唐 太宗

太宗(李世民) たいそう(りせいみん) 598〜649 中国、唐の第2代皇帝。在位626〜649年。太宗は廟号で、姓名は李世民。父は唐の開祖、高祖(李淵)。わかいころから聡明で人望があつかったとされ、隋末の混乱の際、父に挙兵をすすめ、兄の李建成とともに父をたすけて隋の都大興(長安)を占領した。やがて煬帝の死により李淵は即位して唐をたてたが、そののちも李世民は群雄を平定し、統一に貢献した。こうした李世民の活躍と人望を、皇太子李建成と弟の元吉はうとんじるようになり、身の危険を察知した李世民は、機先を制して2人の兄弟を玄武門で殺害、兄にかわって皇太子となり、高祖の譲位ののち第2代の皇帝となった。

太宗は高祖にひきつづいて中央集権化につとめ、また、房玄齢、李靖、魏徴など多くの賢臣にめぐまれて民生の安定をはかったので、その治世は年号をとって「貞観(じょうがん)の治」と称された。太宗と群臣の問答集「貞観政要」は、帝王学の教科書としてのちまで愛読され、また太宗のもとにつどった学者や文人に命じて、「五経正義」や「梁書」など5王朝の正史をつくらせた。「晋書」にはみずから筆をいれている。また、書の名手だったことも知られており、王羲之(おうぎし)の書を熱愛した。

対外的には、東突厥以下周辺諸国を支配下におき、彼らから「天可汗」、つまり君主とあおがれた。そして、各民族に自治をさせる羈縻政策を確立し、一大帝国をきずきあげた。しかし、晩年の高句麗遠征には失敗し、病弱で凡庸な後継者、李治(のちの高宗)の問題とともに、晩年の太宗を大いになやませた。陜西省礼泉県に皇后長孫氏とともにほうむられた昭陵がある。

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