了したのち、843年に完全なかたちでの定義をあたえられた。

偶像破壊論者は、旧約聖書における偶像崇拝禁止の戒めに訴えて、イコンを偶像であると排撃した。 これに対し正教の神学者たちは、受肉というキリスト教独自の理論を論拠にして反論した。 すなわち、神は実際に不可視であり、神を描くことはできない。 しかし、神の子キリストが人となったとき、キリストは自らの意志で被造物としてのあらゆる性質を自分に受け入れたのであり、そこには描写できるという性質も含まれていた、というのである。

したがって、人間としてのキリストを描いた絵画は、神の受肉の真理を確証するものなのである。 キリストの高められ、栄光を与えられた人間性を通じて、神の命が輝き亘るのだから、芸術家の役割とは、美術を通じて、キリスト教の信仰の秘義そのものを表現することにある。 しかも、キリストや聖人たちのイコンは、そこに描かれた聖なる人々との直接的な人格的接触をもたらすのだから、「崇敬」(プロスキュネーシス)の対象となってしかるべきものである。 ただし、「礼拝」(ラトリア)は神のみにむけられるものでなければならないが。

このような神学が聖像破壊運動に勝利した結果、東方キリスト教ではイコンが広く用いられるようになった。またこの勝利は、多くの芸術家たち(そのほとんどは匿名のままである)に霊感をあたえ、宗教的にも芸術的にも価値の高い作品が数多く制作された。 なお、正教会が認めるのはイコンのような平面像だけであり、カトリック教会がもちいるような立体的な彫刻は禁止されている。


8.修道制度
アトス半島メテオラ修道院群の聖ステファノス修道院正教会における奉神礼の発展と、部分的にではあるが芸術の発展とは、修道制度の歴史と結びついている。 キリスト教の修道制度は、エジプト、パレスティナ、シリア、小アジアではじまり、何世紀にもわたって東方キリスト教のエリートたちをひきつけてきた。

修道生活は、貞潔(独身)、従順、清貧の誓願にもとづいて営まれるが、その形態は、コンスタンティノープルのストゥディオス修道院での禁欲的な集団生活から、ロシアの静寂主義(ヘシュカスモス)の独住隠修士にいたるまで多種多様である。 現在でも、ギリシャ北部の修道共和国ともいえるアトス山には、20の大きな修道院と多くの独住隠修士をふくむ1000人以上の修道士がくらしており、正教会における修道的理想の永続性を証言している。

1.3 歴史

中東の非ギリシャ語圏のキリスト教徒の多くが、カルケドン公会議の決定を拒否したことと、8世紀以降、キリスト教の成立地のほとんどが長い間イスラム教の支配下にあったことから、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの総主教たちは、過去の栄光の影のような存在となってしまった。 それに比べれば、コンスタンティノープルは、中世のほとんどの期間、キリスト教におけるもっとも重要な中心地としての地位を保ち続づけた。

ビザンティン帝国の有名な宣教師であるキュリロスとメトディオスは、864年ごろ聖書と典礼用式文をスラブ語に翻訳した。 その結果、数多くのスラブ人がビザンティン帝国の正教会に改宗した。 元々トルコ系だったブルガリア人も、864年には正教を受け入れ、次第にスラブ化されていった。 988年に集団洗礼を受けたロシア人は、1448年までコンスタンティノープル総主教の管轄下にあった。 セルビア人が独立した総主教庁をもったのは、1219年のことである。

1.教会分裂
4世紀以降、ローマとコンスタンティノープルの関係は次第に悪化していった。 476年、ゲルマン民族の侵入によってローマが陥落したのち、ローマ教皇は、西ヨーロッパにおけるキリスト教普遍主義の唯一の保護者となった。 その後ローマ教皇は、全教会における首位権を公然と主張するようになった。その根拠は、ローマがペトロの葬られた土地であること、イエスがかつてペトロを「岩」とよび、その上に教会をたてると宣言したこと(「マタイによる福音書」16章18節)による。

東方のキリスト教徒はこの伝統を尊重し、ローマ主教(司教)である教皇に、一定の道徳上、教義上の権威を認めていた。 ただし彼らは、個々の教会に属する教会法上の権利および主教権は、まず第1に歴史的考慮にもとづいて定められるべきだと信じた。 それゆえコンスタンティノープル総主教は、自分の地位はもっぱら、「新ローマ」のコンスタンティノープルが皇帝と元老院の座であるという事実によって決められる、と主張した。

西方における「使徒的」な理解と東方における「実際的」な理解という、2つの首位権解釈は、何世紀もの間併存しつづけたが、そのような緊張は、しばしば公会議を通じて解消された。 しかし、さまざまな抗争が結局は永続的な教会分裂にみちびくことになった。

まず、7世紀のスペインで、それまで全教会的に受け入れられていたニカエア信条に「フィリオクエ」(「子からもまた」を意味するラテン語)という一語が挿入された。 信条が、「我々は……聖霊を信ずる。 聖霊は父から、そして子からもまた発出し……」と読まれるようになったのである。 最初は教皇たちも反対したが、のちにこの挿入は、カール大帝(800年に皇帝に即位)とその後継者たちによって擁護され、結局1014年ごろには、ローマでも認められるようになった。 これに反し東方教会は、この挿入を異端的であると考えた。

それ以外にも、さまざまな問題が論争の的になった。 たとえば、結婚した男性を司祭にしてよいかどうか、聖体礼儀(聖体拝領)にもちいるのは酵母(こうぼ)を入れたパンか入れないパンかといった問題である。 いずれも、それ自体としては二次的な問題だったが、東西双方が全く異なる判断基準にたっていたために、解決は困難を極めた。ローマ教皇は、自分こそ信仰と教えに関わる問題についての究極的な裁断者であると考えたのに対し、東方教会は、各地方教会が同等の発言権をもつ公会議の権威に訴えたのである。

しばしば、1054年に起きたコンスタンティノープル総主教ケルラリウスと教皇全権使節団との相互破門が、最終的な教会分裂をもたらしたかのように考えられている。 しかし実際には、54年よりもはるか以前から相互の疎遠化が進んでいたのであり、その分裂過程は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル侵略でクライマックスに達したのである。

中世後期には、東西教会の再統合を図る試みが何度も行われた。 特にリヨン公会議(1274)とフィレンツェ公会議(1438〜39)でこの問題が議論されたが、結果はいずれも失敗だった。 教皇の首位権の主張は、結局、正教会側の主教原理とはか噛み合わなかったのである。 さらに宗教上の相違が、文化的・政治的な誤解によって増幅されたという面もある。

1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを征服したのち、トルコ人はコンスタンティノープルの世界総主教をトルコ領内のキリスト教徒全体の政治的代弁者として認めた。 しかし19世紀になると、コンスタンティノープル総主教は、全教会の代表者としての制度的役割を終えた。 オスマン帝国の支配から正教徒たちが解放されたのちに、ギリシャ正教会(1833)、ルーマニア正教会(1864)、ブルガリア正教会(1871)、セルビア正教会(1879)など、一連の独立教会が次々と創建されたからである。 今ではコンスタンティノープル総主教は、正教世界における(実質的な統治権をもたない)名誉的な首位管轄権者としての地位をたもっているにすぎない。

ロシア正教会は1448年、コンスタンティノープル総主教から独立した。 1589年にはモスクワに総主教庁が確立され、コンスタンティノープル総主教エレミアス2世によって公認された。 ロシアの教会とツァーリ(皇帝)にとっては、モスクワが「第3のローマ」となり、古代ローマ、ビザンティン両帝国の帝国的至上権の後継者とみなされた。 かつてモスクワの総主教は、ビザンティン帝国からの部分的な独立権さえもたなかった。 その後、17世紀中葉のニコン総主教の短い治世を例外として、モスクワとロシア教会の歴代の総主教たちは、ツァーリに全面的に従属した。 1721年にはピョートル大帝が、総主教制度を全面的に廃止し、その後教会は、帝国の官僚によって統治されるようになった。

1917年にロシア革命が起こると、総主教制度が復興されたが、教会はまもなく共産党政権の厳しい弾圧を受けた。 その後、ソビエト政権が抑圧政策を緩和し、91年にソビエト連邦そのものが解体すると、ロシア正教会は再びその生命力を取り戻し始めたようにみえる。 なお、東ヨーロッパのほかの正教会も、これとよく似た歴史をたどった。 第2次世界大戦後は共産党政権に弾圧され、その後80年代後半になって自由を取り戻したのである。

2.諸教会との関係
正教会は常に、自己を最初の使徒的共同体の後継者とみなし、使徒たちの教えとまったく一致する信仰を保持していると自任してきた。 他方では、その歴史を通じて、ほかの諸教会や諸教派にさまざまな態度を示してきた。 17世紀にギリシャの島々で、またほぼ同じ時代にウクライナで西方教会との紛争が起こると、守勢にまわった正教会の権威者たちは、西側の積極的な改宗促進運動に対抗して、西方教会の秘跡は無効であると宣言し、カトリックやプロテスタントからの改宗者に再洗礼を要求した。 今日でも、ギリシャの一部のサークルでは、同じような強硬姿勢が維持されている。

それにも拘わらず、正教会の主流派は、現代の信仰一致運動(エキュメニズム)に積極的な姿勢を示している。 正教会は、教義上の相対主義を常に拒否し、信仰一致運動の真の目標が信仰のまったき一致であることを確認している。 それゆえ、1948年以降、世界教会協議会(WCC)の正会員となっている。 世界教会協議会の人々は、完全な一致が達成されるまで、そのような方向にむけての神学的対話が必要であり、またばらばらに分かれているキリスト教の諸教団が、互いに協力したり、援助や体験をともにし合うことが可能であると考えている。 たとえ共同の機密(秘跡)執行や求められる信仰の一致が、どれほど遠くみえようとも。

かつて、世界教会協議会におけるプロテスタントの多数派の態度が、この協議会への正教会の参加を難しいものにしたこともあった。 一方教皇ヨハネス23世の治世以降、カトリック教会が信仰一致に積極的な態度をとるようになったことは、正教側から歓迎された。 その結果、諸教会の間に新しい友好的な関係が生まれつつある。

第2バチカン公会議(1962〜65)の各分科会には、正教会の代表者たちがオブザーバーとして参加した。 また、ローマ側の教皇パウルス6世およびヨハネ・パウロ2世と、正教側の総主教アテナゴラスおよびデメトリオスの間で、何度も会談がおこなわれた。 もうひとつの象徴的な行為として、1965年には双方の側で、1054年の相互破門が解除された。

東西両教会は、対話を進めるために共同の委員会を設置した。 この委員会では、1966〜81年の間に代表者たちが少なくとも11回会合し、教義と習慣の違いについて話し合っている。 しかし、全体としてみれば、教皇の側の権威と無謬性の主張が、完全な和解をさまたげる最大の障壁とみなされている。


3.日本の正教会
日本での正教会の布教は、1861年(文久元)、ロシア正教司祭ニコライが箱館(函館)のロシア領事館つき司祭として来日したことにはじまる。 当時はまだキリスト教禁教下だったが、ニコライはやがてひそかに日本人への布教をはじめ、函館のほか、仙台、水沢、東京などに信徒の集団ができた。 初期の信徒には、女流イコン画家として有名になる山下りんなどがいる。 72年(明治5)、ニコライは東京の駿河台に本拠を移し、語学校、神学校を設立して伝道をつづけた。 その後、73年の禁教解除、89年の大日本帝国憲法発布による条件つきの信教の自由の保障を受け、またニコライもロシアで主教に任ぜられて、日本布教は本格化し、91年には駿河台に東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)が落成した。

1912年(大正元)のニコライ没後も、主教セルギーのもとで更に教勢は拡大した。 しかし17年にロシア革命が起き、本国の母教会が共産主義政府の弾圧を受けるようになると、ロシアからの援助が途絶え、日本の正教会は困難な歩みを強いられることになった。 19年、「日本ハリストス正教会」(ハリストスはギリシャ語の「クリストス」すなわちキリストをロシア語風に発音したもの)として事実上の独立を果たす。 39年(昭和14)には宗教団体法が発布され、外国人を主管とする宗教活動が禁じられたため、セルギーは引退を余儀なくされ、最初の日本人主教に小野帰一が任ぜられた。

第2次世界大戦の終戦(1945)後、教会はモスクワ総主教庁に再びロシア人主教の派遣を求めたが、GHQはこれを許さず、1946年以降、日本ハリストス正教会は、在米白系ロシア人のロシア正教系自治教会の傘下に置かれることになった。 その後70年、モスクワとの関係を修復、日本ハリストス正教会はモスクワ総主教庁から正式に自治教会(アフトノモス)として認められた。

日本ハリストス正教会は正式名称を「神聖正統使徒伝承東方教会」といい、1995年現在、永島新二府主教のもとに全国に3つの主教区、約85の教会(伝道所をふくむ)、64人の聖職者、約2万5000人の信徒をもつ。

なお、戦後アメリカからの主教受け入れに反対し、ロシア総主教庁との関係をあくまで保つことを要求した聖職者と信徒の一部は、「正統正教会」として独立、1967年には宗教法人「日本正教会」となった。その後この教会は、70年の日本ハリストス正教会とモスクワ総主教庁との和解をうけて「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ」と改称、96年現在、モスクワ総主教の直轄下で活動をつづけている。 なお、千葉県山武郡には「駐日ポドウォリエ」から更に分かれ、コンスタンティノープル総主教管轄下に入った聖ソフィア修道院があり、「エキュメニカル総主教庁正教東方伝道会日本支部」として活動している。
Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.

2.イコンとは


ページ・トップへ