無為庵主人の独り言

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2005年11月12日(土)
サイトの移設・統合 遅々として進まず

移転作業は遅々として進まない。 やっと、「無為庵乃書窓」と「無為庵乃書窓Ⅱ」の2/3程度を終わったところ。 前途遥か、である。 
その上、私の常用するブラウザー Firefox と デファクト・ブラウザーInternet Explorer とではHPの記述言語HTML、特にスタイル・シートの解釈、に違いがあることが顕在化してきた。 このサイトは自分用に作っているのだから Firefox oriented で作って良い様なものだが、訪問して下さる方もいらっしゃるので、IEで見て下さっても良いようにしなければならない。 ページをつくる毎に、両ブラウ ザーで検証、そして修正、というプロセスが付け加わった。

2005年11月7日(月)
サイトの移設・統合

そろそろ「無為庵乃書窓 Ⅵ」“北斎”の準備をしようとしていたところ、本サイトの最初の笑覧依頼をした中・高校の同級生Y氏から、安いレンタル・サー バーのサイトが見つかった、との連絡が10月末に入った。Y氏も私と同じレンタル・サーバー・サイトを使っているが、パンク気味で増設すべく安くて、信頼 性が高いところを探していた所、現行のサイト(300MBx2)とほぼ同額で5GBのサイトを見つけた、とのこと。 即ち、約1/8ということ。

私も現在のサイト、やはり300MBx2、ではパンクの惧れが出てきているので、「無為庵乃書窓 Ⅵ」を作るに当たっては、もう300MBをレンタルしな ければと考えていた所なので飛びついた。特に、現行の300MB/1サイトでは、いつも容量を気にしながら画像の枚数、画質を考える必要があり、かと言っ て大容量のサーバー・サイトはレンタル料が大幅に高価になるので、困っていたところであった。

早速、申し込んだ。URLも現在のように、レンタル・サーバー会社のサブ・URLではなく、独立のURLを取得できる。日本でも同様なURL取得・サービ スがあるが、取得、維持だけで結構な料金を取られる。それが、この米国サイトでは無料サービス中なのである。 日本は米国よりブロードバンド環境は進んでいる、とは言いながら、これらのサービス料金が日本の約1/10 とは!
さらに、この米国の会社は日本法人でも同様のサービスをしているが、5GB使うと、単純計算では料金はなんと250倍。 付加的なオプションが付いているとは云え、考えられない!

最初は、単に現行サイトから移設するだけの心算であったが、いざやろうとすると、上手くいかない。なんと、ファイル名にスペースが入っていると、サーバー が受け付けてくれないのだ。確かに、かってはファイル名には、スペースを入れることはできなかったが、OS、アプリの進歩により、融通性が大幅に増してき た。最近の日本のサーバーはスペースが入っていても受け付けてくれるので、ファイル整理に便利なため、私はやたらとスペースを多用していた。 ところが、 この米国サーバーは受け付けてくれないと云うのだ。 現サイトでは、トータル10,000ぐらいのファイルを使っている。多分その9割はスペースを使って いる。これをスペースなしに変更し、リンクを張り直さなくてはならない。 多分、10万回ぐらいのクリック操作を必要とする。

しかし、5GBを現行料金で使える、とあっては簡単に諦められるものではない。ご隠居さんには、時間の制約はない、挑戦することに決めた。

そうすると、どうせ膨大な作業をするなら、現在のサイトの構成、画面構成を改善したくなった。現在のものは、この2月、マニュアル本片手に作り始めたの で、極く初歩的な技術しか使っていない。構造もお粗末で、たとえばある碑帖から別の碑帖を見たくなると、最低2クリックを必要とする、ある画家から他の画 家へ移るときにはやはり2クリックを要する。せっかくバーチャル化したのだから、いずれも“1クリック”で済ませたい。

やることにした。
しかし、始めると大変。この10日ほどでやっと1/5程度を何とか移設できた。しかし、いろいろな試行錯誤を経ながらやっているため、ミスの混入もかなり 在りそう。また、できた心算の画面を見ると、その傍から改善したいことが次々に出てくる。エンドレスのループに入ってしまいそう。

この私の状況を知ったY氏から「少しずつ、そろりそろりと行かないと身体を壊しますよ」との注意を頂く昨今。

そろりそろり、でいきます。今年いっぱいは移設に掛かり、「北斎」は来年です。

2005年10月26日(水)
タンカ、イコンとの出会い
私は、カトリック系の中学、高校に通った。中学3年の時洗礼を受ける直前までいったがどうしても自分を納得させることができず、神父さんのところへ受洗を 辞めると言いにいった。その時、延々と説教され、少年ながらにキリスト教に対する疑問が大きくなったのが、私の宗教に対する初体験になった。。

家は元々浄土真宗であったが、母はプロテスタントの洗礼を受け、弟は私と同じ学校に行き、カトリックの洗礼を受けた。 というわけで、私だけが無宗教とい うことになったのだが、宗教に無関心になったわけではなく却って関心が深くなった。大学時代から、仏教、キリスト教、そして深くはないがイスラム教、ヒン ズー教の書物を読むことが多くなった。しかし、私にとっては、思想という形で捉えることはあっても、信仰という形で捉えることが出来ないまま、現在に到っ ている。

戦争中疎開してあった家代々の仏壇も処分し、謂れのあるご本尊の仏像だけが、今この書斎の片隅に大きなガラスケースに収まっている。私にとって、美術品の 一つ、として眺めているのであり、祈り、信仰の対象ではない。

以上の経緯もあり、タンカ、イコンの存在は知っていたが、本物に触れたのは仕事で海外出張していた時であった。タンカは、確か80年台の初頭、インドのボ ンベイ(今のムンバイ)でタンカ専門店に寄ったとき、強烈な印象を受け、買い求めたのが最初である。これはチベットのものではなく、ネパールのものらし く、また布地ではなく紙地の新しいものであったから、安く買うことができた。その店には多くの素晴らしいタンカがあったが、その頃の自分には手の出ない値 段であり、購入できなかった。昨今の値段を見ていると、無理をしてでも買っておけば、と後悔している。
以降、中国でもタンカに注目して探したが、いずれも質が悪く、購入する意欲が沸かなかった。一度、私がタンカに関心があることを知った中国のビジネス・ パートナーから、お礼にとチベット・タンカを贈呈されたことがあったが、これも質が悪く、残念ながら愛蔵するレベルのものではなかった。最近は、ネット上 のショップで、新しい物ではあるが美術品として良質なものが時々出ており、欲しくなることがあるが、飾るスペースもないので購入を諦めている。

イコンは欧州出張の折仕事の合間に訪ねた何処かの美術館、博物館で見たのが最初だったと思う。本物を購入したことはない。

タンカとイコンは、いずれもマイナーな宗教で信仰の対象とされる図像であり、その根底にある思想は全く異なるが、図像に対する制約、規律など似通ってい る。美術という視点からは、タンカに軍配が挙がると思うが、美術品として扱うのは、もともと邪道であり、信仰者に失礼な態度であると思っている。したがっ て、「無為庵乃書窓Ⅴ」では美術品という観点からのコメントは付けず、宗教面からの解説にとどめた。
2005年10月11日(火)
「無為庵乃書窓Ⅴ」の開設

この3週間、「無為庵乃書窓Ⅴ」の製作を行い、何とか8割方終わった。 後の2割はぼつぼつ進めることにし、アップすることにした。

また、“北斎漫画”を「無為庵乃書窓 Ⅵ」として今年中につくることにした。 

2005年9月19日(月)
サイトのメンテ

約2ヶ月,サイトのアップデイトを中断していた。一応自分では8月28日に書いたように理屈はあるのですが、単にサボっていたのが実情のようです。

再開当たっては、新規アップは後回しにして、既存ページのメンテナンスから始めました。 本日は、「無為庵乃書窓」の「宋文治」に9点追加、「無為庵乃書 窓 II」の「ギュスタフ・モロー」に8点追加 及び予てから気になっていた画質の悪いものの差し替えを行った。

なお、7月20日に書いたボランティア社長はやっとこの9月から退任できることとなりました。 しばらくは顧問という立場で手伝うことにはなりますが、精神的にはこれで本当の“ご隠居さん”になれそうです。

2005年8月28日(日)
夏休み

この一ヶ月強、「無為庵乃書窓 X」サイトつくりを完全に中断し夏休みに入った。と言っても、サイトつくりを始めてから、それに時間を取られ、ややおろそかになっていた読書と映画鑑賞に集中しようとしたに過ぎません。

読書は雑読ですが、出来れば一日一冊、映画(DVD)は一日一本、という調子でこの一ヶ月を過ごしてきました。

ついては、9月からサイトつくりを再開する予定で、あと数日、夏休みの最後をラストスパートに入ります。

2005年7月20日(水)
無為庵主人とは、こんな人です -8

3年前退任することを決めた時、完全に隠居生活に入る心算で、本社役員を退任すると子会社の社長につくという通例を断り、隠居生活に入る準備に掛かっていた。
しかし、丁度役員退任の株主総会の前日に、突然飛び込みが入った。業界の友人達がつくったベンチャー支援会社の社長をやれとの依頼であった。

確かに半年以上前に業界の十人足らずの親しい仲間が集まった時、ベンチャー支援会社をつくろうではないかという話になり、当然お前も入れとの話があった が、「老人たちが集まっても役に立つわけはない」と、にべもなく断った経緯があった。

仲間では私だけが入らず、半年前に会社を設立し、役人を辞めていわゆる待機中の仲間を社長にしてスタートしていた。しかし、6月になって、この社長がある 民間企業の社長になることが決まってしまった。他の仲間は、全員未だ現役の企業経営者なので、社長になれない。ところが、 「うまいことにお前は現役をひいて、子会社にも行かないとのこと、一番の年長者でもあるのだから、引き受けよ」との要請であった。
私は、「今の会社を辞めるだけではなく、IT業界という世界から離れたところで隠居生活をすることに決めたのだから、引き受けられない」と断った。しか し、今までの恩をどう考える!、とか何とか切羽詰っていたらしく粘られ、「それでは一年間の名義貸しだけなら」と迂闊に受けてしまった。

退任後、一ヶ月ほどしてよく考えると、名義貸しの、無報酬の社長とはいえ、代表取締役となれば商法上の責任はあるな!と。その辺を聞きたくて、うかうかと 会社事務所まで出かけてしまった。そうすると主要設立メンバーが待ち構えていて、取締役であれば株式を持たねばおかしいのでは?、と株を持たされ、ビジネ スプランはどうなっているのと言えば、それを考えるのが社長では?、とずぶずぶ深みに入ることになってしまった。

何とか一年間勤めた後、約束の1年が過ぎたから、というと、メンバー誰も未だ現役を引かないから、もう一年という。3年目も誰も現役を離れたがらず。

今年、もう限界と「身体の調子も悪いので、社長をひく。顧問として手伝うから。」と宣言し、メンバーも了解してくれていた様であったのに、先日は9月に重 要なイベントを控えているのだから三ヶ月待て、ということになってしまった。

以上恨みがましく書いたが、ボランティア社長を引き受けて、良かったことが3点ある。

第一は、現役から完全隠居に入ると言うハード・ランディングではなく、3年掛けてソフト・ランディングできたこと。ハードでも上手くいっていたかもしれな いが、ソフトの方が精神的にリスクは少なかったことには違いないから。

第二は、四十数年一つ会社で一エンジニアーから、代表取締役までやり、狭い業界でのビジネスとは言え、自分ではそれなりにビジネスを分かっていたつもり が、ベンチャー・ビジネス、ベンチャー・キャピタルなどと付き合いをして、なんと自分は狭い世界しか知らなかったのか、ビジネスの何たるかを知らずにいた のかと痛感できたこと。この年になって、この立場になってそれが分かっても、今更どうしようもないとはいえ、もし知らぬままに終わったのでは自分が哀れ だった、遅ればせながらでも知ることができ良かったと、思わずにはいられない。

第三は、古女房を「亭主在宅ストレス症候群」に罹らせずに済みそうだ、ということ。退職して亭主が一日中在宅すると、女房にストレスが掛かり、この病気に 陥る例が多発しているとのこと。この病名は90年代初めに病理学上、正式に命名された病名らしい。外出好きな人なら問題ないが、私のように外出嫌い、運動 嫌い、在宅好きの亭主の場合は最も罹り易いらしい。その点、今まで少なくとも2日/週はPMだけとは言え、出社していたので、これもソフト・ランディング した形で女房の罹病の確率は大幅に減ったと思っている。

2005年7月9日(土)
「無為庵乃書窓Ⅳ」の開設

新たに300MBのスペースを買って、まだ1/4しかできていないが、「無為庵乃書窓Ⅳ」をオープンした。
一連のHPを DeskTop Library としてつくりつつあるが、「無為庵乃書窓Ⅲ」をつくっている時に、あらためてつくって良かったと実感できることがあった。
もう30年以上も前に買った画集の中から、HPに入れる画像を写真に撮ろうとした時である。ここ十年ほど開けたことがなかった画集である。本棚から出そう として、もう少しでギックリ腰になるところであった。大版の豪華本で重さが数Kg, 老人にはとても出し入れができないレベルであった。また、PCのディスプレイ 2台が鎮座まします書斎の机上に載せられる限度を大幅に越えている。写真を撮るのにまた大変で、絵によっては折り畳まれて収納されているため、伸ばすと、 簡単に写真が写せない。椅子を並べた上に三脚を立て何とか撮影できた。
しかし、HP化してしまえば、マウス・クリックで何時でも簡単に見ることができる。デジタル化のメリットを痛感したところである。

2005年6月24日(金)
またまた、新サイトの開設

またまた、「無為庵乃書窓Ⅱ」がメモリー・パンクに陥り入りそうになったので、日本の画家たちを「無為庵乃書窓Ⅲ」として、例の無償サイトにつくることにした。

また、「無為庵乃書窓Ⅱ」に入れ切れなかった欧米の画家(いわゆる幻想画家)たちのサイトを「無為庵乃書窓 Ⅳ幻の美」、予てより作成予定のタンカとイコンのサイトを「無為庵乃書窓 Ⅴ祈の美」としてつくることを決めた。

このため、サイト数が増えそうなので、各サイトのトップ・ページに無為庵乃書窓 書棚マップを置くことにした。

2005年5月30日(月)
新サイトをサブサイトへ移設

無為庵乃書窓 II 」をかってのプロバイダー無償サイトにつくってみたが、画質を良くしようとすると、所要ディスク容量が予定より増えそうで、このサイトではパンク必至と見込まれる状況に到った。 

一方、この「無為庵乃書窓」のサイトはまだ100MB以上の余裕があるため、「無為庵乃書窓 II 」を、このサイトのサブサイトに移設することにした。

2005年5月22日(日)
新サイト「無為庵乃書窓 II」の開設
本サイトにアップした中国碑帖・法帖、中国國画は"清々しい美しさ”を持ち、私の気持ちを和らげ、隠居生活を穏やかなものにしてくれている。

しかし、人間という奴は勝手なもので、時々たまらなく物足りない気持ちになる。そんなとき、若い頃に耽溺した"まがまがしい絵画”が無性に懐かしくなり、 本棚から画集を引っ張り出して見ている。やはり、「清濁」いずれもが必要なものらしい。

それで又もや、DeskTop Library をつくりたくなった。最初、プロバイダー無償提供のサイトで本HPをつくったが、メモリ容量がパンクし、現サイトに移設した。その無償提供サイトが容量は小さいが空きのままになっているので、ここにつくることにした。

「清の美しさ」に対する「濁の美しさ」とでも言おうか。昨日から工事を始めたが、本サイトの実績から、使いものになるには2ヶ月後、という感じか!

新サイト名を「無為庵乃書窓 II」とした。
なお、サイトのサイド・バーに、「無為庵乃書窓 II」へのリンク・ボタンを設ける。
2005年5月12日(木)
無為庵主人とは、こんな人です -7
なぜ「無為庵ブログ」をつくったのか、自分に問うてみた。

どうも、リタイヤー後3年も経ち、日頃考えていることを発散するところがなくなった事が主原因のように思える。現役の頃は、仕事そのものの話でなくとも、 回りの人たちといろいろ話をしていた。会話することにより、自分の考えを反芻していたようだ。

誰かに聞いてもらいたい、と云うわけでもなく、考えを形にして反芻することが必要らしい。また、人と接することがあまり好きでない性格のようで、求めて人と接し会話する機会を得ようと云う気もない。

ブログでは、見ず知らずの人からコメントを貰ったり、トラックバックを受ける機能があるが、正直云って好まないし、きたら恐怖を感じる。と言っても、現在 ブログは日本だけでも何百万サイトもあるそうだから、コメントされる確率は限りなくゼロに近いことが救いだ。

それなら自分のPCの中で書いていればいい様なものだが、あまりに暗い感じがするので、ブログというかたちを借りているようだ。たしかに、ここ1年ぐら い、このPCの中にかなりの文章を書いたが、いずれも書き散らしたというか、文章の形さえ取れていないものが多い。その意味では、ブログは誰か見る人がい るかもしれないと云うことで中身はともかく、形だけは文章にしなくては、という気持ちが働くようだ。
2005年5月7日(土)
無為庵Blogの開設
無為庵blogを開設し、「無為庵主人の独り言」はこのサイトに関係する内容に限定することにした。したがって、前に書いた「中国の反日運動云々」もblogの方へ移設した。
無為庵blogのURLは、http://muian.exblog.jp
なお、本サイトのサイド・バーにも blogへのリンク・ボタンを設けた。
2005年4月5日(火)
無為庵主人とは、こんな人です -6

このホームページ開設がナンセンスであったことに今気がついた。そもそも、開設の趣旨は「書に関心のない人」、「中国現代国画に関心のない人」に、書を、国画を知って貰いたくてつくった。しかし、アクセスをして貰いたい人がこのインターネットのウエッヴ・サイトをアクセスすることはあり得ない、と云う単純な事実を、つくり始めて2ヶ月弱経ってやっと気がついたということである。

  HPのトップ・ページの開設の趣旨に次のように書いた。
  自分で絵を描かない人でも、古今の絵画を見て、楽しみ、愛でます。多くの人が美術館、美術展に行き、絵を買い(たとえ複 製でも)、自宅で楽しんでいます。芸術とは、本来そういうもので、音楽もそうです。 ところが、書に接するのは、現在書を書 く人、書こうとする人にほぼ限定されていると云っても過言ではありません。書は閉鎖された芸術の様を呈しているように思われます。
   本サイトは、書を書かない人にも、書は万人に開かれた芸術であることを知って貰いたくて、碑帖、法帖を中心にその魅力を紹介すべく、つくりました。(私、 無為庵主人も、書は書けませんし、学んだことはありません)
中国絵画(いわゆる国画)については、古画は日本画の祖としてよく知られていますが、現代の国画は日本にはあまり紹介さ れていないこともあって、知らない人が多く、残念でなりません。本サイトでその一端を紹介したく思います。


確かに、インターネットは、アクセスする人の関心あるテーマがどんなに特殊なテーマであろうとそのテーマを含むウエッヴ・サイトがあれば、ウエッブ検索という手段を通じて、世界中の何百万のサイトから、セレクトしてくれる。しかし、関心を持たない人にアクセスを勧誘する手段は持たない。
店舗であれば、たまたま通り掛った人がふらっと立ち寄ることがあり、書籍であればたまたま表紙に釣られて手に取ることはある。すなわち、実世界では”たま たま”と云う偶然性があり得るが、インターネットでは”たまたま”はあり得ない。

一度は廃止することも考えたが、このサイトを自分のためのデスクトップ・ライブラリ」 にすることにしました。 このサイトをつくりながら、碑帖や画集を本棚から出して、目的の見たいところを探すのに結構時間と手間が掛かったことを考える と、ライブラリ化しておけばいつでも見たいものがすぐ見れることに気が付いたからです。勿論、わざわざHP化する必要はなく、PC内デスクに作っても同じ ことができるはずですが、使いやすくするためには、結構大変そうなことが分かり、このHPのままでいくことにしました。

HP化のとき、不特定の人がアクセスされることを想定し、ディスプレイ解像度を一応XGA”1024x768”を前提につくったのですが、今後、私のデス クトップにミートするようSXGA”1280X1024”向けに徐々に変えていこうと思っています。

2005年3月30日(水)
無為庵主人とは、こんな人です -5

2月初旬、暇に任せてIBMのホームページ・ビルダーをインストールしてマニュアル本片手にホームページつくりに入った。当初6月公開を目処にスタートし たが、予定より進捗し、形ができたので、かねてからホームページを開き、中学/高校の同期会サイトを管理維持している友人に笑覧依頼を出した。

作成で一番時間を喰ったのは、写真撮影とPhotoshopによるゆがみ、色修正やサイズ合わせであった。 額装されている国画の撮影では、額を外し、原 画を取り出しての撮影に手間と時間が取られた。特に、自分で原画の寸法を測って、額縁を購入して額装した物は裏板を外すだけで済んだが、表装されていない 薄い原画の取り扱いが難しく、原画を額屋に持ち込んだものは、額屋が裏板を釘付けし、さらに厚紙で密封してくれたこともあって、原画を取り出すだけでも大 変な労力を強いられることになった。これらは撮影後元に戻すのが簡単にできず、ガムテープで裏留めのままになっており、近い内に額屋へ持ち込まなければな らない状況にある。
また、写真のサイズ合わせは、解像度の違うデスクトップPCとノートPCで確認しながらやったため当初は大分手間をとられた。

中身が写真で、できるだけ美しく見て貰いたいこともあって、大きめの画像で低圧縮にしたため、あっという間にサイトのメモリー量が増え、当初はインター ネット・プロバイダーの無償提供してくれるホームページ(50MB)を使うつもりでいたが、無償提供範囲を超えてしまった。容量追加は有償となり、結構高 額になるため、移転先の検討に入った。容量限界なしの無償サーバーを申し込み、承認を得られたが、利用制限、信頼度、等を再考し、キャンセル。 最終的 に、現在のinfoseekの比較的低額の有償サービスに入ることにした。ベーシックサービスで容量300MBあるので、かなり画像データベースを追加し ても余裕があるため、安心と云うところです。

とは云っても、まだやっと形ができたところなので、これから大変と自戒しています。

無為庵主人とは、こんな人です -4 
絵画については、若い頃から、モロー、ゴヤ、ボッシュ、ブリューゲル、ビアズリー、ルドン、ダリ、そして加山又造、池田満寿夫、横尾忠則、織田広喜、星襄一、富岡鉄斎、と脈絡のない形で付き合ってきました。

このような絵画との付き合い方がガラリと変わったのは、今考えると、1980年代初めに私が直面した仕事の上での一連の事柄と深く関わっているようです。

1980年、40歳、部長職に就いたばかりのとき、海外で立ち上げた開発、製造、販売会社を撤退、続いて海外2カ国で受注した大型商談で、巨大な損失を出 す、という破目にに陥りました。金額面、ブランド面、何れも会社始まって以来の大事件でした。確かにすべてが私の責任とは云えませんが、担当責任者には違 いなく、会社での私の将来はなくなった、というのが自他ともに認める状況でありました。

それからほぼ一年、どん底の精神状態を経て行き着いたのは、中小企業を2,3社潰したレベルのことをやったのだから、サラリーマンとしては「以て瞑すべ し」、第二のサラリーマン人生をスタートすればいいのだ、との認識でした。

ただ方法論は根本的に変えなければならなくなりました。それまでは、より新しい、より重要なプロジェクトを、人より一歩先んじて手掛け、成功させることが すべてでした。その実現のため昇進することも重要な要素の一つと認識していました。 このアプローチが不可能になったのです。
それからは、与えられた仕事に対して、自分がかくあるべしと思ったことを徹底して実行する、ということに目標を置くことにしました。上司がどう評価する か、あるいは結果の成否に関係なく、自分が立てた目標を遂行し、自分が評価する、というかなりストイックものですが、落ち込んだ自分を立て直す力になりま した。

肩の力が抜け、仕事へ自然体で向かえるようになったのを憶えています。

このような生活信条の変化を背景に、絵画との付き合い方も変わりました。 いわゆるディレッタント的ではなく、日常的に傍にあって素直に向い合え、親しむ ことができる絵画への傾倒です。 これが中国国画との付き合いの取っ掛りであったようです。
無為庵主人とは、こんな人です -3 
中学の頃から文学志向であったが、父を戦争で亡くし, いわゆる母子家庭であったため、大学は確実に就職できる工学部を選んだ。しかし、講義には殆ど出ず、同人誌をつくり詩や小説を書く不真面目な学生であっ た。そんな学生であったためと病気をしたこともあって、1回生の時、留年。 以降、さらに講義に出ない日々となり、家にいては読書か同人誌の原稿書き、外 へ出ると古本屋巡りと映画館回りに明け暮れる毎日であったが、なんとか卒業。

通信機器企業に就職。生活のためとは言え少なくとも毎日8時間は拘束されるサラリーマンになってしまったからには、仕事を面白く感じなくてはやっていけな いと仕事に没入し始める。すると、これが結構面白く、結果として四十数年間続けることになってしまった。
以降、文学は趣味と割り切り、書くことは止め、雑多な分野の書籍蒐集と乱読に徹するようになった。

一方、高度成長の時代で仕事は拡大し、75年頃からは海外進出ブームの波に乗り、技術屋として開発をしながら海外顧客に製品を売る、ついで海外に開発、製 造、あるいは販売の会社をつくる、というエキサイティングな日々になった。

80年から中国に出かけ始め、これが碑帖、法帖、國画への取っ掛りになった。 顧客とのネゴが長引くと、時間潰しのため街に出る機会が増え、本屋、骨董屋 を訪ねている間に碑帖、法帖、國画を知り、その魅力に取り付かれた。特に、北京瑠璃廠の慶雲堂では碑帖・法帖関係、榮寶斎では國画、の良いものが多く、中 国書店、古籍書店では書籍と、北京に出張すると出かけたものです。また、西安には合弁会社をつくったこともあり、碑石を多数展示する西安碑林にはよく足を 運んだ。商談で出かけた都市は数十ヶ所に及んだが、時間を見つけては博物館、書店、画店に行くようになり、部下や営業マンも呆れていたようだ。
無為庵主人とは、こんな人です - 2
隠居所を建てたとき、これからは無為徒食の生活に入るのだと、深くも考えず「無為庵」と名付けた。最近になって「無為庵」を調べてみると、
    - 江戸時代の儒学者 無為庵如黙
    - 江戸時代の俳諧師 三浦樗良の号
    - 楠木正成が自決した広厳寺の寺坊の名
    - 明治の曹洞宗総持寺三世貫主西有穆山の号
など多数あり、ちょっと軽々に付けてしまったな、と反省しています。

また、「無為」という語も
    - 何もしないで、すごす。〔老子〕
のほか
    - 自然のままで、人工を加えないこと。〔史記・老子〕
    - 相対的な現象を超越して、因果の関係にとらわれない常住不変の存在。
      真理をいう。涅槃(ネハン)・法相・実相ともいう。《仏教》
など、深い意味のある言葉であることを知りました。

しかし、今更変えるわけにもいかないので、このまま無為庵で通すことにします。
無為庵主人とは、こんな人です - 1

ⅠT企業役員を02/06に退任、2年間顧問として過ごした後、04/06退社。四十数年間のサラリーマン生活を終え、隠居生活に入った。
現役引退時に終の栖(棲家)を建て、「無為庵」と名ずけてその主人に納まった。若い時から集めた蔵書の収納場所、そしてこれからの殆どの時間を過ごす居場所として書斎をつくった。

しかし、古女房より「今後、書籍は書斎のみに置くこと。溢れた書籍は処分すること。」を条件にされ、以前の家ではあちこちの部屋に分散収容されていた書籍 は予想以上に多く、数千冊を処分し、やっと収まった。所詮、死ぬまでにどれだけの本を読めるかと計算すれば、あと十年、一日一冊読んでも4千冊弱。 とは 思うものの、処分する本を選択するのに、悩みながらの数ヶ月。古本屋を呼んで処分を依頼すると、「お客さん、この本今は売れないんですよ。マンガ本とか、 サブカルチャーものなら高くお引取り出来るのですが、業者の市でも値がつかず、我々も困っているんですよ」と。泣く泣く超安値で引き取ってもらった次第。

あれからもう3年、蔵書を読むより、新たに購入する方が遥かに増さり、既に書斎の床はうず高く書籍の山が連なり、女房からは「掃除も出来ない。本棚に入ら ないものは処分せよ」とのお達しが出る毎日をおくっている。

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