Gallery - Ⅰ 碑帖・法帖




1.碑帖・法帖の魅力


にとって碑帖や法帖の魅力とは何なのだろう。

多くの書家、あるいは書を書く人々が碑帖・法帖に接するのは、書くための手本としてである。もともと碑帖・法帖が生まれたのも、名筆を手本として手元に置きたいという願望からである。それであるがために、大切にされ、伝来されてきた。

しかし、私は書を書くわけでもなく、これから書を学ぼうと云う気もない

木簡
玄宗皇帝の石台孝経 私が碑帖に引かれたのは、その文字であり、特に隷書の字体であった。木簡、竹簡、帛書の文字、そして乙瑛碑、礼器碑、曹全碑、玄宗皇帝の石台孝経、の隷書である。 書体としてもつ均衡美、安定性、装飾性、重厚さ。 やはりこれらが私を惹きつけた要素だろう。ついで、北魏の墓誌、顔真卿,褚遂良の楷書であった。 いずれも書を学んだことのない私にとって、名筆か否かは関係なく、その美しさであった。また、墨跡と違い、碑帖・法帖は文字が白黒のみで現わされていることもその魅力を強調していると思われる。
次に、私を捉えたのはいわゆる芸術振っていないことである。現在巷でみられる書は、書家と云われる人々が、「これが書の芸術ですよ」と謳う書道展のための書ばかりであり、形としての美しさはあっても中身が感じられない。 

碑帖・法帖として伝来されている書の作者は、いわゆる書家ではない。書を職業にしているわけでも、書で食っている人ではない。 書いた人は役人である。 書聖と言われる王羲之は寧遠将軍・江州刺史をへて、右軍将軍・会稽内史を勤めた役人である。顔真卿は内外の諸官を歴任し 監察御史に昇進した後、生来が剛直な性質であったが為に、権臣に疎んじられ、太守に降格される。しかし、安禄山の反乱に対し義兵を挙げ、皇帝の許へ馳せ参じ、乱の終止に貢献するも、宰相に疎んじられ、最後は捕殺された。このような生活者が書いた書だから素直に美しさを感じることができるのではないかと思う。
顔真卿の楷書
快雪時晴帖 もう一つ、私を惹き付けたのは、先人の名筆に対する愛着心、碑帖・法帖に対するコレクターとしての執念です。希少性に対するコレクターの異常なまでの情熱は、人間の性であり、私もその気があるため、そこに嵌まり込む人間、行為に堪らない魅力を感じるのです。 例へば、清の乾隆帝が王献之の中秋帖、王珣の伯遠帖とともに三希として珍蔵し, 現在台北の故宮博物院にある王羲之快雪時晴帖は28頁の折本ですが、快雪時晴帖そのものはたった4行で1頁、あとの27頁は乾隆帝直筆の御題と画、趙孟頫など書家の跋文、その他の題記、で埋まっている。この乾隆帝、単に趣味にうつつを抜かす愚帝ではなく、10回にも及ぶ遠征で国土を拡大し、文化面でも数々の業績を残す賢帝なのですから、大いなる魅力を感じざるを得ません。


2.碑帖・法帖とは

2.1 書の歴史概観

甲骨文 BC15世紀頃、殷代後期に占いの文字甲骨文、祭祀の文字金文(青銅器銘文)として、漢字が出現した。BC11世紀末、周代に入ると甲骨文は廃れ、金文が時代の進展とともに種々の用途に使われ急速に増加した。BC500年前後春秋戦国になると、銅器のほか、木簡、竹簡、帛書(絹布)と媒体の多様化につれ、書体の分化が起こった。  金文
篆書 BC221年、秦の始皇帝が中國統一を果たすと、度量衡、貨幣を統一するとともに、他国の文字を廃し、秦で使われていた文字を基準に篆書体を統一文字にすることを宣した。ここで篆書体の典型が確立するとともに、事務処理に向いた簡略な書体として、まだ篆書の構造が残っている隷書(秦隷)が出現した。 隷書
草書

BC206、前漢が秦を滅ぼすと以降、隷書が発展し、漢隷と云われる隷書が確立される。 一方で隷書が正体化し書き方の様式化が進んだため、より効率的で簡略な草書行書が生まれてきた。後漢時代に入り、AC100年頃製紙法が大成されると、私的な用途(書簡など)に紙が使われる様になり、行書、草書、が一気に広がった。この時代までは、後世に残されたものは、金文、木簡、竹簡、帛書であったが、後漢末期になると、墓碑を中心に隷書を主とした石刻が現れる。   

楷書 AC220年、魏建国から始まる三国鼎立時代に隷書が発展し、楷書が生まれ、五書体がここで揃った。続く晋時代には王羲之が現れ、書が芸術性と規範性を与えることになった。晋時代からは墨跡資料が残されているが、真蹟は極少なく、双鈎填墨(*1)よるものか、刻帖(*2)によるものが多い。また、魏が立碑を禁止してから、碑の形を小さくして埋めた墓誌銘が出現したことが挙げられる。
*1:原墨跡に薄い透明性のある紙をあて、カゴ字とり(字の形取り)
         を行った後, 形の内を墨で埋め、字を写し取る技法。
*2:同様の手法で、石面に原墨跡を写し取り、刻して原版として
         刷りを行 い書籍化したもの。 
432年、南北朝時代になると、漢民族が支配する宋、梁などの南朝では隷意を含んだ楷書の碑石が建碑された。一方鮮卑族が支配する北魏などの北朝では、碑、造像記、墓誌、摩崖、写経が豊富になり、楷書が確立された。
581年、隋が南北朝を統一し、618年 唐が建国されると文化の栄華の時代に入った。唐の太宗は王羲之を溺愛し、王書を蒐集し、多くの摸本がつくられた。欧陽詢虞世南褚遂良の三大家、顔真卿らが輩出し、楷書が完成した。太宗は行書の碑を建て、高宗は王羲之の行書を集字した「集字聖教序」を行書の標準体として天下に示し、行書流行に大きな影響を与えた。文化爛熟期の玄宗期には、草書も尺牘のみならず経典にまで広く用いられ、草書を大書する自由奔放な狂草も生まれた。 狂草
960年、宋(北宋)が興ると、宋の太宗は王羲之などの書を集帖の祖と云われる「淳化閣帖」の形でまとめ木刻し、書を学び、鑑賞する方式を確立した。一方で、科挙に唐では楷書が重視されたが、宋では重視されなくなり、行、草書が中心となり、蘇軾、黄庭堅、米芾らの名筆家が現れた。書は鑑賞あるいは文学の表現形式として確立し、条幅形式(巻物)が始まった。また、木版印刷が盛んになり、その字様が宋朝体となった。 条幅形式
長条幅形式

1368年に建国された明の時代は書芸術が更なる成長と変貌を遂げた時代である。また、現在最も一般的な揮毫様式の縦長の紙幅に何行もの文字を連ねる長条幅形式、あるいは篆書や隷書など古代の書体を作品の素材として扱うこと、が定着した。文徴明、董其昌、王鐸、らが伝来の伝統書法に新しい息吹を吹き込んだ。

1644年、満州族が建国した清王朝は漢人文化を尊重し、自らこれに同化する策をとった。書の世界では、まず名跡の模本や法帖によって書を学ぶ帖学が主流をなし、ついで漢、唐の碑石の拓本を範とする碑学が潮流となった。その後、書の表現は加速度的に多様化し、まさに百花繚乱の状況を呈する様になった。


2.2 碑帖


碑石

拓本は、石碑や器物などの文字や紋様に紙を張り付け、墨を使って写し取ったものです。手本として手元に置きたくても、碑は動かせないため、拓本の技術が生まれたのでしょう。拓本には乾拓と湿拓とがありますが、一般に拓本と云うと、用紙を湿らせ、碑面に密着するように水張りし、墨のついたタンポを打って写し取る湿拓を指します。
拓本は、墨色を濃く、薄く、荒く、繊細にすることによって変化が生じ、墨を厚く強く打ち込むことによって、線を細く痩せさせることもでき、同じ対象でも味わいの異なったものに表現できる妙があります。

碑石全体の一枚拓本を全搨本、整拓本と云い、切り張りして手ごろな折本に仕立てているのを剪装本と云い、碑帖はこれを指します。

整拓本
碑の拓には、原刻、重刻、翻刻、偽刻がある。
  - 原刻 : 初めて立てられた碑石。
         その拓本を原拓という。
  - 重刻 : 原刻碑石が焚亡した後に、
         再刻された碑石。
         重刻には、原拓に拠るもの、旧拓に拠るもの、
         重刻を模写したもの、などがある。
  - 翻刻 : 原石が存在するにも拘わらず、再刻したもの。
         原碑が僻地に在って、採拓が困難な場合、あるいは
         原碑に破損が多い場合、などに行われた。
  - 偽刻 : 偽造。
剪装本

碑帖は拓本が作られた時期が古い方が価値があるとされる。 それは、碑石が年月を経るにしたがって刻された文字が磨耗したり、傷が入るためである。一般に年月を経ると、文字が太めになる傾向があるため、原拓、旧拓が貴ばれ近拓は価値が下がると言われます。

碑帖は唐代以前に既にあったと云われるが、現存するのは宋代からと云われている。碑帖が日本に本格的に伝来したのは江戸時代元禄の頃、明末清初の激動時と言われています。近衛家を始めとする公家、寺社が収集したようです。明治初年に京都大宮御所で碑法帖の展覧会が催されたときには千点以上あったと云われる。 その頃、書家楊守敬が来日し、日本書壇に大きな影響を与えるとともに、持参の碑帖の多くを譲渡したと云われる。また、明治半ば、書家中村梧竹が渡清し多量の碑帖を持ち帰っている。

明治の終わり頃から碑帖収集が盛んになり、書家中村不折は大量に集め、後の書道博物館の基礎を作った。 また、三井家は、莫大な資金を投入し、中国より優れた碑本を購入し、現在の三井文庫聴冰閣三井記念美術館)のコレクションをつくった。

2.3 法帖

古人が書を学ぶのに手本をもちいたが、この手本のことをひろく法帖とよんでいる。法帖のはじめは主として書をよくする人の尺牘(手紙)などの優れたものを手本としてもちいたのによる。また、法書とも呼んでいる。法書と法帖とは意味の上では差はないが、唐以前、主として墨書した真蹟法書と云い、唐後半期以後、拓本形式の手本法帖と呼んでいる。 したがって、法帖といえば拓本形式のものを意味するのが普通である。しかし、手本となる書を某々帖と言うことが多く、この場合は墨書した法書をも含めている。
すなわち、鑑賞用として、あるいは書の手本として古来の書家の書跡を石や木に刻し、その拓本をとって帖仕立てにしたものを法帖と云う。複数の書家の書跡を集めたものを集帖、一個人の書跡に限るものを専帖、一種の書跡のみを単帖と呼ぶ。


いつ頃から法帖が始まったかは不明らしいが、弘法大師が唐から招来した書の中に実物は現存しないが、蘭亭碑というのがあったというから、中唐には蘭亭序の法帖が既にあったらしい。また、これも王羲之であるが尺牘集である十七帖があったことが晩唐の書籍に記録されており、このような単帖の法帖は唐からと推測されている。(中田勇次郎著「歴代法帖の流れ」別冊墨第2号所載 )


宋代になると、宋の太宗が模勒、棗の木に刻入し拓させた淳化閣帖が集帖の祖として現れる。十巻よりなり、歴代帝王、歴代名臣,諸家古法帖及び王羲之、王献之を収めている。原拓本は極僅かしか拓されず大臣たちに下賜されたと伝えられるが、原版は宗時代に毀され、原拓本は極めて少ない。その希少な原拓の余香を残すと云われるのが、中村不折が清の李鴻章から入手した「夾雪本」であり、紙全体に虫食いがあり、白雪が舞うような風情から夾雪本と名付けられている。(書道博物館に蔵されている)     

ところが、2003年7月「上海博物館が米国の収集家から淳化閣帖原本4巻を450万ドルで買い戻した」、とのニュースが流れた。 これが、06年1月から東京国立博物館で開催された「書の至宝」展に出品された。 棗木の横裂紋やこれを補修した銀錠紋などが明らかに見えることから原刻拓本に間違いないと言われている。
淳化閣帖は宋代を通じて広く流行し、その翻刻本は数十種もあらわれた。これらを中心に各種の集帖が流行したらしい。
宋代後半には専帖が盛んになり、蘇東坡、米芾、王献之、顔真卿などの専帖が盛行した。明代には江南に多くの文人が現れ、書画への愛好が深まり、集帖を家刻するものが出現した。明代の集帖の特質は原蹟の本文だけではなく、それを鑑賞した諸名家の題跋をも併せて刻していることである。

三希堂法帖 清代は近世の学術文化が最も栄えた時代で、書において国家的な事業が多くなされ、書の文化を集大成した。乾隆帝がその蒐蔵品を中心に三希堂法帖をつくり、宋の淳化閣帖を改訂した欽定重刻淳化閣帖を完成させた。また、民間の文人学者がその家蔵または鑑賞を経た名品を集めて、家刻の集帖を刊行している。 欽定重刻淳化閣帖



3.碑帖


私の好きな隷書楷書の碑帖を掲載しました。 クリックすると、各帖の解説、写真にジャンプします。
註.1: 碑帖の写真は、文字の美しい碑葉を各4葉づつを目処に掲載します。
註.2: 原碑石の写真の一部については、小林 松篁さんのホームページにリンクを貼らして頂いております。
李固残碑 隷書 後漢
孟琁殘碑 隷書 後漢
乙瑛碑 隷書 後漢
礼器碑 隷書 後漢
張景土牛碑 隷書 後漢
西嶽華山廟碑 隷書 後漢
鮮于璜碑 隷書 後漢
史晨碑 隷書 後漢
熹平石経 周易 隷書 後漢
熹平石経 隷書 後漢
曹全碑 隷書 後漢
北海太守為盧氏婦刻石 隷書 後漢
袁博残碑 隷書 後漢
朝侯小子等字残碑 隷書 後漢
営陵置社碑 隷書 後漢
曹眞殘碑 隷書
王基殘碑 隷書
菅氏夫人墓碑 隷書 西晋
皇帝三臨辟雍碑 隷書 西晋
始平公造像記 楷書 北魏
魏霊蔵薛法紹造像記 楷書 北魏
元羽墓誌 楷書 北魏
元楨墓誌銘 楷書 北魏
元顕儁墓誌銘 楷書 北魏
崔敬邕墓誌銘 楷書 北魏
元珽妻穆玉容墓誌銘 楷書 北魏
司馬昞墓誌銘 楷書 北魏
宣武帝嬪司馬顕姿墓誌銘 楷書 北魏
元祏妃常季繁墓誌 楷書 北魏
元文墓誌 楷書 北魏
馮邕妻元氏墓誌 楷書 北魏
美人董氏墓誌 楷書
馬穉及夫人張氏墓誌 隷書
孟顯達碑 楷書
蘇孝慈墓誌 楷書
太僕卿元公墓誌銘 楷書
元公夫人姫氏墓誌銘 楷書
龍華寺碑 楷書
孔子廟堂碑 虞世南 楷書
九成宮醴泉銘 欧陽詢 楷書
孟法師碑 褚遂良 楷書
雁塔聖教序 褚遂良 楷書
善才寺碑 魏栖梧 楷書
石台孝経 玄宗皇帝 隷書
郭氏家廟碑 顔真卿 楷書
多宝塔碑 顔真卿 楷書
麻姑山仙壇記 顔真卿 楷書
顔勤礼碑 顔真卿 楷書
顔氏家廟碑 顔真卿 楷書
玄秘塔碑 柳公権 楷書
圭峯禅師碑 裴休 楷書
神策軍紀聖徳碑 柳公権 楷書
宸奎閣碑 蘇東披 楷書

井真成墓誌 楷書 参考


4.法帖
 

墨跡法帖石刻法帖を掲載します。

                                      

蘭亭序 王羲之 行書 東晋 墨跡
快雪時晴帖 王羲之 草書 東晋 墨跡
王羲之尺牘集 王羲之 草行書 東晋 墨跡
中秋帖 王献之 草書 東晋 墨跡
伯遠帖 王珣 行書 東晋 墨跡
忠義堂帖 顔真卿 石刻
淳化閣帖 (太宗) 木刻
潭帖 (劉沆) 石刻
寳晋齋帖 (曹之格) 石刻
餘清齋帖 (呉廷) 石刻
快雪堂帖 (馮銓) 石刻
欽定重刻淳化閣帖 (乾隆帝) 石刻
三希堂法帖 (乾隆帝) 石刻
墨妙軒法帖 (乾隆帝) 石刻
学古齋隷書 (銭泳) 隷書 石刻
呉譲之 臨書 呉譲之 隷書 墨跡
銭泳 臨書 銭泳 隷書 墨跡

            注:()は編者



5.関連リンク

 5.1中国書画関係のサイト


小林松篁さんのホームページ 小林さんが撮られた中国碑石の膨大な写真があります
書を楽しむ法 多木さんの「書を楽しみたいと思っている人のためのサイト」
琴詩書画巣 荒井さんの中国書画、等に関するサイト
小林堂 小林靖幸さんのサイト
古美術とその他の話題 山科玲児さんのサイト
現代大陸の中国画家 山本和子さんのサイト
書逍遥 blogサイト
一枝堂雑録 blogサイト
Syodo blogサイト
中国碑帖網 北京古代石刻芸術研究会の中文サイト
中国碑帖拓片網 中文サイト
中国書畫家網 中文サイト
中国書法芸術網 中文サイト
中華博物 中文サイト
翰文軒 中文サイト

 

 5.2 中国書画関係の博物館、美術館、大学のサイト


京都大学石刻拓本資料
書道博物館 中村不折所蔵の書関係資料を基にした博物館
東京国立博物館 書跡
大門碑林公園 西安碑林と曲阜碑林の翻刻碑石を展示する山梨県の公園
上海博物館 中文サイト
台北故宮博物院 中文サイト