月岡芳年


  江戸川乱歩・三島由紀夫などの偏愛のために「芳年といえば血みどろ繪・無惨絵」と思われがちだが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画・役者絵に渡る。 近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきており、彼の作品は海外でのほうが評価が高い。  また当時、没落していく浮世絵師の中で成功したこともあり「最後の浮世絵師」と評価されることもある。
 河鍋暁斎とは、ともに歌川国芳に師事した兄弟弟子でもある。


1.略伝



天保10 年(1839年)、江戸新橋南大阪町(武州豊島郡大久保の説有り)の商家である吉岡兵部の次男、米次郎として生まれる。 ただし父については諸説あり、定かではない。 のちに、京都の画家の家である月岡家の養子となる。

以下、その画業を5期にわけて記す。


  第Ⅰ期 (嘉永3年1850~元治元年1864)
嘉永3年(1850年)、十二歳で歌川国芳に入門。 (前年に葛飾北斎が永眠。)
嘉永6年(1853年)、十五歳のときに処女錦絵作品「文治元年平家一門海中落入図」を一魁斎芳年の号でを発表。 那智山之大滝 文覚上人荒行図
以降、芝居絵、役者絵、子供繪、故事、歴史繪の類を師国芳のもとで修行し、安政5年(1858年)には、二十歳で「江戸の花子供遊の図」(三枚続)を版行。

万延元年(1860年)二十二歳頃から、芝居絵、役者絵、歴史繪のみならず吉原繪、横浜絵、など多岐に亘るジャンルで小品、大判、三枚続大作などの作品を刊行し始める。
文久元年(1861年)には師歌川国芳が没している。(享年65歳)。

第Ⅱ期 (慶応元年1865~明治2年1869)
和漢百物語慶応元年(1865年)二十七歳の時に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承し、 「和漢百物語」などのシリーズもの、歴史繪、合戦繪 など多数を発表。 この年の浮世絵師番付で第十位となる。英名二十八衆句

慶応2年(1866年)12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で《血みどろ繪》として有名な『英名二十八衆句』を表す。 これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。 これと相前後して「美勇水滸伝」などのシリーズものも発表する。 



魁題百撰相慶応3年には、芳年、国周、芳幾が浮世絵の三傑と称せられる。この年12月、幕府は大政奉還。

明治元年(1868年)、4月官軍江戸進攻、5月上野戦争。 芳年三十歳。 彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の年景とともに取材した作品、『魁題百撰相』を刊行。 以降、芳年の作品は故事歴史ものに集中する。 と同時に風俗画『東錦浮世稿談』なども発表する。


第Ⅲ期 (明治3年1870~明治8年1875)
一魁随筆明治3年(1870年)三十二歳。 このころから神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。 明治5年(1872年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズがかんばしくなく、ショックを受け、強度の神経衰弱に陥る。 躁鬱病の鬱状態と思われる。 生活も貧窮の極に達したと云われる。 このとき愛妾お琴と別離している。

郵便報知新聞翌明治6年(1873年)には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を「大蘇」に変える(それまでの号に一魁斎、一魁、玉桜、などがある)。 名を改め、気を一新して作品を発表しはじめが、前期の合戦ものなどから、明治初期風俗ものに移ってくる。

明治7年(1874年)三十六歳。 『郵便報知新聞(錦絵)』を創刊し、翌年に及ぶ。 これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。 兄弟子芳幾は『東京日々新聞』を出したが、芳年の人気は芳幾を凌駕した。 
また、芳年自身文明開化になじめずにいたらしいが、旧江戸人にも徳川家再興の願いがあって、錦絵もこれに応ずるかのように徳川家関係の物が刊行され、売れた。

第Ⅳ期 (明治9年1876~明治17年1884)
明治小史年間紀事 鹿児島県下賊徒蜂起之事件第II期が芳年の特色の噴出期であったとすると、本期は二度目の噴出期であり、これ以降安定した活動期に入っていく。 この噴出を促したのが、明治10年(1877年)の西南戦争の勃発であり、西南戦争の錦絵が盛んになる。 実際に取材に行ったわけではないが、構成的で、演劇調の戦争画として、芳年の人気が素晴らしく、版元は門前市をなしたと言われる。 経済的にもゆとりがで、住居を新たにするとともに、芸者お楽を迎え入れる。

戦争ものもやがて下火になると、作品には「新柳二十四時」、「東京自慢十二ヶ月」などの風俗画が主題になっていく。新柳二十四時


大日本名将鑑明治11年(1878年)40歳の時には天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。 この年より刊行が開始された「大日本名将鑑」は以後5年の間に51番まで制作され、ベストセラーとなり、版行部数もまた未曾有となった。

明治12年(1879年)四十一歳。 宮永町に移転し、手伝いに来ていた坂巻妙子と出会い、愛妾お楽と別離し妙子と結婚する。(妙子夫人は世話女房型の賢夫人で、芳年没後二十年あまりして明治四十四年大森で亡くなっている)
明治15年(1882年)、絵入自由新聞などにも関係し、明治17年ごろまで精力的に本、雑誌、新聞の挿絵にも打ち込む。

明治15年の第1回国内絵画共進会では肉筆画の「藤原保昌月下弄笛圖」で一等賞を得、これを翌年三枚続きの錦繪に摺った版画は当時のベストセラーになった。 さらに一枚ものシリーズ「芳年武者尤類」を刊行している。芳年武者尤類藤原保昌月下弄笛圖

同時に西南戦争後の世相の反映の一つとして,文教政策の強化にともない、芳年の錦絵にも「教導立志基」などがでてくる。
明治17年 四十六歳には芳年の門人は80人を超え、評判は日本随一で、浮世絵界の泰斗と称せられた。


第Ⅴ期 (明治18年1885~明治25年1892)
月百姿明治18年四十七歳、よりライフワーク「月百姿」(百枚)の刊行が開始され、、明治24年に完結する。 また、「新撰東錦繪」二枚続23図を刊行。風俗三十二相 さらに代表作「奥州安達が原ひとつ家の図」などによって、「東京流行細見記」の浮世絵師番付けで一番になる。 

これに前後して縦二枚続きの一連の作品を刊行。 明治21年には「風俗三十二相」(32枚)を刊行。 


明治24年(1891年)『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から奥州安達が原ひとつ家の図体が酒のために蝕まれていき、再度神経を病み目を悪くし、脚気も患う。

新形三十六怪撰
明治25年(1892年)五十四歳、病状が悪化し、巣鴨病院に入院。 病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放され退院。 6月9日、本所藤代町の仮寓で脳充血のために死亡。 しかし、やまと新聞では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。

芳年の墓は東大久保の専福寺にある。明治31年(1898年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑が建てられた。



2.作品

各期をクリックすると、その期の作品掲載ページにジャンプします。
第Ⅰ期 (嘉永3年1850~元治元年1864)      54作品
第Ⅱ期 (慶応元年1865~明治2年1869)     372作品
第Ⅲ期 (明治3年1870~明治8年1875)     130作品
第Ⅳ期 (明治9年1876~明治17年1884)     294作品
第Ⅴ期 (明治18年1885~明治25年1892)     251作品
(計 1101作品)


3.人物像


芳年の肖像写真を見ると、総髪で眉目秀麗な壮士風で恰幅もよい。 若い頃の芳年については、
「腰に低く三尺帯をきりりと結び、突っ掛け草履のイキな若い美男子」で「玄冶店の芝居にみる與三郎そっくりでした」(浮世絵志No.18)と云われたりした。

門弟を多く育て、弟子に厳しかったが、同時に大変可愛がったと云われる。 これからは洋画の時代だと見越し、何人もの弟子を洋画家に弟子入りさせている。 そのため彼の弟子に大成した人は少なくない。 水野年方、右田年英ら、弟子は数多く、年方の門下からはさらに鏑木清方、池田蕉園が出るなど、その一門から明治を代表する浮世絵系の日本画家が輩出している。

涙もろい人情家でもあり、円朝の人情話を聞いてすすり泣いたという話もある。 「目は大きいが怖くない人だった」と、当時子供であった鏑木清方には思われていた。

絵のモデルとして弟子を縛り付けているのを見た知人が驚いて、助けてやってくれと頼むと、「こいつは悪いことをしたので縛り付けている」と悪乗りをして言い返すという逸話があり、ユーモラスな人でもあったようだ。 にぎやかなお祭り好きで、話し上手でもあった。

一般的には神経衰弱に掛かっていたため病んでいるようなイメージがある。 それでも病の床で絵を描き続けた。 絵の道にひたむきな姿勢を持っていたことがうかがえる。


4.参考文献


・「血の晩餐 大蘇芳年の芸術」 宗谷真爾企画  番町書房 1971年
・「芳年妖怪百景」 直 俊彦編 国書刊行会 2001年