顔真卿
709〜785 中国、唐代中期の政治家、書家。字(あざな)は清臣。魯郡開国公、平原太守となったことから顔魯公、顔平原ともよばれる。代々学者の家系で、五代の祖、顔之推(がんしすい)は「顔氏家訓」の著者、伯父の顔元孫は「干禄(かんろく)字書」の著者として有名。
737年の進士(→ 科挙)で、監察御史、憲部尚書兼御史大夫、刑部尚書などを歴任したが、生来剛直な性格で人の反感を買うことが多く、たびたび地方官におとされている。宰相廬杞(ろき)ににくまれていた彼は、李希烈が河南省の淮西(わいせい)で反乱をおこすと、その説得のために死地に派遣され、とらえられること3年、ついに屈せずして殺された。
書は彼の剛直不屈の性格をそのまま表出したような独特のもので、王羲之流の典雅な書風とはまったくことなる。「千福寺多宝塔碑」は彼が44歳のときの筆で、現存するもっともわかいときの書である。筆遣いは謹厳、結体(点画の組み立て)も整密で実用に適していることから、今日でも手本として利用されている。「顔氏家廟碑」「顔勤礼碑」などの石刻のほか、「劉中使帖」「祭姪(さいてつ)文稿」などの真蹟もつたわる。
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