河鍋暁斎



暁斎が没後すっかり歴史の闇に埋もれ、つい最近まで近代美術史の中でも取り上げられなくなってしまっていた。 その理由は、以下の三つの理由が挙げられる。
 第一に、暁斎が生きた幕末・明治初期は、明治維新を境とした文明開化の間に挟まれて江戸時代史・近代史の両方から敬遠されてきたため。 第二に、暁斎の画業が浮世絵と狩野派の二派にわたるため、浮世絵史・狩野派史の双方から敬遠されてきたため。 さらに、酒席で戯画を描き投獄されたことが印象に残り、暁斎の作品自体に品格がないとみなされたことが加わる。 
(板橋区立美術館館長・安村敏信氏)


1.画家略伝

1.1 幼児~少年期 天保2年1831~天保10年1839(「周三郎」時代)

 捕らえてもらった蛙を喜ぶ駕籠の中の三歳の暁斎 (暁斎画談)河鍋暁斎は天保2(1831)年4月7日、下総国古河(現・茨城県古河市)に古河藩士・河鍋記右衛門と、石見国浜田藩士三田某の娘とよの二男として誕生した。 幼名は、周三郎。周三郎誕生の翌年、父が定火消同心甲斐氏を継いだため、周三郎も家族とともに江戸へ出た。 周三郎は絵が格別に好きな赤ん坊で、他の遊びや菓子を食べるのも忘れて絵を眺めたという。
 そして数え年三歳のある日、母親と館林へ行った周三郎は、捕らえてもらった蛙を初めて写生をした。 
暁斎(周三郎)七歳 国芳へ入塾ノ図。(暁斎画談)父記右衛門は周三郎のこの天賦の才を見逃さず、暁斎九歳 御茶ノ水急流に生首を得、写生の図。 (暁斎画談)七歳になると、当時「武者絵」で一世を風靡していた浮世絵師・歌川国芳に入門させた。 しかし、国芳の侠気と品行を心配した父は、間もなく周三郎を国芳の元から駿河台狩野派絵師・前村洞和愛徳の門に替えた。 
九歳の周三郎は、増水した神田川で男の生首を見つけると拾って写生をした。 


1.2 修業期 天保11年1840~嘉永7年1854(狩野派絵師「洞郁陳之」誕生)

駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図 (暁斎画談) 二番目に入門した駿河台狩野派絵師・前村洞和愛徳は、毘沙門天之図自身、付け木売りから絵師となった努力の人であり、周三郎の画才を見込んで「画鬼」と呼び、可愛がった。 しかしその洞和が病に罹り、周三郎は洞和の師・駿河台狩野家当主・洞白陳信の元で修業することになった。 狩野派修業の根幹である「臨写」から始め、さまざまな古画で縮図帳を一杯にした。数え年17歳で儀軌に則った精緻な「毘沙門天」を描き、また毎月一回狩野塾で開かれる古画鑑定会で鑑定の実力を認められる。 
そして、異例の若さといわれる19歳の嘉永2年(1847年)、「洞郁陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かり、狩野派の修業を終えた。
御殿女中の帯模様の図嘉永3年、館林藩秋元家の絵師坪山洞山の養子となり、坪山洞郁と称する。 嘉永4年、筑前福岡藩の藩主・黒田邸上屋敷で、藩の絵師や養父・坪山氏らとともに障壁、襖等を描くが、嘉永5年末坪山洞山の家を素行不良により離縁となって去る。(珍しい帯を写生するため女中の尻を追っていって誤解され、離縁された、と言われる。)


1.3 「狂斎」期 幕末~改号まで 安政2年1855~明治3年1870 

鯰絵「老なまず」 幕末は狩野派絵師として生きられる時代ではなくなっており、絵馬や凧絵で生計を立てていたが、安政2年1855の大地震の翌日、仮名垣魯文の戯文に「鯰絵」を描いて版行し、人気を博す。今昔未見生物猛虎之真図
安政4年1857、27歳の時、江戸琳派酒井抱一の門人・鈴木基一の次女お清と結婚。 画家として独立し、本郷大根畑に住む。 また、父の希望により河鍋姓を継ぐ。 翌年、神田鍛冶町の扇屋伊勢新の勧めで狂画を描き始め、号を「狂斎」とする。

安政6年1859、芝増上寺宝蔵院修復を鍛冶橋、駿河台両狩野派が承り、暁斎も呼ばれて参加する。 妻お清没、数ヵ月後北豊島郡鹿浜村の農・榊原氏の娘登勢(翌年、没)を娶る。
鐘呂伝道図万延元年1860、30歳、見世物の豹を写生して魯文の口上を添えた錦絵「今昔未見生物猛虎之真図」を版行して評判となる。 翌年には狩野派の画法による「鐘呂伝道図」を描く。戸隠山中院天井に龍を描く図 (暁斎画談)

文久3年1863には徳川家茂の上洛を描いた合作錦絵シリーズ「御上洛東海道」に参加するとともに、三代豊国との合作錦絵シリーズ、動物見世物、美人画など種々の錦絵を刊行。 翌元治元年も数々の錦絵シリーズを刊行し続ける。

慶応元年1865、深山幽谷の風景を会得するため信州遊歴へ出発。 善光寺に至る。 滞在中、依頼されて戸隠神社中院の天井画「龍図」を描く。 また、長野県須坂の豪農・田中家に滞在中に「牽牛織女図」を描いている。
慶応2年1866、本郷から出火し、大根畑の暁斎宅も類焼。前年火災にあった深大寺復興のため、太子堂の天井画「龍図」ほか板絵、軸、など多数描き、謝状を貰っている。
放屁合戦絵巻
慶応3年1867 輪王寺宮家の家臣大澤行衛の娘・近と結婚。「放屁合戦絵巻」を描くとともに種々の錦絵を刊行。

地獄極楽めぐり図
明治2年1869、日本橋の小間物問屋・勝田五兵衛の依頼により勝田の娘・たつの一周忌のため、「地獄極楽めぐり図」を描き始める。(明治7年まで継続して制作)


東京府の獄屋に繋がるるの図 (暁斎画談)尋問を受けるの図 (暁斎画談)明治3年俳諧師・其角雨雀主催の書画会で、暁斎が描いた戯画が、貴顕を嘲奔するものと見做されて捕らえられ大番屋に入牢。


1.4 「暁斎」前期 明治4年1871~明治13年1880

 明治4年正月 笞五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家へ引き渡される。 修善寺温泉で静養後、十月東京に戻る。 号を「狂斎」から「暁斎(きょうさい)」に改める。 
以降、錦絵、仮名垣魯文をはじめとする諸作家の挿絵など、積極的に活躍始める。

明治6年1873 ウィーン万国博覧会の日本庭園入口に立てる大幟「神功皇后・武内宿禰の図」を描く。 同年五月、柳橋の河内屋で書画会を開き、会主を務める。 一日で二百枚を描いた。暁斎楽画 -  五号不動明王開花

野見宿禰と当麻蹶速図明治7年1874 湯島天満宮に額絵「野見宿禰と当麻蹶速図」を奉納、仮名垣魯文と日本初の絵入り新聞『絵新聞日本地』を刊行。 
大判錦絵シリーズ『暁斎楽画』を刊行、「五号不動明王開花」が『新聞雑誌』で高く評価される。また、「月次風俗画」、などを描く。

明治8年 「中国神仙図巻」などを描くとともに、啓蒙書の挿絵など多数を描く。
書画会の図

明治9年1876 梅若月並能で狂言・梟山伏を演ずる。 両国の中村楼で開かれた書画会に参加し、「書画会の図」を描く。 フィラデルフィア万国博覧会へ作品2点を出品。
暁斎画「レガメ像」レガメ画「暁斎像」
東洋の宗教調査、宗教美術収集のため来日していたフランス人実業家エミール・ギメと画家フェリックス・レガメが暁斎宅を訪問。 暁斎とレガメが互いの肖像画を競作、後刻暁斎が「釈迦如来図」を描き、ギメに届ける。 

豊干禅師、寒山拾得図この年、「豊干禅師、寒山拾得図」「岩上の鷲図」「開化放屁合戦絵巻」などを描く。
明治10年第一回内国勧業博覧会に暁斎の錦絵が出品される。 西南戦争の錦絵をいくつか描く。
明治11年、東松山、飯能、名栗方面に旅行。 日本滞在中の英国人アイザック夫人の父からの依頼で「日本神話」シリーズを描く。
漂流奇譚西洋劇

明治12年 新富座上演「漂流奇譚西洋劇」の宣伝のため絹張り行灯絵を描いたり、中村楼で席画を描く。 ドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツがその模様を彼の日記に残している。 この頃から暁斎は仏門に志し、霊雲寺の法弟となり、「如空」と号する。

明治13年、依頼により成田山への奉納額を制作.。新富座妖怪引幕
仮名垣魯文の依頼により巨大な贈幕「新富座妖怪引幕」を描く。


1.5「暁斎」後期 明治14年1881~明治22年1889

枯木寒鴉図 第二回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図」など四点を出品し、妙技二等賞を受賞(一等はなし)。この年、英国建築家ジョナサイア・コンデルが暁斎に入門。龍頭観音像 『暁斎畫譜』をはじめとする絵本を多数刊行するとともに、錦絵、挿絵多数を制作。

明治十五年1882第一回内国絵画共進会に「風神」「雷神」を出品。 絵本『暁斎酔画』を出版。 

明治十六年第一回パリ日本美術縦覧会に「龍頭観音図」「石公張良図」を出品。 コンデルに「暁英」の号をあたえる。 

翌明治十七年、コンデルと鎌倉へ写生旅行に出かける。 第二回パリ日本美術縦覧会に「山姥図」「黄石公図」「鷲猪ヲ取ル図」3点を出品。 第山姥図二回内国絵画共進会にコンデルが二点出品し、褒状を授与される。
駿河台狩野家当主・狩野洞春の臨終に際し画技遵守を託され、宗家・狩鯉魚遊泳図野永悳に再入門する。

明治十八年にもコンデルらと日光写生旅行にで「日光地取絵図」を残す。 また「鯉魚遊泳図」を描く。


明治十九年、暁斎はコンデルの画道上達を賞して「大和美人図屏風」を贈る。 東洋絵画共進会にコンデルは二点出品。 
石川県永光寺の再建のため、「山岡鉄舟像」「達磨図」など二十七枚を描き寄進。
釈迦降魔図明治二十年、沼津の本光寺(母及び兄らの菩提寺)に亡母を追悼するための「枯木寒鴉図」の碑を建立。 「文昌星図」「素戔鳴尊の九頭龍退治」を描く。 瓜生政和編著『暁斎画談』が刊行される。

明治二十一年 中村楼での書画会で「龍頭観音図」などを描く。 修善寺、沼津方面に旅行。 「釈迦降魔図」などを描く。

明治二十二年1889、4月26日 子供たち、コンデルなどが見守る中、胃癌のため死去。 59歳。 菩提寺は谷中の日蓮宗・瑞輪寺塔中、正行院。 瑞輪寺境内の蝦蟇型の墓石の下に葬られる。


2.作品

2.1 本画 - Ⅰ 125点
2.2 本画 - Ⅱ 105点
2,3 本画 - Ⅲ 画譜、画帖 215点
2.4 本画 - Ⅳ 画巻、絵手本  81点
2.5 錦絵 102点
2.6 版本 190点
2.7 絵日記  暁斎画談  その他 107点


3.若干の解説

3.1 外国に於ける評価

欧米では暁斎の評価は高い。 それは、暁斎生存中から多くの暁斎論が書かれたことも一つの要因と考えられる。 先鞭を付けたのはフランス人エミール・ギメで『日本散歩ー東京・日光』が1880年に出版されている。 西欧の早描きの名手レガメと暁斎との肖像画の描き比べを詳細に書き、暁斎の早くてしかも正確な人物描写にギメは感嘆している。

英国では大英博物館にアンダーソン・コレクションを残した外科医ウィリアム・アンダーソン、そして暁斎の弟子となり、“暁英”の号を得て、1911年に『河鍋暁斎ー本画と画稿』を出版したジョサイア・コンドル、西洋と日本の描き方の違いについて暁斎と問答をした記録、を『日本美術私見』として残した画家モーティマー・メンピスが挙げられる。
また、1903(明治36)年発行の『ブリタニカ百科事典』第10版では、暁斎が44行で紹介され、次の第11版でも歌麿43行、北斎41行、暁斎39行、広重38行で紹介されている。

ドイツで暁斎が受け入れられたのは、1880年代にパリやロンドンで発生したジャポニズムが入ってきた頃で、ギメとと暁斎の出会いもドイツ語に訳されたようだし、「暁斎漫画」「暁斎楽画」なども知られた。 主治医でもあった内科医エルヴィン・フォン・ベルツとは家族ぐるみで交際しており、ベルツ日記の暁斎に関する記載の一つには「現存の日本最大の画家である暁斎は、もう今日はもつまい」とある。

近年、暁斎の繪を最も早く購入したのは、文久3年から元治元年に来日したスイス使節団の一人エメ・アンベールであると云われている。 

アメリカでは、ボストン美術館をはじめフリア・ギャラリー、メトロポリタン美術館、ピーボディー博物館など、日本美術を所蔵している美術館には大抵暁斎作品が所蔵されている。

一方、日本に於ける評価は戦前、戦後で大幅に異なってしまった。 生前は、狩野派絵師として神社・仏閣などの制作依頼も多かったし、市井の評判も高く、生前の人名録や番付には必ず上位に名前が見られた。書画会ではいつも人気者であった。 没後も戦前においては、暁斎の評価は決して低くはなかった。 たとえば、昭和11年版『大日本人名辞書』(初版:明治十九年)に紹介された絵師の解説行数を見ると、暁斎は133行で、橋本雅邦の25行、狩野芳崖の5行とは比較にならないほどの記載量である。
ところが、戦後は美術の専門家でも知らない時代が到達した。 展覧会に作品が並ぶこともなく、たとえ展示されても作者不詳であったりした。
(河鍋楠美『曾祖父暁斎』より)

3.2 ジョサイア・コンドル (Josiah Conder)

 1852年(嘉永五)九月二十八日生まれ、1920年(大正九)六月二十一月 67歳で没。 英国人建築家。 
ロンドン生れ。 サウス・ケンジントン美術学校とロンドン大学で建築学を学ぶ。 後、ロンドン大学のスレイド・アート.クラスに通う。 1876年(明治九)、ソーン賞を受賞。
同年日本政府と雇用契約を結び、明治十年一月来日。 工部大学校造家学科(後の建築学科)教授、工部省営繕局顧問となる。 辰野金吾・片山東熊・曽禰達蔵ら日本の近代建築家を育て、開拓使物産売捌所(明治十四年)・上野博物館(同)・鹿鳴館(明治十六年)その他宮邸等も造った。 明治十七年、工部省の任期満了。 明治十九年より二年間、帝国大学工科大学講師。 退官後はニコライ堂(明治二十四年)や個人の邸宅を建てる。 明治二十六年に前波くめと結婚、また娘(ハル、本名ヘレン)もおり、日本に永住。 大正九年に東京で没し、護国寺に葬られる。
ジョサイア・コンドル「百舌図」
なおコンドルは、『日本の劇場』『日本衣裳史』『日本の山水庭園」など日本研究の著書を発表した他、明治十四年に宮内省主馬寮に勤務する山口融の紹介で暁斎に入門。絵日記に見られるコンドル
 明治十六年には「暁英」という号を与えられ、明治十七年の第二回内国絵画共進会に「大兄皇子会鎌足図」「雨中鷺図」の二点を出品し、褒状を得た。 翌年には暁斎と日光へ写生旅行に出る。 明治十九年の東洋絵画共進会では「鯉図」と「鷹二兎図」を出品して銅賞を受けた。 

『暁斎絵日記』によると、毎週土曜日がコンデル(河鍋家での呼称)の稽古日で、時には和服姿で暁斎の絵に見入ったり、腹ばいで絵を描いたりと、謹厳な教師とは違った面を見ることができる。 明治二十一年には、「ニシコンヤ丁 コンデエール」の文字とコンデルの顔を刻んだ判も使われている。 Painting and Studies by Kawanabe Kyosai(『河鍋暁斎-本面と面稿-』暁斎よりコンドルに贈られた「大和美人図屏風」右隻
暁斎没後、”Painting and Studies by Kawanabe Kyosai"(『河鍋暁斎-本面と面稿-』1911年)を著し、明治四十四年という早い時期に暁斎を顕彰した。


『河鍋暁斎-本面と面稿-』は、1. 暁斎の生涯、2.画材について、3.画法について、4.技法の実例、5.署名と印章、6.暁斎コレクション、の6章仕立てで、1章では愛弟子が親しく接した師の姿を、2~4章は文明開化の中で廃絶した日本画の画材、技法を克明に記録した極めて貴重なものである。 また、6章には彼の暁斎コレクションとして掛け物:82点、屏風:14点、額:6点、画帖:4点の写真が掲載される。


3.3 書画会と席画

 書画会とは江戸時代から明治前半において盛んに開かれた、書家や画家たちによる揮毫・展示会である。その始まりは、寛永年間(1789~1801)、鎌倉の僧・曇熙が始めたものといわれる。 当初の書画会は専ら文人たちが集まって詩を作り、絵を描いて慰みとした風雅な遊びであったが、江戸後期になると、著名な書家や画家を料理茶屋に集め、好事家たちから参加料をとって書画家に揮毫させる、書画家の自己宣伝、また生活の資とするための会となっていった。 会場も江戸後期には両国柳橋の河内屋や万八楼、明治時代には両国・中村楼(後の東京美術倶楽部)といった大きな料理茶屋で行われ、扇面亭や扇明亭のような周旋業者まで登場するほど盛況となった。
 狩野派は元来書画会での揮毫が禁止されていたというが、暁斎は当時流行の書家、画家たちとともに参加していた。
 席画とは、書画会や宴会などで、注文に応じて即興、即席で絵を描くことで、自分の画室で一人でササッと描いても席画とは云わない。 衆人環視、注文、即席を条件とする。 
 暁斎は書画会で一日に数十枚から二百枚を飲酒しながら、求められた画題を速筆で描いた。 弟子コンデルは「暁斎にとって、酒は決して怠惰無節制な悪徳を示すものではなかった。 彼はその極めて奔放なる空想、最も新鮮なる構図、及び大胆不敵な筆致が酒神バッカスの力によって生み出されたものであることを辨えていた」と云っている。 
 暁斎の席画には、その制作過程を見ることが出来ることもあり、明治期に来日した外国人は人気が高かった。 ドクトル・ベルツは『ベルツ日記』に、「暁斎を含む最も優れた画家たち三名は三時間で、各一平方米の大きさの画を二十枚仕上げた。 動物、植物、風俗、山水、戯画など、すべて嘘のような速さで。 どういう風にしてこのような画ができあがるかというのを初めて見た」と記述している。


3.4 本画と下絵

コンドルの『河鍋暁斎-本面と面稿-』の序文に以下の記述がある。
「暁斎はある席では極めて大胆かつ猛烈の速度で何枚もの作品を描きとばすことがあるかと思うと、ある場合は高度に装飾的な描法で極めて繊細精緻な制作に辛抱強く取り組んだ。 そのような作品となると、完成まで精励恪勤数ヶ月に及んだ。 寄贈を受けた「大和美人図」など、およそ六ヶ月もの間精力を集中して描き上げたもので、私はノートを何十ページも使ってその複雑な制作過程を記録しなければならなかった。」

暁斎は膨大な画稿・下絵を残している。 コンドルの記述にあるように、暁斎が構図、色付けなどに緻密な準備をしていたのが、明らか分かる。
以下に、その例を示す。


太田道灌 山吹の里図 右幅 高砂図


本画 下絵 本画 下絵

山姥図
本画 下絵-1 下絵-2


3.5 人物像

 曾孫娘の河鍋楠美の『曾祖父暁斎』によると、「一見豪放磊落にもみえるが、実際はむしろ繊細で臆病な小心者だったのではないかと思う。 その裏返しに飲酒して、様々な抑制から開放されて大胆になり、しまいには活力が出過ぎる、といったタイプであろう。」と書いている。
飯島虚心著『河鍋暁斎翁伝』によると、暁斎の性質は、「僕質にして頗る倫理に厚し。 能く父兄に仕え、特に母に孝行なり」といい、また先師前村洞和や狩野陳信の恩義を忘れず、両師の画像を仏壇に掛けて朝夕再拝した。 そして憐憫の情厚く、貧しい人を憐れみ、事物を感じて落涙することもしばしばあったと云う。 日課観音
また暁斎は信仰心も厚く、特に観音信仰があったようで、晩年には日課観音あるいは日課天神の像を毎日描いた。 描きためると浅草寺や上野護国院、あるいは知恩院や平河天満宮などへ奉納したといわれる。

暁斎の生きた時代は、文明開化の到来により、新しいものが次々に流入してきた時代で、暁斎はそれらをいち早く研究し、取り入れて描いた。 実際に、暁斎が集めた外国資料のスクラップ帳が残っており、西洋の文物を研究したことや、暁斎の進取の気性を如実に示している。 外国人との交流も盛んで、当時の多の画家と比べて類を見ない。 しかも外国人を対等に遇し、卑屈なところが見られない。


4.参考資料

芳賀 徹、他 編集「河鍋暁斎画集」(全三巻) 1994年11月4日 六耀社 
ジョサイア・コンドル著 山口静一訳「河鍋暁斎」 2006年4月14日 岩波書店
  (原書:Josiah Conder 「Paintings and Studies by Kawanabe Kyosai」)
・別冊太陽「河鍋暁斎」安村敏信監修 2008年5月4日 平凡社
・「河鍋暁斎と幕末明治の書画会」 成田山書道美術館・河鍋暁斎記念美術館 編
     2008年1月1日 発行  思文閣出版 
・「暁斎妖怪百景」 1998年7月10日 京極夏彦・多田克己編  国書刊行会
・「特別展覧会 絵画の冒険者 暁斎」 2008年4月~5月  京都国立博物館
 及川 茂著「最後の浮世絵師 河鍋暁斎と反骨の美学」 1998年12月25日 日本放送出版協会