参考 井真成墓誌



1.概要

2004年9月西安の郊外で工事中に偶然「井真成墓誌」(せい・しん・せい墓誌)が発見された。 
『公、姓は井、字は真成、国は日本と号す』と記されていたことより、日本という国号の最も古い記録としても、大きな話題となった。
発見以降、中国、日本の諸学者が調査研究を行っており、その専修大学・西北大学共同プロジェクト・チームの一次調査結果が『遣唐使の見た中国と日本』(朝日新聞社刊)として05年7月に出版された。 
以下に、調査結果を踏まえて概要をを記す。

 

1.1 誌石
埋石:唐 開元22年(734年)  
誌形:辺長が約40cmの正方形。 墓誌石と蓋石からなる。
字組:蓋石 4行 各3字   
    墓誌石 12行 各16字 (誌面に4行分の空白あり)
          3行目から11行目まで、先頭の文字が欠落している。

蓋石拓本

墓誌石拓本


1.2 蓋石文
誌府奉贈
之君御尚
銘墓井衣
      
1.3 墓誌文
   原文 (原文は縦書きであるが、横書きにしている) ( “□”は欠字 )

  贈尚衣奉御井公墓誌文 并序
公姓井字真成國号日本才稱天縦故能
□命遠邦馳聘上國踏禮楽襲衣冠束帯
□朝難与儔矣豈啚強學不倦問道未終
□遇移舟隟逢奔駟以開元廿二年正月
□日乃終干官弟春秋卅六     皇上
□傷追崇有典  詔贈尚衣奉御葬令官
□即以其年二月四日窆干萬年縣滻水
□原禮也嗚呼素車暁引丹旐行哀嗟遠
□兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
□乃天常哀茲遠方形既埋於異土魂庶
歸於故郷
    
   読み下し文 (東野治之 奈良大学文学部教授による)
贈尚衣奉御(しょういほうぎょ)井公の墓誌の文。 序并(あわ)せたり
公は姓は井、字は真成。 国は日本と号し、才は天の縦(ゆる)せるに称(かな)う。 故に能く命を遠邦に□、上国に馳せ聘(むか)えり。 礼楽を踏みて衣冠を襲う。 束帯して朝(ちょう)□、与(とも)に儔(たぐ)うこと難し。図らんや、学に強(つと)めて倦まず、道に問うこと未だ終らざるに、□移舟に遇い、隙(げき)、奔駟に逢わんとは。 開元二十二年正月□日、乃ち官弟(かんだい)に終わる。春秋三十六。 皇上、□く傷みて、追崇するに典有り。 詔して尚衣奉御を贈り、葬は官を令()て□せしむ。 即ち其の年二月四日を以て、萬年県の滻水(さんすい)の□原に窆(ほうむ)る。 礼なり。 嗚呼、素車(そしゃ)、暁に引き、丹旐(たんちょう)、哀を行う。 遠□を嗟(なげ)きて暮日に頽(たお)れ、窮郊に指(おもむ)きて夜台に悲しむ。 其の辞に曰く、□は乃ち天常(てんじょう)、哀(かなし)きは茲()れ遠方なること。 形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)うと。

   釈文 (気賀澤保規 明治大学文学部教授、その他による)
公は、姓は井、字は真成という。 祖国は日本で、天賦の才能が認められ、選ばれて遠国の日本から、国命を帯びてわが唐朝に馳せ参じた。 その立ち居振る舞いは典雅で、衣冠束帯をつけて唐の朝廷に上がったさまは、堂々たるものであった。
ところが思わぬことに、一生懸命勉学に励み、学業がまだ終わらないその途中で、にわかに不幸(病気)に見舞われ、はかなくも開元二十二年正月?日に、官舎で逝去した。享年三十六歳であった。
皇帝陛下(玄宗)は大変遺憾に思われ、特別の思し召しをもって官位の追贈を決められ、詔を下して尚衣奉御(従五品上の位)を追贈し、葬儀は公葬で行わせた。こうして同年の二月四日、(長安東側を占める)萬年県の郊外、滻水の高台に埋葬した。
葬列は早朝に出発し、遠途にだんだん見えなくなってゆく夕日を嘆きつつ、郊外の墓地に向かっていく。
生には限りがあり、別れることは避けられぬことだが、この遠い外国から来た人の死去は特に悲しいことだ。遺骸は既に異土に埋められるも、魂は乞い願わくば故郷に帰らんことを。


2.解説 

  発見されてから1年強であるため、日中の専門家が研究を深めているとはいえ誌文の読みすら確定するに至っていない。 まして"井真成”その人については、何も分かっていない状況にある。
以下に、研究調査チームの成果の一部を参考に記す。

2.1  誌文に記された没年より、井真成は717年(養老元年)三月に難波を出発した第九次遣唐使団の一員であったとみられる。 
716年に元正天皇は多治比県守を押使に任命し、大伴山守を大使、藤原宇合を副使として、多数の留学生と留学僧による第九次遣唐使団を組織した。 大船4隻、総勢557名に及ぶ大規模なもので、空前のものだったらしい。 
井真成は玄昉、吉備真備、阿部仲麻呂などとともに十数人の留学生として選抜され加わったと思われる。 このとき、井真成は十九歳である。 (阿部仲麻呂は二十歳)
遣唐使団は三月に日本を出発し、年末または年頭に長安に到着したと思われる。時は玄宗の開元年間に入っていた。
遣唐使に随行した留学生らも歓待され、玄宗は詔して、鴻臚寺において四門助教に命じて教授させた。 ただ、貴族だった玄昉、吉備真備、阿部仲麻呂らは太学、などの高度教育を受け、官職にもついたが、井真成は四門助教のもとで教育を受け、没年まで官職にはついていなかったらしい。

2.2 井真成が死去したのは、734年(開元22年)正月早々、鴻臚寺の典客署の管理する外国人用官舎であったらしい。 玄宗皇帝はこの訃報を仄聞し、「尚衣奉御」の贈位と葬儀の官給を詔した。但し、この特段の措置は、井真成個人を哀れんでというよりも、このとき長安に着いていた第十次遣唐使団に対する外交的配慮ではなかったかと云われる。

2.3 第十次遣唐使団が733年末に入唐し、長安で玄宗に拝謁をすべく待機中であった。 第九次の留学生たちは、第十次遣唐使団に随行し帰国予定であった。 即ち、井真成は帰国直前に死去した。 玄昉、吉備真備、らはほぼ一年後に同行帰国している。 
但し、阿部仲麻呂は詩人の李白や王維らと親密なつきあいがあり、唐王朝に重用されていたらしく帰国しなかった。752年第十二次遣唐使団が入唐したとき(第十一次は計画されたが実施されず)、帰国することにするが、寧波より乗った第四船は海流により安南まで流され中国に戻らざるを得なくなったため、阿部仲麻呂は長安に戻り、結局終生帰国できなかった。 

2.4 井真成の出自は種々討議されているが、分かっていない。 井真成は日本の本名ではなく入唐後、名乗った唐風の名である。 日本人の4,5字の表記からなる氏と名を、3字の姓と名または字の唐名に変えるのは、史料上いくつかのケースがあり、これらにもとずいて種々議論されているが、研究者によりまちまちで、7世紀末から8世紀前半に対外関係で活躍した葛井氏(フジイ)、河内藤井寺を地盤とする渡来人系の井上忌寸氏(イノエイミキ)、などが比定されているが、いずれも未だしの検討レベルである。