乾隆帝

1711〜99 中国、清朝第6代の皇帝。在位1735〜95年。名は弘暦、廟号(びょうごう)は高宗。雍正帝の第4子として生まれ、25歳で即位して以後60年間在位し、康熙・雍正帝とともに、いわゆる「康熙・乾隆時代」とよばれる清の全盛期をきずいた。

即位後の乾隆帝は、軍事面で積極策をすすめ、1755年にモンゴル系ジュンガル部に対して兵をだし、イリを平定。58年にはジュンガルをほろぼして翌59年に東トゥルケスタン全土を制圧した。そして天山南路・北路をあわせて新疆(しんきょう:新しい土地の意味)と名づけて統治した。このほか雲南・四川などへ派兵し、ビルマやベトナムを朝貢させた。乾隆帝は、自らの10回にわたる武功をほこって「御製十全記」をつくり、「十全老人」と称した。

また乾隆帝は、「馬上朝廷」とよばれることもあったほど、各地に巡幸をくりかえし、その情景は「乾隆南巡図」などにえがかれている。さらに学術を奨励し、約300人の学者を動員して中国最大の叢書(そうしょ)とされる「四庫全書」をつくらせたが、いっぽうでは、きびしい思想統制をおこない、ささいな表現で多くの人が弾圧され、また多くの書籍が禁書とされた。

語学の才にもめぐまれた乾隆帝は、満州語の保存に力をそそぎ、また「チベット大蔵経」の満州語訳をすすめたり、満州語、漢語、トルコ語、モンゴル語、チベット語の対訳辞書「五体清文鑑」を作成した。芸術面では、イタリア出身の宣教師カスティリオーネを宮廷画家として重用し、乾隆帝の妃をえがいた「香妃像」などが今にのこされている。

乾隆帝の時代は、前代までにたくわえられた莫大な富を背景に、税の免税なども頻繁におこなわれた。しかし、晩年には大規模な軍事行動やくりかえされる巡幸などによって財政がくるしくなり、また和?(わしん)が権臣として政治を私物化するといった、清朝衰退のきざしがあらわれてきた。康熙帝の在位年数をこえるのを遠慮して1795年に退位し、翌年喜慶帝がたった。

Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.