柳公権

柳公権 りゅうこうけん 778〜865 中国、唐代後期の書家、政治家。字(あざな)は誠懸、京兆華原県(陝西省)の人。806年(元和元)に高等文官試験に合格し進士(→ 科挙)となった。政治家としては穆宗(ぼくそう)、敬宗、文宗の3代の皇帝につかえ、翰林(かんりん)侍書学士、中書舎人、工部尚書などの職を歴任して太子太保(皇太子の教育係)にいたった。しかし、彼はもっぱら文芸、書法の方面で重用された。

はじめ王羲之をまなび、のちにその他の書も幅広く研究し、彼独自の書風を確立したという。なかでも顔真卿の第一の後継者とみなされているが、なおいっそう力強く骨ばったものにした。そのため、端正ではあるが味わいがないなどと、後世に批判されることになる。

彼の代表作としては「大達法師玄秘塔碑」「神策軍紀聖徳碑」がある。前者は彼が64歳のときの楷書の碑であるが、鋭さ、厳しさにあふれている。1908年、フランス人ペリオは敦煌石窟から唐代にとられた「金剛般若経」の拓本を発見した。これは柳公権40歳代の作であるが、ここには諸家の筆法をかねそなえた、柔らか味をおびた美しさがみられる。穆宗皇帝に書道の秘訣を問われて、「用筆は心にあり、心正しければ筆正し」という名言をのこしたり、大臣や公卿(くぎょう)で親の墓誌を彼に書いてもらわなくては不孝者といわれたなどと、逸話も多くつたわっている。

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