1811年末頃、画家として独立し、油彩の大作に取りかかった。 これがジャイムズ・リドリイの『鬼神譚』に材をとった「忘却の水を探し求めるサダク(Sadak
in Search of the Waters of Oblivion)」である。 この大作はアカデミーに出品され、注目と称賛の的となった。
1813年、両親、長男の相次ぐ死にあったが、「アダムとエヴァの楽園追放」、「カドモス(Cadmus and the Dragon)」などを描き、翌1814年には「クリュティエ」を発表している。
1815年には作品が発表されていないが、シャーロット王女に絵を教えており、その収入をもとに彫版技術の修得、翌年発表される大作に打ち込んでいたらしい。
1816年のアカデミーには「ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュア(Joshua Commanding the Sun to Stand
Still upon Gibeon)」が出品される。翌1817年にはトマス・グレイの頌詩を描いた「吟唱詩人(The Bard )」を、またエッチングの処女作品集『古典趣味の都市』を刊行している。
1819年には「バビロンの陥落(The Fall of Babylon)」がブリティッシュ・インスティテューションに展示され、四百ギニーで購入された。
1820年に完成した油彩の大作「べルシャザルの饗宴(Belshazzar's Feast)」は翌2月のブリティッシュ・インスティテューションに出品され、一等賞の栄誉に輝き、ひきつづき画廊で展示を行い、入場料を支払った観客は五千人に及んだと云う。
1822年には油彩の大作「ポンペイとヘラクラネウムの壊滅」が完成し、本作を中心に以前に発表した作品の多くを借り出して、初の個展を開いた。 (なお、テイト・ギャラリーの地下室保管されていた本作品は、1928年の洪水で損傷を受け、廃棄処分になった)
1823年、アカデミーに「天使ラファエルをもてなすアダムとエヴァ(Adam and Eve Entertaining the Angel Raphael)」を、インスティテューションに「パポスの木陰(The
Paphian Bower)」を出品したが、いずれも当時は酷評された。 1924年の大作は「エジプト第七の災禍(The Seventh Plague
of Egypt)」を発表。 この頃から「ギベオンの上に止まれと・・・・」を彫版師チャールズ・ターナーに依頼し、やっと1827年に完成する。
1824年から27年に掛けて、米国人セプティマス・プロウェットに依頼されミルトンの『失楽園』を飾るメジチント24点を完成させる。 『失楽園』本文48頁に2点の挿絵を添え、十二分冊で出版された。
1826年に油彩の「大洪水(The Deluge)」を発表して以降は、版画を主体とし、「ベルシャザルの饗宴」を皮切りに「ギベオンの上に止まれと・・・・」、「大洪水」、「ニネヴェの陥落(The Fall of Nineveh)」を世に問い、版画家としての名を不動のものにした。
1831年から35年にかけて分冊形式で『聖書』を出版したが、作品の出来栄えにむらがあり、刊行当初から売れ行きは芳しくなかった。 37年に原版が売却され、翌38年にチャールズ・ティルトが造本、体裁を整備して『マーティンの挿絵入り聖書』として出版すると、たちまち版を重ねるほどの売れ行きを示した。
マーティンはこの頃から水道や下水設備の改良を目指す都市計画にのめり込んでいった。それまでの版画出版で蓄えた資産を投じて、都市計画に巨費を注いだが、そのプランが規模壮大すぎて、実現にはほど遠く、資産を蕩尽し、破産同然となり、1848年には自宅も売り払い、出版費用の掛かる版画からは手をひき、絵筆をとっても描くものは水彩の風景画ばかりとなった。
既に画家としては死んだかに見えたマーティンだったが、1852年に審判三部作と呼ばれる油彩の大作「最後の審判(The Last Judgement)」、「神の大いなる怒りの日(The
Great day of His Wrath)」、「天国の平原(The Plains of Heaven)」を完成させる。
翌1853年11月に中風の発作を起こし、翌1854年2月17日息を引き取った。